「間(ま)」の哲学について:同一性論理、即非論理、差延論理、間論

「間(ま)」の哲学について:同一性論理、即非論理、差延論理、間論理ver2


今は、簡単に要点だけ述べるが、私が考えている「間(ま)」(以下、「間」)とは、イデア界と現象界との「間」、ないし、イデア界、メディア界、現象界、三者の「間」である。
 なぜ、このようなことを言うのかと言えば、実際、生活している人間は、当然ながら、純粋に、イデア界ないしメディア界だけで、生きるわけにはいかないからである。理論的には、差異共振シナジーを中心にすべきであるが、実際生活する人間としては、現象界という環境に生きざるを得ないからである。だから、イデア界ないしメディア界のリアリティと同時に、現象界のリアリティの両面をもつことになるのである。この二つないし三つのリアリティが交差したところに、「間」が発生すると思うのである。
 今、ふと考えたのであるが、「間」とは、メディア界の様相ではないだろうかということである。イデア界の「わたし」と現象界の「わたし」が存する。しかし、前者だけでは、生活できない。他者がいるからである。他者との共存を考えなくてならない。そうすると、「わたし」を差異共振的にしなくてはならない。ここにおいて、イデア界の「わたし」と現象界の「わたし」が「調和」することになると思うのである。この差異共振シナジー・調和が、「間」ではないかと思ったのである。
 とまれ、要点は、2つの世界を同時に生きるという「実存」性をもつ人間存在は、イデア界極と現象界極という2つの極の間・中間を生きることになるのである。この間・中間が「間」である。イデア界と現象界との「間」に生きる存在としての人間である。そして、この「間」は、差異共振シナジー相になると思われるのである。
 グローバル資本主義は、現象界経済であり、イデア界的根源を忘却していると思う。イデア界的根源を視野・地平に入れた時、「間」=差異共振シナジーの経済が考えられてくるだろう。「間」的経済である。これは、私がこれまで、何度か言及してきたルネサンス型資本主義に通じるものである。これは、現代で言えば、ポスト資本主義になるだろう。
 では、「間」とは「資本」としては、どういうものだろうか。これは、いわば、マイナス資本ではないだろうか。では、それは、贈与なのだろうか。私の直観では、贈与は、「間」資本ではない。それは、プラス資本の一部である。思うに、「間」経済とは、精神経済である。精神の富を創造する経済であり、現象界経済とは異なるのである。現代の資本主義が、現象界経済ならば、「間」経済とは、イデア界から発する差異共振シナジー経済である。それは、精神経済である。精神資本経済である。
 後で、再考したい。


p.s. 精神資本とは、いわば、不可視の資本である。計算できない資本である。つまり、精神という富の資本なのである。これは、いわば、高次の資本である。そう、高次資本であり、高次資本経済と言えよう。


p.p.s. 本文は、不整合な点がある。即ち、冒頭では、差異共振シナジーが理想であると言い、その後、それが、「間」であると述べているからだ。後で整理したい。
 また、私の最初の直観・ヴィジョンを、直截に表現していないうらみがあるのであるから、再考したい。


3p.s.  私が最初に考えたのは、同一性自我=近代的自我の二項対立性的0か1の論理を、相対化するものとしての「間」である。そう、例えば、二項対立論理では、 Aは、海であり、Bは山である。A≠Bである。だから、排中律で、AとBの間には、中間がない。Aは海であり、海以外のものではないのである。Aか又は、 ~A(非A)かのどちらかである。
 しかし、「間」の哲学・論理では、Aと非Aの間にXがあるのである。わかりやすくするために、Aを「わたし」としよう。「わたし」と非「わたし」が現象界に存する。これは、正に、アイデンティティIDである。「わたし」は、Aであり、非Aではない。一義的に「わたし」が決まる。
 しかし、「間」の哲学論理では、「わたし」はイデア界の「わたし」、特異性の「わたし」、絶対的差異としての「わたし」としても存するのであり、単に、現象界の「わたし」=Aではないのである。即ち、言わば、原「わたし」・原A(protoA)も存するのである。だから、結局、 Aと非A以外に、原Aがあるということになり、二項対立論理が崩壊するのである。ということで、「間」とは、原AとA・非Aとの間(あいだ)にあるのだから、上述したように、イデア界と現象界のあいだにある。
 では、問題は、この「間」とメディア界の関係である。これは、微妙である。思うに、前者は、デリダ脱構築理論に似たようなものだろう。極性の揺れ動きであるからだ。イデア界と現象界の極性間のゆらぎである。そう、私が最初の直観したのは、現象界の二項対立の論理に対する相対性としての「間」である。確かに、スタンスは、デリダ脱構築理論と似ている。しかし、相違を言えば、「間」の哲学は、イデア界と現象界との「間」の説くのであるが、デリダ哲学は、メディア界と現象界の「間」を説いていると考えられるのである。というのは、脱構築理論とは、差延の論理に基づくと考えられるが、それは、現象界の同一性論理に対するメディア界の対極性の論理による相対化を意味すると考えられるからである。換言すると、メディア/現象境界で思考しているということである。
 さて、「間」とメディア界ないし差異共振シナジー相との関係である。これは、同じではない。というのは、後者は、即非の論理、「ターシャム・オルガヌム」になるからである。即ち、Aは、Aであり、且つ非Aであるという論理である。それに対して、「間」の論理は、原AとA≠非Aの間の論理である。とりあえず、間論理と呼んでおこう。同一性論理、即非論理とは異なる論理である。即非論理ならば、間論理とはなるが、その逆は成立しないだろう。


4p.s. 考えると、デリダ哲学は、禅や大乗仏教の論理に近いと言えよう。同一性論理を解体する差延の論理は、それ自身の同一性論理によって解体するというのは、真理は、言葉=同一性論理では、語れないということを意味するからである。とまれ、デリダ哲学は、「間」の論理の非実際的な極論として位置づけられるのではないだろうか。
 さて、まとめると、結局、イデア界とメディア界と現象界の三者の間(あいだ)の「間」の論理があるということになるのではないだろうか。換言すると、原差異と共振差異と同一性の三つの相(様相)があり、この間(あいだ)に、流動的な論理、即ち、「間」の論理が生起していると言えるのだろう。だから、三相間論理と呼べるだろう。つまり、イデア界とメディア界と現象界とが、常に、合流している論理世界である。三つ巴の紋(ないし三輪)やボロメオの輪や三位一体を想起する。



三つ巴

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Tomoe.jpg



三位一体

http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Dreieinigkeit.gif


参照:
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016732087.html