不連続的差異論入門:その7

どうやら、再び、難問に逢着しました。即ち、輪廻転生があるのか、どうかです。しかし、今回は、差異の反復、差異のプログラムという観点があります。連続・同一性である自我の反復という意味の輪廻転生に関しては、簡単に否定できます。「わたし」は復活しないということです。結局、「わたし」を構成している差異、差異の連結の連結、差異のプログラム、差異の遺伝子の反復とは何かです。
 ここで、人間の差異構成を再確認しましょう。

差異連結1ー差異連結2ー・・・差異連結n

これが、人間現象体です。つまり、差異連結の複合体です。そして、メディア界は、以下となります。

差異連結1⇔差異連結2⇔・・・⇔差異連結n

この差異連結の連結を構成するプログラムがあるはずです。遺伝子です。DNAの二重らせんを考えますと、4つの塩基におけるペア(対結合)の連鎖であります。この二重らせんは、メディア界の存在様式から決定されると思います。即ち、メディア界は、

d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn

であり、

d1±d2±d3±・・・±dn

です。これを展開すると、

A)d1+d2+d3+・・・+dn
B)d1+d2+d3+・・・+dn

になります。AとBのdをd1d4に限定すれば、4つの塩基に相当するでしょう。ただし、この、いわば、縦連結は、無限的なりえます。
とまれ、AとBの横連結が、二重らせんになります。
 さて、4つの塩基とは、アデニン (A),グアニン (G),シトシン (C),チミン (T) です。これが、いわば、順列化するのです。ですから、
4のn乗の順列が生成し、また、それと対の同数の順列が生成します。しかし、「2 本の鎖の塩基間は水素結合 という弱い結合で結ばれているが,この塩基対は必ず A と T または G と C という組合せのどちらかである。」(ネットで百科@Home)です。これで、メディア界の構造で、DNAの二重らせん構造が説明されるとします。
 問題は、この二重らせん構造を形成するプログラムは何かということです。単に、アットランダムということでしょうか。ならば、反復されません。差異を配列するプログラムがあるはずです。差異の連結をたとえば、アミノ酸にしますと、アミノ酸の連結で、たんぱく質が形成され、有機体が構成されます。このアミノ酸の構成には、遺伝暗号の単位のコドンが関わっています。これは、A, U, G, Cの四種の塩基からの3個の順列から構成されます。即ち、
4×4×4=64種類です。これが、プログラムの一つでしょう。これは、2×2×2・2×2×2に変換できます。これは、実は中国の易経の卦の数です。64種類の卦があります。八卦です。(相撲のハッケヨイです。)
 では、この64種類の構成要素を規定するプログラムは何かとなります。ここで、図化してみます。

1)A+ーB+ーC

2)Aー+Bー+C


という対・ペアが考えられます。そして、Aには、虚力による、構築と脱構築(解体)の2通りの力が作用すると考えられますから、1)は2×2×2=8通り、同様に、2)も8通りでできます。そして、これが、二重らせんとしてのは、8×8=64通りになるでしょう。すると、3という数ないし元が決定的なものとなります。3とプラグラムが関係するということです。

差異連結1⇔差異連結2⇔差異連結3

これが、生命のプログラムでしょう。差異連結とは、差異の組み合わせではなくて、差異の縦列です。ですから、差異連結は、差異順列で、
permutation of differenceですから、pdと表記しましょう。

pd1⇔pd2⇔pd3

そして、pd自体は、多様な差異連結であるでほう。すなわち、

pdn=d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn

です。差異は理論上、多数ないし無数ですから、メディア界のプログラムは、多数、無数のプログラムをもつということになるでしょう。多種多様なプログラムです。
 さて、ずいぶん、本論から外れてしまいましたが、差異のプログラムに関する必要な脱線です。結局、差異の反復とはどういうことでしょうか。3元的差異連結の反復ということになるでしょう。考えますに、生命体は、この3元的差異連結性で共通でしょう。ここでは、コオロギも人間の同じです。ここで、「山川草木 鳥獣虫魚 悉皆成仏」という仏教思想が浮かびます。さて、この差異の反復と個とはどう関係するのでしょうか。「わたし」の個としての差異のプログラムがあるでしょう。たとえば、「わたし」の生体からDNAをとり出して、クローン人間を創ったとします。「わたし」のクローンです。DNAの情報はまったく同じはずです。このDNAの反復は、差異の反復、個の反復でしょうか。これは、そうではないでしょう。なぜなら、DNAと差異連結とは別のものだからです。DNAは、差異連結・差異遺伝子の物質的表現ではあっても、差異連結自体の表現ではありません。つまり、DNAは、差異連結の容器に過ぎず、それは、差異連結の連続・同一性的表現ということになります。
 では、差異連結にもどって考えてみます。差異連結が差異遺伝子として、考えますと、この反復とは何であるのかということになります。結局、主導しているのは、原動力は、イデア界の虚力であります。これが、差異連結の反復を駆動するのです。「わたし」が死んでも、この差異連結という「差異」は残るのではないでしょうか。では、この個の「差異」は、何でしょうか。これは、「わたし」以外の「あなた」や「彼女」の個を発現するのでしょうか。おそらく、そうでしょう。「わたし」という連続・同一性は、幻想です。特異性が「わたし」の真実在です。そして、自我ではなくて、特異個はあるでしょう。ということは、特異個としての差異連結性があるはずです。特異点である差異の連結です。特異点である差異の連結とは、特異点的普遍性です。結局、差異連結としての個は、「輪廻転生」すると言えるでしょう。しかし、これは、自我のそれではありません。いわば、ポスト・ヒューマン、超人の「輪廻転生」です。普遍人のそれです。ですから、「わたし」は個としては、この世においては、イデア界の回帰によって存していると言えるでしょう。「わたし」は消滅しますが、「わたし」の個・特異性・差異は永遠回帰するということになります。「わたし」とは何でしょうか。空というのは正しいでしょう。しかし、もっと的確に言えば、「わたし」とは、不連続的差異の連結とその連続・同一性(自我)との中間者でしょう。後者は消滅します。私の物質的身体は消滅します。しかし、差異連結、差異のプログラムは不滅です。
 さて、最後の問題は、現象界的時空間的特定性とこの差異連結との関係です。今、「わたし」は、(x1t1,y2t1、z1t1)に現象しています。(x、y,zは、空間座標で、tは時間です。)「彼女」は、今、(x2t2,y2t2、z2t2)に現象しています。時空間現象の区別があります。しかし、これは、メディア界による現象であり、メディア界においては、原時空間として共通です。では、現象界の区別はどうして生じるのでしょうか。それは、視点の違いです。この視点は、差異と差異とのズレ・「差異」から生じるでしょう。いわば、差異と差異との連結の様相から生じるのでしょう。つまり、イデア界の虚力によって、永遠回帰が為されています。この永遠回帰は、メディア界において、差異の様相を形成します。あるいは、差異の強度を形成します。これが、時空間を形成する根源です。そして、差異の強度から、新たに直交的な、垂直の「力」が発生します。これが、現象の力です。とりあえず、現象力と呼びます。この現象力が、時空四次元を形成しているのです。この現象力において、「わたし」と「彼女」が現象しているのです。差異の強度による現象力は、物質力と呼んでもいいでしょう。結局、差異、差異連結の強度のもつ変動によって、現象力が発出します。そして、強度の変容とは、イデア界における差異の回転、虚力によります。そうならば、虚力の変動が差異の変化を生んでいるとなるのではないでしょうか。つまり、「わたし」と「彼女」の「差異」とは、イデア界の差異、虚力の差異によるということではないでしょうか。すると、個、特異性とは、共通普遍性をもつものの、根源的な差異があることになります。イデア界における不連続的差異の差異です。簡単に、差異の差異、ダブル差異、ないし差差異と呼びましょう。結局、差差異が「わたし」の個、特異性となります。すると、この差差異は、永遠不滅ですから、「わたし」の個、特異性は他者から不連続に永遠回帰することになるでしょう。つまり、特異点とは、イデア界の普遍性と同時にイデア界の特異性でもあるということになるでしょう。単に、普遍ということではありません。結局、「わたし」は個、特異性として、イデア界においても個、特異性であり、他者と不連続であるということになります。これは、不連続的「個」ないし不連続的原個とでも呼べるでしょう。この不連続的原個が、いわば、輪廻転生するのです。ここで、想起するのは、インド哲学です、アートマンの思想です。これを自我や個体としてのは誤りです。これは、不連続的原個と見るべきだと思います。用語から言うと、不連続的差異でもいいと思います。原個も差異として存するからです。すると、不連続的差異論は、ウパニシャッド哲学も包摂することになります。仏教も包摂した上でです。そう、仏教的ウパニシャッド哲学と言うべきでしょう。
 ここでまとめすと、輪廻転生は無いのであり、同時に存在するということです。「わたし」は消滅しますが、個、特異性は、永遠回帰するのです。不連続的差異論的永遠回帰論です。