不連続的差異論入門:その21

メディア界の女男的差異:差異共存志向と利己的志向

ずいぶん前に、女性の差異は高貴で、男性のは劣弱であると述べたことがある。今、不連続的差異論から、再考したい。
 議論上、論点を単純化しているが、女性は、メディア界において、差異共存志向を保持し、男性は、差異共存志向を排出・隠蔽して、利己的な自我主義になるというようなことを以前述べたのであり、それぞれを、高貴、劣弱と見たのである。形容はともあれ、基本的な見方は、それはど変わっていないが、より客観的に見たい。
 一つの仮説として、生理学上、女性は、子供を産み、子育てするようになっているのではないだろうか。問題の立て方がすこしまずいようだが。とまれ、女性において、差異共存志向が強いとは基本的に言えると思う。(例外はたくさんあるが。)つまり、反感より共感性が強いということである。スピノザ的に言えば、歓喜が男性よりも強いということになる。これはどういうことなのだろうか。そう、また、女性の方が、男性よりも、イデア界的存在であるとも述べた。イデア界に、男性よりも、接しているということである。これらをどう理論的に説明できるのか。
 これは、人間だけでなく、生物の性分化の問題に関係するだろう。雌雄分化のメカニズムは何か。ここで、仮説的に考えよう。即ち、メディア界において、ある種の分化、二分化が生起したとしよう。(これは、DNAの二重らせんとも関係すると思う。)つまり、よりイデア界よりのものと、より現象界よりのものである。つまり、イデア極的なものと、現象極的なものである。
イデア極 d1⇔d2 女性、メス
現象極 d1・d2 男性、オス
つまり、メディア界において、よりイデア極的な差異の連結(差異共存志向)と、より現象極的な差異の連結(差異連続化志向)の二つの分化が生起、発生したとしよう。メディア界とはゆらぎの領域であるから、両極にゆらぐ、ゆれる、振れると言える。そして、イデア極に振れた場合に、現象化したのが、女性、メスであり、現象極に振れたときに、現象化したのが、男性、オスではないだろうか。現象化とは、連続・同一性化である。即ち、イデア極へ傾斜したときの連続・同一性化=現象化が女性、メスであり、現象極へ傾斜したときの連続・同一性化=現象化が男性・オスであるということではないだろうか。もしそうならば、女性は、差異共存性が強く、連続・同一性が弱く、男性は、差異共存性が弱く、連続・同一性が強いということになるだろう。
 ここで、少し整理しないといけない。メディア界の現象極の差異連続化性と、現象化を意味する連続・同一性化が混同されるおそれがある。ここで、強度極性の概念を入れよう。即ち、イデア極は、マイナス強度であり、現象極は、プラス強度である。だから、男性の場合とは、プラス強度の連続・同一性化であり、女性の場合は、マイナス強度の連続・同一性化ということになる。これは、どういうことかと言えば、男性の場合とは、プラス強度の偏り、傾斜をもったメディア界の現象化であり、女性は、マイナス強度の偏り、傾斜をもったメディア界の現象化であるということだと考えられる。メディア界の極性の濃度の違いと言ってもいいだろう。つまり、イデア極の濃度が濃いメディア界の現象化が女性であり、現象極の濃度が濃いメディア界の現象化が男性であると。だから、極性、濃度の違いが、女男にあることになる。それが、初めに述べた、差異共存志向(高貴さ)と利己的志向(劣弱さ)に相当するのだと思う。母権性と父権性と言ってもいい。そして、マイナス強度とプラス強度は、極性として牽引するということになり、これで、エロースが説明されるだろうし、プラトンの有名な『饗宴』のエロース論も説明できるだろう。
 では、さらに敷延的に検討すると、では、母権制父権制の発生はどう説明できるだろうか。また、女性の権利、フェミニズムの問題は、どういうことなのだろうか。神話学や人類学から、父権制以前に、母権制社会があったことが確認されている。女神の文化社会である。古代農耕社会である。これは、日本のヒミコや縄文文化から見て、女性中心社会であり、差異共存志向が強かったと考えられる。平和志向である。しかるに、天皇制の部族がやってきて、父権制、男性社会に変化した。国家社会である。この父権制は何なのか。これは、女性の差異共存志向が否定されて、男性の利己的志向が肯定されたことを意味しよう。この転換の意味とは何なのか。これは、当然、日本だけでなく、世界的に起こったことである。これは、何なのか。簡単に言えば、力、強度の変化があったということである。ここで、作業仮説であるが、メディア界の極性のリズム、周期があり、それの変化に応じて、極性変化が生じて、女性強化となったり、男性強化になるように思える。すると、この極性周期、いわば、ジェンダー周期によって、母権制父権制が形成されたすると、現在の父権制は必然的に解体することになり、新たな母権制が生起することになるだろう。
 そして、私が説いている差異共存型資本主義というのも、自然の必然性があって、単なる理論や願望だけではないということになる。とまれ、この極性周期については、別の記事で論じたい。





<不況の原因> この不況は人為的な不況である

資料です。

私の直観では、小泉は、竹中を盲信しているのであり、ここに最大の問題点があると思う。以下、小野寺氏が述べていることは正しいと思う。もっとも、一番の問題は、マスコミが、きちんとした分析をせずに、大政翼賛会になったことだろう。政官財メディアの癒着が、日本をだめにしていると思う。アメリカ真理教に洗脳された、マインドコントロール国家となってしまっている。この呪縛を越えないといけない。
 それにしても、個人的には、竹中が一番ワルだと思っている。慶応大卒で、ハーヴァード大研究員の経歴、完全なエリートお坊ちゃんである。彼には民衆・庶民(庶民衆)は、存在していない。ただ、洗脳され植え付けられた、日本売国・亡国計画をあるだけである。また、平気で嘘をつく人格である。これが、恐ろしい。嘘は泥棒の始まりとはよくいったものだ。不誠実な、虚偽的な性格の持ち主。小泉は、能天気なお馬鹿なだけであるが、竹中は、きわめて邪悪であると思う。魂を悪魔に売った人物である。私は、彼の人生に何があったのかと思う。彼の人生を分析したい気がある。最高度のいかがわしさを感じるのである。また、あの表情、風貌も、というか、に、なにかがある。アメリカ金融の外交官である。そう、日本人ではないと思う。彼の空虚さは、彼の存在が日本にいないことから来ているように思う。つまり、傀儡、操り人形である。ウォール街真理教の前線隊長である。まだ、肝心なことを言っていないと感じる。精神病理を感じる。「精神分裂症」である。スーパー・マインドコントロール大臣である。

p.s. そう、肝心なこととは、裏社会、裏組織のことである。国際金融「暴力団」が支配しているのだ。国際金融の暗黒集団。おそらく、それに脅されているのだ。恐怖の国際金融悪魔集団に睨まれているのだ。それで、亡魂なのだろう。

p.p.s.  悪魔とは、自我主義者のことである。それは、これまで、考察したように、反感から来ている。反感が発生する心の闇がある。その心の闇とは、一種の弱さ、おそらく、男性のもっている弱さから来ていると思う。メディア界の虚弱さである。他者に耐える強さが欠落している男性の弱さから来ている。フロイトはマザーコンプレクスを見たが、マザーコンプレクスは原因ではなく、結果である。この男性の本性的劣弱さについては、別に検討したい。

竹中平蔵というガッツ石松金融大臣

<不況の原因>
○ 今現在不況なのは、小泉が、日本の企業を外資に乗っ取らせることを促進す
る法 案整備、
今まで景気回復のために役立ってきた道路公団郵便貯金を「景気回復させな
い」た めに外資に売却してしまうからである。

○ つまり中小企業や、多くの大企業も含めて、この不況が人為的な不況である
こと
を理解していない。原因追及の番組の特番を作ればよい。
(参考 日本経済生か死かの選択・リチャードクー これを読めばわかりやす
い)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198614296/qid=1111088388/sr=8-3/ref=
sr_8_xs_ap_i3_xgl14/249-9536616-6021159

竹中平蔵
○ たとえば、竹中平蔵氏がいる。彼は、もともと日本からハーバード大学に留
学し
ていった。米国では世界各国から来るエリートを選び、その人物に、洗脳教育を
施し
ていると聞く。つまり、「国際金融資本に、すべて任せることがよい」という洗
脳で
ある。

○ 竹中の推し進めてきた政策を振り返るとあることに気づく。それは、すべて日本
の企業を倒産させて、米国の企業に買い取らせるという結果になっている政策ばかり
であり、
しかも竹中はこれを「すばらしい」と表現している。

○ここでハーバードまで留学して、結局、「すべて国際金融資本に任せるべきだ」と
いう思想を植えつけられているとする。

<竹中の破壊の歴史>
・・・」
国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」
http://blog.mag2.com/m/log/0000154606/106318761?page=1#106318761





A)反感・反動⇒自我(エゴ)と、B)共感・能動⇒個吾(コギト)

人間個体をタイトルのように大きく二種類に分化できる。もっとも、実際は、混淆状態であることが多い。
 さて、近代的自我とは、当然、前者であり、後者の個ないし個吾(コギト)とは、デカルト哲学の忘失されている本質である。ナショナリズムファシズムに染まるのは、前者である。(ただし、ファシズムに関しては、経済状況をが大きな意味をもっている。経済的な閉塞状況が、ファシズム成立の前提条件と考えられる。第一次世界大戦後、ドイツ経済の大破局があった。)
 近代以前ないし近代前期においては、自然発生的なBの要素が残存しているので、社会に倫理があった。健全な常識・理性があった。しかし、近代後期になると、資本主義の進展によって、A化が進み、Bは、いわば、自然消滅する。利己主義が、蔓延するのである。そして、理性を麻痺させて、全体主義ないしファシズムへと発展する。(p.s. 単純化している、ないし短絡的であるので、訂正すると、実は、A化の進展に対して、B化が、深化されるのである。個人においては、分裂的になるし、理論においてのB化の進展があるし、また、社会においても、B化傾向をもつある種の層が生まれる。)
 不連続的差異論から見ると、Aとは、連続・同一性主義であり、Bとは、不連続・差異主義である。丁寧に見ると、A の反感とは、共感・差異共存性の否定であり、連続・同一性の志向力・反動力をもち、自我形成するといえよう。これは、また、ジェンダー的に言えば、父権志向である。また、Bは、差異共存主義であるから、他者を肯定しつつ、自己主体である個(不連続的差異、特異性)を基準とするのである。
 問題は、 A とBとは背理であることである。Aは、Bを否定し、Bは、Aを否定する。つまり、二項対立である。いわゆる、近代文学は、この矛盾を表現しているのであるが、後期近代となると、Bが社会全体に喪失されて、文学の近代主義が終焉するのである。これは、美術、音楽でも同じである。また、哲学では、独仏のものは、Bを探究し、英米はAにおける現実をベースにBに近いものを探究するように思える。そして、独仏においては、ポスト近代主義が明確になるが、ポストモダンポスト構造主義でわかるように行き詰まったのである。そして、グローバリゼーションが支配し、Aが主導的になる。そして、これは、必然的に、全体主義ファシズム志向をもつのであり、アメリカと日本はそのようになった。すなわち、反動・連続・同一性・自我主義的資本主義である。
 さて、ここで、不連続的差異論を考えると、これは、ポストモダンポスト構造主義の頓挫の後、それらを批判的に継続したものであり、Bの理論の創造的結晶であると考えられる。すると、AやAの支配する世界に対する、乗り越えの方向が理論的に明確になったと言えるだろう。ポスト・グローバリゼーションである。同一性の全体主義ではなくて、差異の共存主義の世界へと転ずることとなると言えるのである。





フッサールの現前性とデリダ差延:不連続的差異論の視点から

本題は、初期デリダの中心的テーマの一つであるが、不連続的差異論から、少し見てみよう。(今は簡単に触れるに留める。)
 現前性とは、簡単に言えば、ある客体がそこにあることを意味すする。たとえば、目の前に、パソコンがあるというようなことである。この現前性を前提にするフッサールに、デリダは批判を加えて、差延という概念を提示したのである。差延とは、簡単に言えば、差異、ズレである。たとえば、「現在」を知覚するには、過去の記憶が必要であるから、必然的に、現在とは遅延することを、差延デリダは呼んだのである。例えば、原現在があったとしても、近くされるときは、遅延された「現在」になるということである。そして、「現在」を、「エクリチュール」の痕跡とデリダは考えたのである。
 これを不連続的差異論から見ると、「現在」とは連続的概念である。だから、現前性も同様である。これは、デリダの言う通りである。つまり、「現在」や現前性は、同一性の連続性と存しているということである。そして、この連続的同一性に対して、デリダは、差延という概念によって批判を加えたのである。しかし、差延とは、差異、ズレであるが、ドゥルーズや不連続的差異論の差異では全くない。差延とは、真実在に対して、連続・同一性がもつ遅れを意味しているに過ぎず、真実在は、エクリチュール、アルシ・エクリチュール等と言及されるだけであり、明晰ではない。つまり、デリダは比喩的表現に留まっているのである。
 これに対して、ドゥルーズや不連続的差異論は、明確に、積極的に、差異を提起している。積極的な差異、積極的な根源、原基としての差異である。そして、不連続的差異論は、差異の連結する領域、領界として、メディア界を提示している。この差異の連結が連続化して、連続・同一性の現象界が発現するのであり、そこに現前性が生起するのである。この説明はまったく整合的、且つ、明快である。ここで、デリダエクリチュール理論を考えると、それは、このメディア界の比喩であると言えよう。確かに、メディア界は、差異の連結の多様な様相があり、エクリチュール(文字、書記)という視覚的観念は、比喩として使用できるのであるが、理論としては、不十分である。そして、現前性を痕跡とうするデリダの考えも、このメディア界の視点から説明できる。すなわち、メディア界の差異の連結という原事象があり、この痕跡として、現前性、現象があると説明できるのである。(ドゥルーズの差異の場合は、混乱していて、差延であり、また、連続・同一性であるという矛盾を犯していると考えられる。)
 さて、以上のように見ると、フッサール現象学は、どういうものだろうか。超越論的判断停止(エポケー)や志向性とはどういうものだろうか。私の今の直観では、フッサールドゥルーズのように、連続性と不連続性を混同しているのではないかということである。つまり、志向性という概念には、差異の、他の差異への指向があり、それは、十分、メディア界的概念であり、不連続的である。しかし、現前性への志向とは、連続的だと思うのである。





ファシズムの精神状況の分析:同化感情とは何か

先に、郵政民営化に洗脳されているブログに関して、反感が、対象への同化的感情を生み、ファシズムの精神になっていると述べたが、説明としては、説得力が足りないので、ここで、再考したい。
 小泉ファシズムに染まるのは、感情的に小泉に同化していることが、一番の原因だろう。自身と小泉とを、分離して、知的に判断するのではなく、感情移入して、感情主体に判断していることが問題である。感情移入はある意味で、大事な要素である。しかし、感情に知的な判断を下すのが、批評的には正しいのである。この知的判断が欠落しているのである。たとえば、首相が思い切って解散したのは、よほどの覚悟があるのだろうから、それを応援したいというような感情判断である。そう、感情同化判断が、右翼的、ナショナリズム的発想だと思う。本居宣長の「もののあはれ」という感情判断論が、先駆だろう。この感情判断論が、ナショナリズムを形成したのだろう。すなわち、物事を知的に判断するより、感情的に判断する精神性がナショナリズムや右翼の基盤にあるとうことである。そして、これが、現在、ファシズムへと帰結していると考えられる。
 だから、反感による同化感情がファシズムの大衆的感情であると先に言ったのは、少し訂正しないといけない。反感というよりは、同化感情、同化感情判断がファシズムの大衆の基盤であるということである。この同化感情判断が、(マスコミに助長されて、)大衆の理智を麻痺させていると言える。ここには、対象との距離、知的距離が欠落しているのである。宣長的発想に問題があると思う。
 さて、では、天皇制を含んだナショナリズムファシズムの基盤となるこの同化感情判断とは、理論的にはどういう精神の構造から発生しているのだろうか。不連続的差異論から解明すると、これは、メディア界の共感/連続・同一性の構造から来ていると考えられる。つまり、本来、差異共存の共感性があるのであるが、それが、未発達ないし弱化していて、連続・同一性の方向に引きずられている様態になっていると思う。共感性を思考・意識するならば、それは、差異共存的になるものであるが、思考・意識化が弱いために、連続・同一性の方向、同化の方向に引きつけられてしまうのだと思う。つまり、没思考・意識的な感情同化判断である。そう、弱い共感性はあるのだが、それが、同化感情に吸収されるのだ。
 さて、ここで整理すると、共感性の弱さ、思考・意識の欠落、そして、連続・同一性の欲望感情(同化感情)の三つが一体となって、同化感情判断を形成していると言えるのではないだろうか。一言で言えば、知的思考、論理的思考、批判的思考、批評的思考の欠落である。よく感性が好まれて、思考や知性や論理を嫌う傾向にあるが、感性と知性との相補性がなくては、健全な精神は生まれない。結局、知的訓練の欠落があると言わざるをえない。ゴヤが、「理性の眠りは怪物を生む」という戯画を描いたが、正にその通りである。感性と知性の相補性が理性である。とまれ、明敏明晰な理知的思考の没落があると言わざるをえない。

p.s. 上記の記事の内容を補訂しないといけない。「共感性の弱さ、思考・意識の欠落、そして、連続・同一性の欲望感情(同化感情)の三つが一体となって、同化感情判断を形成していると言えるのではないだろうか。」と結末に述べたが、やはり、反感性を置かないといけない。共感性とは、非自我的な倫理性をもち、他者指向をもつので、それが弱くても、知的距離を保持する姿勢をもつと考えられるからだ。だから、やはり、反感性もないといけない。反感性は個を閉ざすものであり、自我的同化感情と結びつくと言えよう。つまり、反感とは、自己中心主義的であり、この自己中心主義性(利己主義)と同化感情が結合して、同化感情判断が生起するのではと思われる。

画像:「科学のそして日本の新しい時代を迎えて」からゴヤの「理性の眠りは怪物たちを生む」
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsi2/Newsletter/JSI_Newsletter_vol7no2_p22.htm





反感の構造について:1

反感の構造について

メディア界が、感情の領域である。ここには、本来、差異共存の感情、共感性がある。しかし、幼児・小児における成長過程で、共感性への滋養である慈愛を受けないと、共感性の暗黒化が生じて、反感化して、いわゆるルサンチマン(怨恨)化する。ここで、考慮しなくてはならないのは、共感性とは、共感力であり、反感は、反感力である。これは、メディア界のイデア極のことであり、他方の現象極では、連続・同一性への感覚・欲望の力がある。このメディア界の両極の力は、イデア界の力が形成しているものである。
 問題は、イデア界とメディア界は隔絶しているのだろうかということである。また、メディア界と現象界もそうなのだろうかということである。直観では、隔絶していない。境界を介して接していると思う。つまり、イデア界の差異の共立性を、差異の共存性という形で、メディア界のイデア極を保持している。同様に、現象極は、連続性を帯びている。しかし、逆にいうと、現象界の境界は、メディア界の差異の連続化の指向を帯びているということである。だから、共感性の暗黒化である反感とは、イデア界の力を帯びていると言えるだろう。共感性は、共感力をもち、それは、差異共存の均衡・調和的な力である。ハーモニーである。これは、歓喜の力であり、メディア界を活性化する力である。スピノザの言う能動的な力である。それに対して、反感は、反感力をもつが、その力は、イデア界の調和的力の反動であり、敵対的、反発的、侮蔑的、等々の攻撃・暴力的力である。自己中心的、利己的、悪魔的力である。精神分析でいう死の欲動は、これを指していると考えられる。そして、このイデア極の力と現象極の感覚・欲望的力が結びついて、いわば、感情や情動を形成しているだろう。そして、現象化して、個体となるのだが、共感性は、個への指向をもち、反感性は、自我への指向をもつ。個と自我の2つのタイプが生じる。前者は、差異共存型であり、後者は、自己中心型(利己主義)である。
 問題は、両者の関係である。後者は、ルサンチマン型であるから、当然、前者に反感をもつのである。丁寧に見ると、前者は、共感力をもち、それを後者に発すると言える。しかし、後者は、共感力を、それとして感ずる力がないし、さらに、後者の反感力に対して、共感力が抑制するように働きかけるから、後者は、圧迫を感じ、反感的衝動・情動を発するだろう。そして、攻撃的になるのである。そう、悪意である。邪気である。このルサンチマン型人間は、根が悪だから、ある意味で、どうしようもない。善が欠落しているのである。
 結局、このようなルサンチマン型を発生させないようにしないと人間社会は混沌とする。しかし、近代主義は、このルサンチマン型なのである。自己中心的合理主義である。これが、資本主義と結びついて、悪魔的な社会が形成されたと言えよう。
では、なぜ、近代はルサンチマン型が中心となったのだろう。これは、推測だが、社会の解体がある。貧困等が発生する。共感性の暗黒化である。いわゆる、脱コード化があったのだろう。そのため、個人中心、自己中心となったと思う。つまり、社会コード、経済モードの解体があり、それによって、共感力の暗黒化が発生して、ルサンチマン、利己主義的な人間が発生したのだろう。

p.s. 近代主義が、ルサンチマン型であるというのは、理念型としてであり、実際は、差異共存指向とルサンチマン指向とが混合していることが普通である。だから、より正確に言うならば、この混合において、ルサンチマン指向が強化されたのが、近代主義であると言えよう。そして、近代主義は、経済的には、当然、資本主義である。





アニマ・ムンディ(世界霊魂)とメディア界

神秘学をかじったことがある人、あるいは、それに関係した文学作品(例えば、W.B.イェイツの作品)を読んだことがある人は、アニマ・ムンディ (anima mundi)という言葉を眼にしたことがあるだろう。これは、たとえば、ヘーゲルの世界精神、ユングの普遍的無意識、等々と関連性があるだろう。これを、単なるオカルト主義であるとして、否定するのは容易である。夢想家たちの、夢幻のたぐいであると、普通は考えるだろう。
 しかしながら、不連続的差異論のメディア界というものを考えてみると、メディア界とは、現象界(可視界)に内在する超越論的世界(不可視界)であり、実在的世界である。この不可視の実在する基盤的世界を考えると、これは、かつて、神秘家から言われたアニマ・ムンディの真相ではないかと思えてくるのである。中国では、神話・宗教的表象である龍が、これに対応するだろう。「気」の世界は、メディア界であると考えられるので、龍も「気」の世界の存在と考えることができるだろうから、やはり、メディア界の表象であると言えるだろう。
 この「アニマ・ムンディ」であるメディア界とは何だろうか。それは、差異の連結の多重多層な連結体であろう。根源的な構造体と言ってもいいだろう。プラトンのコーラである。これが、不可視界として、現象界に内在・潜在していると言えるだろう。そして、このいわば、包括・包摂的メディア界、大メディア界、コスモス的メディア界とは、各現象的個体のメディア界と交感・交通・交信しているのではないだろうか。すなわち、神秘学でいう、マクロコスモスとミクロコスモスとの照応である。個体内のメディア界がミクロコスモスである。そうすると、神秘学とは、それなりに、実在を表象していたこととなるだろう。ただし、物質よりも優れたものとして、霊や魂を述べている点で、誤りである。つまり、霊肉二元論であるのが誤りである。オカルト主義の重大な誤謬である。ユング共時性シンクロニシティは、簡単に説明できる。もう、神秘主義とは、オカルトとか、言われずに、自然の真理、実理として、認められるようになるだろう。
 では、占星術とはなんだろうか。それは、やはり、「アニマ・ムンディ」=メディア界的コスモスの真理の、極めて混乱し、堕落した表象なのだと思う。それは、本来、「アニマ・ムンディ」、メディア界的コスモスの叡智であったはずである。

p.s. SF作家フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』のvalisも、「アニマ・ムンディ」のSF的表現と言えるだろう。
参考:
VALIS Vast Active Living Intelligence System(巨大にして能動的な生ける情報システム)
http://viaggiatore.blog8.fc2.com/blog-entry-51.html

p.p.s. 世界霊魂とは、プラトンの『ティマイオス』の古代宇宙論で出てくる考え方であり、また、そこには、コーラの考えが出ているのである。世界霊魂もコーラも同じ世界構造体だと思うが。

Anima mundi
From Wikipedia, the free encyclopedia.

Anima mundi is the soul of the world, a pure ethereal spirit, which was proclaimed by some ancient philosophers to be diffused throughout all nature.

...Therefore, we may consequently state that: this world is indeed a living being endowed with a soul and intelligence ... a single visible living entity containing all other living entities, which by their nature are all related. Plato, Timaeus, 29/30; 4th century B.C.

The idea is said to have originated with Plato but the concept has been discovered to be of more ancient origin, and prevailed in systems of certain eastern philosophers. The Stoics believed it to be the only vital force in the universe.

Similar concepts were held by hermetic philosophers like Paracelsus, and later by Friedrich Schelling (1775-1854).

http://en.wikipedia.org/wiki/Anima_mundi





飲酒と発汗運動と自然環境

今、夏休みで、実家の千葉に来ているが、海が比較的近いので、自転車で、ほぼ毎日往復している。そして、何日か後、どういうわけか、不思議なことに、飲酒欲が忽然と消えてしまったのである。もし、これが、初めての経験ならば、身体の具合が悪いのではないかと思うところであるが、これは、ほぼ毎年夏になると起こることなのである。自然に禁酒状態になるのである。
 数年前までは、ストレスがないから、飲酒したくなくなると解釈していたが、どうやら、それは原因としては、あったとしても、微小であると思う。私が考えたのは、運動して発汗して、新陳代謝が活発になって、なにかが、体内から抜けてしまったことが一因であり、また、農村の自然環境の空気の新鮮さがそれに少し関係しているようである。つまり、自然環境の中での発汗運動によって、禁酒状態になってしまったと考えているのである。ポイントは、発汗運動であろうが、自然環境とのセットであることは、欠かせないように思えるのである。都会で、行っても、こうはならないだろう。
 では、この仕組みはなんなのであろうか。酔うとは、快感を形成する。しかし、飲酒する必要がないというのは、快感を自然環境内発汗運動で得ているということではないだろうか。それは、自然と身体との交感・交通・交流ではないだろうか。都会だとそれが、得られないから、自然/身体的欲望のストレスが溜まり、その結果、飲酒するのではないだろうか。しかし、単に、自然環境内に居るだけでは足りない。運動発汗作用と自然環境の連結が必要なのだと思う。不連続的差異論から見ると、身体のメディア界と自然のメディア界とが、運動発汗作用を介して、相互作用しているのだと思われる。身体と自然のメディア界的連結・交通があると思う。これが、快感なのだと思う。それで、酔う必要がなくなったのではないかと思うのである。





フッサールの生活世界とメディア界:近代的科学の反動性

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫)では、生活世界(私は生活界、生活基盤界と呼びたいが)の根源性を述べている。生活世界とは、様々な近代的科学、学問をいったん判断停止(エポケー)して、得られる世界である。そこから新たに出発しようという革新・革命的な哲学が述べられている。なぜならば、そこにこそ、科学や学問等の基盤であり、包括する原基、「大地」があるからであるということである。
 私は、フッサールの生活世界という概念は、不連続的差異論のメディア界の相当すると考えている。問題は、今日の科学・学問への関係である。今は余裕がないので、展開できないが、簡単に触れると、近代的自我・合理主義とは、反動性をもっているので、生活世界ないしメディア界に対しては、否定的に対処するだろうということになると思う。否定、さらには、無視、排斥等々の反動的反応となると思うのである。

p.s. 先に、差異共存型資本主義に言及したが、差異共存性とは、メディア界に存しているのであるが、上述が正しければ、差異共存資本主義とは、生活世界に根差すものとも言えることになるだろう。すると、生活世界的資本主義とも言えるだろう。
 ところで、先にも触れたが、私見では、フッサール現象学は、不連続的差異論の先駆のように思えるのである。いわゆる、ポスト構造主義とは、フッサール現象学の問題を新たに展開していると思えるのである。簡単に言うと、超越論の問題である。この問題が、実は、脱近代の問題なのである。それは、フッサールが述べているように、デカルト哲学の、一般に、無視されている側面である。それは、ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性の哲学と関係するのである。いわば、超越論的一義性の哲学は、プラトンスコトゥスデカルトスピノザ、(カント、)ニーチェフッサール、(ハイデガー、)ドゥルーズガタリデリダ等の系譜である。(p.s. イスラム教哲学、タウヒード【存在の一性】も、これに連なると言えるだろう。)
 ところで、現象学という命名が、分かりにくくしていると思う。思うに、超越論的差異論、あるいは、超越論的差異現象学が、適当なように思われる。

p.p.s. フッサールの生活世界の主観性とは、実は、身心性であり、また、メディア界として考えられるので、一種客観性を得ると言えるのではないだろうか。