二元論と不連続的差異論:東西統一哲学・理論としての不連続的差異論

今、ここにおいて、中沢新一氏の『フィロソフィア・ヤポニカ』を取り上げると、中沢氏のイデア論唯物論との折衷のハイブリッド哲学を、どう見るかである。中沢氏が言わんとしていることは、よくわかるのである。即ち、光(思惟)に対して、闇(質料)を対峙させて、その混淆・ハイブリッドを説く思想である。つまり、中沢氏のグノーシス主義的な二元論が、ここにも、確認できるのである。しかし、不連続的差異論は、不連続的差異=イデアを思惟即質料、即ち、光即闇と見ていると言えるだろう。私は、先に、イデアの光を黒い光と呼んだが、黒い光(複数)が、正に、そういうものだろう。この思惟即質料、光即闇、黒い光・玄光(複数)としての不連続的差異=イデアとは、東西統一哲学・理論をもたらすと言えるだろう。これは、中沢氏のハイブリッド・折衷哲学を超克していると思うのである。
 とまれ、このように考えると、イデア界の志向性とはどうなるのだろうか。差異の志向性としてのノエシスノエマは、思惟/質料となるだろう。そして、ヌース理論のNOOSとNOSであるが、NOOSが質料で、NOSが思惟であると説明されている。これは、中沢氏のハイブリッド哲学の質料主義と似ているところがある。しかし、不連続的差異論では、思惟と質料を不可分一体として捉えるだろう。不連続的差異論から見ると、NOOSが、思惟で、NOSが質料となるだろう。というか、NOOS即NOSである。もっとも、この問題は後で、検討されなくてはならない。
 とまれ、光=闇というのは、いわゆる、光、光子とは異なる。思惟即質料、認識即物質である。思惟即質料、光即闇(「黒い光子」)である不連続的差異・イデアが、1/4回転して、光を創造するのである。この力学はどういうものだろうか。差異1→差異2が、差異1☯差異2となるのであるが、→が、光即闇であり、☯が光である。この光は、いわば、闇が共振して、差異同士が交信するということではないだろうか。換言すると、闇が光明になり、思惟・認識の光が、ネットワーク化するということではないだろうか。これが、量子・素粒子の世界であろう。しかし、ここに2種類の光が存していることになるだろう。イデア界の思惟の光と闇の光である。後者が光子である。つまり、後者が、質量であろう。量子・素粒子の世界において、思惟・認識の光と質量・物質の光の2種類の光が生成しているように思われるのである。そして、それらは、いわば、融合しているだろう。西田哲学の場所の論理の世界だろう。
 それから、この量子力学の世界が、同一性化して、現象界となると言えるだろう。ここで、思惟・知覚の光と質量・物質の光が分離して、主客二元論、近代主義が生まれるのである。聖書のエローヒーム(神々)の「光あれ」という「言語行為」は、何を意味するのか。その光とは何か。それは、やはり、光子の光であろう。闇の光である。(聖書の「神」は、自然界の神である。)
 問題は、思惟即質料という不連続的差異・イデアを意味することである。メディア界は、主客合一の領域であり、西田哲学やヌース理論が、とりわけ、見事に分析している領域である。イデア界も、確かに、主客合一の領域と言えるのであるが、メディア界とは構造が異なる。思うに、思惟即質料というよりは、思惟即存在の方が適切だろう。これは、原知覚である。イデアの知覚である。イデアの知覚が、他のイデアの知覚を志向するのである。イデアの境界が、このときの、存在であろう。つまり、不連続的差異・イデアの志向性、ノエシスノエマは、一つの不連続的差異・イデアの即自且つ対自的様相なのである。対自性が、境界を意味するのである。つまり、不連続的差異・イデアの志向性は、思惟=ノエシスは、存在=ノエマ=境界をもつのである。そして、これが、不連続的差異・イデアの即自且つ対自性、即ち、思惟即存在、知即存在、光即闇である。これは、正に、デュナミスの世界だろう。絶対的可能性・潜在性の世界だろう。いわば、原卵・非受精卵である。あるいは、原コーラである。原場所である。そう、眠りのような世界である。「他界」である。涅槃・ニルヴァーナである。しかし、イデア界において、不連続的差異・イデアは可能性・潜在性・デュナミスにおいて、他者の不連続的差異・イデアを認識しているだろう。即ち、イデア界に存している知・般若・叡智・ソフィアとは、可能性・潜在性・デュナミスとしての全知全能である。「超越神」の全知全能とは、これを指していると見ることができるだろう。プラトンの想起説は、まったく正しいだろう。原型として、人間は、全知全能であろう。このいわば、非受精卵としての不連続的差異・イデアが、1/4回転して、「受精」すると言えよう。これが、メディア界化である。西洋二元論では、父と母の比喩で、この「受精」を説くが、しかし、これは、不正確である。「非受精卵」であるイデアが、いわば、内在必然的に、「受精」するのである。単性生殖、処女生殖なのである(聖母マリア信仰、聖母マリアの母、聖アンナ信仰、黒い聖母等は、この反映であろう)。一種クローン主義なのである。そして、この1/4回転は、光の誕生である。太陽の誕生である。日御子(「天皇」)である。オシリスである。「光あれ」である。「イエス・キリスト」である(一神教の父は、母・玄牝に訂正変更しなくてはならないだろう)。つまり、「日御子」・オシリス・イエスとは、光子である。つまり、メディア界とは太陽であろう。しかし、この太陽は二重の光をもっているのである。一つは、知(智)であり、一つは、光子である。知・智・叡智・般若としての太陽が存してもいるのである。唯物論的な現代物理学は、これを見ていないのである(聖とは日知りである)。天照大神とは、このメディア界の太陽であり、「日御子」(=光子)を内包した・抱えた大女神である。『ヨハネの黙示録』にある「日を着たる女」とは、正に、メディア界自体である。因みに、ヌース理論で説かれている内在的知覚理論であるが、それは、正しいだろう。即ち、メディア界において、内在的知覚(ノエシス)があるからである。この知覚・知が、現象界においては、延長と分離された思惟となっているのであるが、メディア界においては、延長・光子と一体化(主客合一)しているのである。光知☯光(光子)のメディア界であるが、これは、イデア界のノエシスノエマ、知即存在、思惟即延長のメディア的変容である。だから、量子力学は、このイデア論を組み込まなくては、発展不可能であると考えられるのである。ヌース理論はこの点で正しい方向にある。思うに、非局所性の問題はメディア界の事象として把捉されるようになるだろう。現象界においては、パラドクシカルになってしまうのである。思うに、素粒子を個物として捉えるのが間違っているのかもしれない。1/4回転によって発生した光・光子とは、いわば、闇の光である。ノエマの光である。存在/境界の光である。これは、差異と差異とのゼロ度結合として発生したものである。だから、対なのである。光子は、対の差異・イデアをもっているのである。それは、同時に、影・シャドウとなるだろう。光知/光子のメディアであるが、光知はブラインドとなるだろう。差異と差異との相互作用としての光子・光であるのだから、それは、一種双対性であり、少なくとも複数ではないだろうか。あるいは、境界、間として、光子を捉えるべきである。これを現象界的に個物化すると、非局所性のパラドックスが発生するのではないだろうか。だから、光子は、差異中間子のようなものであろう。また、ダークマターダークエネルギーの問題であるが、これは、光子を発生させている共存在である光知=ノエシスの《力》を考量していないので発生するのではないだろうか。直観で言えば、ダークマターとは、光子とともにある光知ではないだろうか。そして、ダークエネルギーとは、光知/光子の共存在のエネルギーのことではないだろうか。あるいは、ノエシスの《力》がダークエネルギーと言えるのかもしれない。この点は後で検討したい。

注:尚、以上は次の記事の付記からの引用である。
「検討問題:モナドと不連続的差異論、その他」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10011676817.html