プラトンのイデアとコーラ:メディア界(コーラ)の両義性

先に、プラトンは、父権的観点、即ち、同一性の視点から、イデアを捉えていたということを述べた。そして、排除された差異をコーラとして、導入したと述べた。
 問題は、プラトンイデアとは、何であるのかということである。コーラは、明らかに、不連続的差異論のメディア界である。生成創造する領域である。
 少し整理しないといけない。先に、メディア界における共振差異(メディア差異)の様相を考察した。それは、ノエシス即非ノエマ(知即存在)という不連続的差異・イデアの境界ゼロにおける共振であり、このメディア差異は、多重・多様・多層な認識/感覚(思惟/延長)であると述べたのである。つまり、多元的メディア差異である。 プラトンは、イデア論を形成するに当たり、このメディア差異を拠り所にしたのではないだろうか。何故ならば、これは、原型・形相性を帯びるからである。簡単に言えば、パターンである。そして、この把握に関して、ヴィジョン=視覚を中心にしたと思われるのである。何故ならば、視覚が、パターン(模様)を捉えるのにもっとも適格だからである。そして、これを、白い馬(精神)にして、他の感覚を黒い馬(感覚欲望)にしたように思えるのである。即ち、「霊肉」二元論である。ここで付加すると、プラトンの驚異すべきところは、単にメディア界だけでなく、本来のイデア界を把捉していたと考えられることである。つまり、プラトンのヴィジョン=視覚は、根源的なノエシス即非ノエマという不連続的差異・イデアに通じていたということである。
 ヴィジョン=視覚の問題がある。あるいは、根源的なノエシス即非ノエマの問題である。思うに、根源的なイデアは、原知をもっているのである。これが、ヴィジョン=視覚と通じていると思うのである。そう、直観の問題だと思う。直観知の問題である。私は、頻繁に直観というが、私説では、直観とは、心身知性なのである。総合的ヴィジョンなのである。ここには、多重な心身性があるのである。メディア差異的であり、それを透徹するように、その内奥の世界を把捉するようヴィジョンである。だから、根源的な知覚と言っていい。そして、思うに、直観=根源的な知覚は、特化して視覚になったように思えるのである。しかし、他の感覚も本来は内包していると見るべきである。
 以上のように考えると、プラトンは、直観によって、不連続的差異=イデアを捉えたが、特化した視覚と、父父権主義の同一性構造によって、メディア差異の多元性、多様な感覚を排除したと思われるのである。特化した視覚的精神が白い馬であり、排除された多様な感覚が黒い馬である。これが、真正なプラトン主義・イデア論であろう。
 しかし、プラトンの大天才性は、自己に忠実であったことである。プラトンはメディア界・メディア差異を介して、イデア界・イデア差異を直観したのであり、特化された同一性的な視覚的精神によって、多様な感覚を排除しても、メディア界自体を保持していたことである。一方では排除しても、他方では保持したのである。この保持されたメディア界が、コーラとなって回帰したのである。
 このような両義性ないし矛盾が可能なのは、プラトンの直観的ヴィジョンが真正であったからではないだろうか。図式化すると、イデア界→/IM境界/→メディア界→/MP境界/→現象界であるが、MP境界のもつ父権的同一性構造をもったが、ユダヤキリスト教的な絶対的な同一性ではなかったので、それ以前のイデア界→メディア界を保持したのではないだろうか。