東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義

東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克


テーマ:ポスト・ニッポン/太陽国ルネサンス


一つ日本社会における問題点を指摘すると、現代日本人の殺伐とした攻撃的な精神性は、上述した超越的同一性構造に拠るとは言えるものの、それだけでは、不十分だと考えられる。現代日本人、とりわけ、東京人の殺伐さは、近代的自我に拠るとは言え、極めて極端なものに思えるのである。つまり、差異の否定・排除・隠蔽の度合が極めて強く、病理的になっているのである。近代的自我そのものが、病的であるが、それが、徹底していると思うのである。近代的自我病理に、東京人が集団的に染まっているように思えるのである。そして、これは、日本人全体に感染するのである。
 この原因は、思うに、東京における生活の、過度の同一性自我意識にあると思う。一種過度の競争心であるが、病的な競争心である。己の差異を忘失しての病理的な競争心である。これが、どこから生まれたのか。つまり、ここには、個がないのである。単に、近代的自我が、個・差異・特異性を暴力的に排除している社会様態がここにはあるのである。
 この問題は、とても本質的な重要さをもっていると思う。何故、東京社会において、近代的自我意識が跋扈して、個・差異・特異性を攻撃的に否定・排除・隠蔽するのか。東京の問題点がある。これは、日本人の個・差異・特異性にも、当然、関係する重大の事柄である。何故、東京社会には、近代的自我、近代的合理主義、近代主義が、跋扈するのか。直観では、マインドコントロール・洗脳があると思う。また、何か、地方出身者の精神の有り様にも関係していると思う。現代、江戸っ子の精神がほぼ消えている。(漱石が『坊ちゃん』で問題化したのは、ここに何か関係するようにも思えるが。)
 とまれ、近代的自我として、攻撃的であること、マッチョ的であることが、東京において、ステータスの有り様となっているのだ。これは、一体どこから生まれたのか。私に言わせれば、このような無粋さ、野蛮さを価値としている起因は何であるのか。ひとことで言えば、ここには、父権主義がある。もっとも、近代的自我が、父権主義的である。いくら、民主主義云々と説いてもそうである。
 何か、東京社会には、根本的な倒錯があるのだ。それは、何か。父権主義と結びついた近代的自我である。これは、欧米の個人主義とは異なるのである。何故なら、欧米は、ルネサンスに発する個人主義・差異主義がベースにあるからである。他方、その反動としてのプロテスタンティズム的同一性自我ある図式である。日本の近代的自我には、このルネサンス個人主義・差異主義が欠落している。ルネサンスとは、換言すると、母権的個人主義だと、私は考えている。そう、差異共振主義があると思うのである。日本、とりわけ、東京社会には、これが、欠落している。これは、いったい何なのか。狂気の社会なのである。
 考えられるのは、日本の父権主義と欧米の近代的自我主義とが結びついたものが、この東京近代的自我である。では、日本の父権主義とは何だろうか。私は、ここに、日本社会の元凶を見ている。西洋の近代主義も、狂気的ではあるが、日本の父権主義も狂気的である。狂気+狂気の、二重狂気である。私は、以前に、日本の父権的部族主義という考え方をした。これは、先には、豪族主義と呼んだ。(思うに、ヤクザ社会に共通する何かがあるのではないだろうか。)
 この父権的部族主義、豪族主義とは何か。また、病的な競争心とは何か。深い精神病理・社会病理・狂気の病巣がある。差異を徹底して憎悪して排除する「精神」が、東京社会を、支配している。差異への狂気的な憎悪、これは、何か。これが、東京、日本を、狂わせている元凶だと思う。
 ここでは、直観で述べよう。一つは、日本のナショナリズムがあると思う。国学から発するナショナリズムである。これは、連続・同一性主義であり、差異を排除している。一つは、・・・。
 そう、どうも、バビロニア神話他におけるような父権神話と同質の純粋な父権主義があるのではないだろうか。それは、言わば、純粋父権主義、絶対的父権主義である。二項対立暴力である。差異である母権主義を完全否定する父権主義である。どうも、これが、日本社会にあると思う。二年前に、日本の母権主義と父権主義の分裂的二重性について言及した。前者は、「縄文」文化であり、後者は、「天皇族」文化である。そして、これが、不連続であると私が、その時、考えたのである。つまり、差異と同一性との分裂があるということになるだろう。今考えても、日本の社会の歴史は、この母権的差異と父権的同一性の分裂的二重社会の歴史と言えよう。これは、現代においても、まったく変わらない。自民党公明党は、これを利用しているのである。小泉/安倍自民党は、この二重性に立っているのである。



火焔土器

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 ようやく、見え始めてきたようだ。思うに、日本社会には、ユダヤキリスト教と共通するような父権主義をもつ部族(「天孫降臨族」)がある時代に到来して、伝統的であった母権的社会(「縄文」的母権社会)を支配するようになった。しかし、その支配のために、後者の宗教文化を前者は利用したのである。それが、「天皇制」である。「天皇(日御子)」信仰とは、本来、イシス・オシリス宗教、聖母子・聖母マリア信仰、等に通ずる宗教であると考えられる。それを、父権主義が利用して、天皇制に祭り上げたのである。原日本人は、「天孫降臨」父権民族に、いわば、騙されているのである。この構図は、現代の自民党公明党支配でも、まったく、変わらないと考えられるのである。



王冠型土器

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 ということで、私が問題にした、日本の父権主義、父権的部族主義とは、純粋・絶対父権主義であったという仮説になったのである。(もっとも、今の段階では、作業仮説であるが。)つまり、ユダヤキリスト教一神教的父権的民族が、古代日本に到来して、強力な父権主義を、世界的に稀な母権社会である日本に、分裂的にもたらしたのである。これが、日本社会の、日本人の、本質的構図・構造であると考えられる。



遮光器型土偶

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:JomonStatue.JPG

 
 だから、日本近代とは、きわめて、異常な社会なのである。つまり、欧米の父権的近代主義と日本の父権主義を合わせたものであるからである。過剰な父権主義がここには存しているのである。私が、近代的自我の狂気と考えたものの正体がこれである。結局、ハイパー父権主義、ハイパーな近代主義が、現代日本、東京に存しているのである。私が、東京社会の病的な競争心と見たものの根因とはここにあったと考えられるのである。日本的ユダヤキリスト教的父権狂気なのである。それがベースとなり、ルネサンス個人主義、母権的差異主義を除いた、西洋近代的自我が形成されているのである。
エウレカ!!!


注:本稿は「イデア・共振シナジー歓喜:極性シナジーと能動/反動」http://ameblo.jp/renshi/entry-10016573185.html
の後記p.p.s.を独立させたものです。


p.s.  上京した地方出身者であるが、思うに、劣等感コンプレックスを、東京にもたされるのだろう。つまり、東京中心主義によって、地方出身者は排除的に差別されるのである。それにより、地方出身者の性格は、捩じ曲げられ、深いトラウマとルサンチマンをもつようになると考えられる。おそらく、私が批判した東京父権的近代的自我主義は、この側面をフィードバックされて、さらに、醜怪・怪奇な、おぞましい、超悪魔的な、反動暴力的なものなっていると考えられるのである。