同一性面による差異面の否定力学解明へ向けて;同一性共同体権力と差

同一性面による差異面の否定力学解明へ向けて;同一性共同体権力と差異の否定・排除・隠蔽


テーマ:差異と同一性


メディア平面において、同一性面は、差異面を否定することになる。おそらく、視点はエネルギーをもつので、同一性の視点エネルギーは、差異面を否定するのだろう。つまり、同一性の視点にとって、差異面とは、他者であり、まったく異質なものなので、否定することになると言えよう。ユダヤキリスト教西洋文明は、このような同一性力学がもっていたと考えられる。
 では、差異面の視点は、このような同一性の視点ないし同一性面に対して、どのような関係をもつのだろうか。人間の主観ないし主体的意識の基盤・母体は、メディア平面と考えられる。つまり、差異面と同一性面とが即非の論理ないし対極性の様態にある空間であると考えられる。だから、人間には、基本的には、差異視点と同一性視点が並存していることになる。しかし、近代的自我/近代合理主義は、後者を中心価値として、前者を否定・排除・隠蔽して成立したのである。つまり、近代主義とは、主観性の極端化であり、一種の病理である。この半面主義病理の病巣力学を考えたい。
 同一性面ないし同一性視点が、差異面ないし差異視点を否定したとしても、後者は存在するのであるから、無化することはできないのである。だから、排除・隠蔽すると言えよう。
 では、新たに問うが、なぜ、同一性面が差異面を支配して、差異面が排除されるのか。どうして、差異面が同一性面に対して、反論しないのか。
 思うに、同一性面と差異面は、非対称性の関係に
あるのではないだろうか。フッサールの志向性を考えると、ノエシスからノエマへと意識が展開するが、これは、簡約すると、差異から同一性への展開である。ここで、二通りの考え方ができる。即ち、一つは、同一性から差異への回帰運動はないというものであり、一つは、それは発生するというものである。これまでは、後者を考え方をとってきた。しかし、ここでの両面の視点の考え方からすれば、同一性の視点と差異のそれは、並存しているのであるから、回帰運動というよりは、並存力学として存すると言えよう。だから、差異→同一性、即、同一性→差異である。つまり、差異⇔同一性である。
 ならば、どうして、同一性が差異を否定・排除・隠蔽したままなのかである。今、考えているのは、個体の集団・共同体化である。明確にするため、個体の共同体化としよう。共同体化とは、正に、個の差異を否定して、共同体の同一性に同一化することであろう。そう、共同体が、同一性の権力を形成するのである。だから、この共同体に個が属するときに、一般に、共同体的同一性を観念として受容すると言えよう。この共同体同一性権力が、個において、内在化して、差異面・差異視点を否定・排除・隠蔽し続ける反動・暴力となるのではないだろうか。
 どうも、このように見ると、整合的に説明できるようだ。つまり、本来、個体において、同一性面と差異面との共立が存するはずであり、同一性と差異との対極性が成立するはずであるが、近代において、同一性が中心化されて、差異が否定・排除・隠蔽される事態になったのである。内在力学から言うと、これは、ありえない事態なのである。しかしならが、同一性共同体を考えると、この同一性中心化の説明ができるのである。もし、この仮説が正しいならば、同一性中心主義化した個体は、分裂症になるはずである。個体自身において、差異面・差異視点が存しているのだから、それを、同一性共同体の暴力・反動力によって、抑圧していることになるからである。どうやら、これでいいようだ。
 私が念頭に浮かぶ人物は、まさに、この考え方で説明できる。内在する差異面・差異視点を排除して、同一性の二項対立暴力を発動させるのである。しかし、前者は排除しきれないから、それが反動的に衝動化するのである。つまり、非合理的衝動、狂気が発生するのである。暴発である。結局、同一性共同体権力による同一性中心主義的二項対立暴力と被抑圧的差異の反動衝動・狂気との二重性をもつ、分裂症が生起していると言えよう。
 そう、この視点から、いわゆる、自己愛性人格障害、私の言葉では、同一性自我狂気症が、合理・整合的に説明できると考えられるのである。また、さらに、現代日本の狂気全体も説明できるだろう。とりわけ、日本のマスコミ・マスメディアの問題点が、この視点から説明できるだろう。同一性共同体権力が、現代日本を支配しているのだ。そして、この同一性共同体とは、的確に言えば、父権的同一性共同体である。私が以前、父権的部族主義あるいは、豪族主義と呼んだものは、これで、理論的に説明できるだろう。父権的同一性共同体とは、端的に言えば、父権制である。古代バビロニア神話にあるような父権神話の力学から発しているのである。
 では、ここで、この問題に疑問を提起すると、何故、父権主義が発生したのかとなる。これは、先ほどの問題と似ている。本来、両面あるのに、どうして、同一性父権主義が支配したのか。これは、今答えれば、視点の移動があったからと言うしかないだろう。視点が差異から同一性へと転移したのである。その結果が父権制である。そして、それが、現代の文明となったのである。ならば、当然、視点の移動から、同一性から差異への転移するのである。
 では、さらに問うと、なぜ、視点の移動が発生するのか、である。私は、これまで、極性力学で説明してきた。これは、言わば、機械的である。
 ここでも、直観で考えよう。つまり、有り体に言えば、志向性とは、本来、差異自体の志向性なのである。メディア面の差異面と同一性面とこれまで、述べてきたが、実は、メディア面とは、差異の共立する面であり、不連続面と同一性面の両面があると言う方が正確かもしれない。つまり、差異のもつ志向性が、同一性と不連続性の両方を志向すると言えるだろう。つまり、差異の志向性とは、本質的に、両極同時的、両極並存的なのである。だから、時間的に、同一性の後で、差異への回帰するというのではなくて、本来、両者ヘの志向性が並存しているのである。だから、結局、視点の移動というよりは、視点の両極の同時並存があったと言うのが、的確であると考えられるのである。これで、説明ができたこととしよう。


p.s. 結局、やはり、差異の質的相違があるのである。差異が劣悪だと、同一性主義となりやすいと言えよう。差異が優秀だと、不連続性、差異共立性も志向するのである。


p.p.s. メディア平面に、同一性面と不連続面の両面ではなく、連続面と不連続面の両面を見た方がいいのかもしれない。その方が明快であり、明確ではないだろうか。もっとも、同一性と連続性は、ほぼ同一の意味をここではもつのではないだろうか。つまり、同一性だから、連続性をもつのであり、連続性だから、同一性をもつと言えるだろう。だから、連続・同一性面と呼ぶのがベストだろう。
 では、不連続面はどうだろうか。これは、不連続・差異面となるだろう。