不連続的差異論入門:その54

自我意識ないし個意識の構造について:根源的意識・原自我
イデア界→メディア界→現象界と展開して、自我が生まれる。これは、一神教ユダヤキリスト教)の発生と関係していると考えられる。これは、イデア・メディア境界において、反動=能動化して、差異を排出・隠蔽するのである。正確に言えば、差異を否定しようとする抑圧・支配欲動・力動がある。例えば、旧約聖書に見られる異教への攻撃性にそれが見られるだろう。また、近代ヨーロッパの攻撃性に見られるだろう。
 しかしながら、ヨーロッパは差異・自由主義を生んだ。これは、自我と関係しているが、自我自体とは異なる。典型的な場合が、デカルトである。コギトの「われ」とは、根源的な「われ」に通じているが、同時に、近代的自我として展開された。スム(我在り)の「われ」が、根源的な「われ」であろう。認識と存在の一致を説くが、根源的な「われ」(根源的意識と呼ぼう)は、不連続的差異論から見ると、イデア界の差異の志向から発していると考えられる。つまり、フッサールの志向性である。これが、根源的意識である。ここで、イデア界を考えると、無数の不連続的差異が存立するのだから、根源的意識は、確かに、差異の志向性ということでは、一(いつ)=「われ」ではあるが、実質的には、無数性・無限性が存していると考えられるのである。これは、「われ」の同一性と複数・多元性を意味しよう。これは、多重人格とは明らかに異なる。多重人格とは、「われ」が多重化するのであるが、根源的意識においては、「われ」はいわば一重、一義的である。この一義性において、多元化するのである。多重人格は、「われ」が多重、多義化するのであり、「一」の同一性が、解体しているのである。(ここで、想起するのは、ポスト構造主義が同一性を批判して、差異を提起したことである。デリダのロゴス中心主義批判、ドゥルーズプラトンの同一性への批判等。そして、相対主義を提示した。これは、メディア界の領域を正しく提示したことであり、それは、評価に値する。しかし、メディア界的な相対主義は、連続的同一性を解体するが、しかし、それで、根源的意識が解体されるわけではない。(デリダが陥ったアポリアはここに起因しているだろう。同一性を差延等で脱構築するが、同時に、その脱構築自身も同一性によって脱構築されるのである。無限的脱構築性でる。同一性を同一性の言語で脱構築することの無限的矛盾にデリダは陥ったのである。連続的同一性と不連続的同一性を混同しているのである。痕跡やアルシ・エクリチュールであるが、デリダは、初期の「『幾何学の起源』序説」で、超越論的差異を指摘しているのである。つまり、デリダは、イデア界と考えられる超越論的差異を示唆しつつ、それを展開することなく、脱構築の同一性/差異の相補性の循環に陥ったと言えよう。)しかし、根源的意識(根源的差異)をポスト構造主義は、根源的同一性として確認することはなかったのである。単に多元性、複数性の指摘に留まったのである。これでは、責任、倫理、積極的能動性に関して、ニヒリズム的になる。思うに、ポスト構造主義は、現象学への批判を意味をもっていたのだろうが、しかし、フッサールの超越論的主観性を発展的に把捉することができなかったと言えよう。つまり、根源的意識の問題が欠落しているのである。
 さて、本旨にもどると、根源的意識とは、不連続的差異の志向性のことであり、不連続的差異の同一性である。これが、自我の根源である。原自我、特異性的自我、特異性的自己、原自我意識、等である。デカルトの我在りの「われ」は、この原自我に求めるべきであろう。これは、知即存在である。知存在である。理念である。そして、ここから、フッサールの相互主観性が発するのである。そして、これは、現象的には、差異競創主義である。不連続的差異の相互主観性の営為である。フッサールが、現代資本主義の理念を説いていたのは、ある意味で、驚くべきことである。ニーチェを先駆者として、現代哲学は、資本主義の本質に迫っていたのである。マルクスは、近代的資本主義を解明したに過ぎない。
 現代、新世紀時代は、イデア界のルネサンスと言うべきものである。差異から発動している資本主義=差異自由主義が、ようやく、全面的に開花しようとしている。グローバル・ルネサンスである。ポスト・西洋文明である。

p.s. ここで、ウパニシャッド哲学の梵我一如を考えると、アートマンとは、この根源的意識、原自我、原我に当たるだろう。そして、ブラフマンは、イデア界総体であろう。また、「霊魂」の問題であるが、「霊魂」をアートマンと取れば、確かに「霊魂」は不滅である。プラトンは、このことを語っていたのか。また、睡眠時の「知覚」であるが、やはり、「われ」は、イデア界に回帰しているのだろう。ただし、一時的である。しかし、死ぬ時は、絶対的にイデア界に帰還すると言えよう。つまり、メディア界・現象界である「身体」が解体する時である。思うに、原自我、原我の形成したメディア界の強度が消耗するのではないだろうか。強度が解消して、原自我、原我、「霊魂」は、イデア界に戻るのである。そうすると、あの世、彼岸、冥界とは、イデア界である。ある意味で、死者は存しているのではないだろうか。即ち、原自我に回帰した死者である。それは、知をもつのではないか。原自我による現象界の記憶があるのではないか。プラトンの想起説。原自我、原我は、根源的同一性=差異であるが、これは、メディア化され、また、身心化・現象化される。この時(現世)の経験の記憶・記録が原我にあるのではないか。差異連続体の記憶。差異連続性・順列の構成。差異の連続的複合体の構成記憶。思うに、現象自我の構造ないし構成は、原我をベースにした螺旋構造、巻貝のような複合体ではないか。
   
      3.現象自我   
     ・・・・・・・・・・・・ 
      2.メディア自我
     ・・・・・・・・・・・・
      1.原我・イデア自我

1の現象として、2や3がある。しかし、基底・根底・基盤・原基・ベース・根源は1である。1の仮象としての3である。1の変容(変様)としての3である。3の記憶・記録とは何か。1の原我のそれではないか。つまり、3にも、1の原我が機能・作動しているのではないか。すると、3の経験・体験は、1に記憶・記録される。(cf. 阿頼耶識、アカシャ年代記) ならば、1には、無数・多数の記録・記憶の多層性があるだろう。(cf. 『惑星ソラリス』)一者が多者である。思うに、ここでは、矛盾律は成立しない。一者=多者である。一者と多者との絶対差異的自己同一。
後で再検討。


デリダ『「幾何学の起源」序説』
http://ningen.hus.osaka-u.ac.jp/kondou/
deridanopage.htm

cf.
http://thought.ne.jp/html/text/medio
/medio221.htm
http://www.google.co.jp/search?q=
%E5%B9%BE%
E4%BD%95%E5%AD%A6%E3%81%AE%E8%B5%B
7%E6%BA%9
0&num=30&hl=ja&lr=&start=0&sa=N

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【2005/11/06 01:19】 | 文学&哲学 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

理性とは何か:身体的心性と知性との相補性
理性とは、今では、死語であるが、
しかし、何故死語になったのか考えれば、理性は蘇るだろう。
結局、理性を一元的に捉えようとしてきたと言えよう。ヘーゲルにおいては、悟性と感性の統一としての理性だろう。一(いつ)である。カントにおいは、超越論的な知性に関わるものである。西洋の伝統では、ratio、比率である。これから、西洋的合理主義が生まれる。  
 また、常識的には、分別・思慮等、考えられてきた。
ほぼ、知恵に近い。
しかし、やはり、なんらかの知が一元論的に考えられている。
 そこで、私が、思ったのは、相補性という概念である。これは、両極・対極が対立しつつ不可分・一如であるという構造概念である。分かりやすいところでは、陰陽であるし、量子力学の粒子と波動の相補性である。この概念をもちいると、理性が復活するように思うのである。即ち、身体性、身体的心性、身体的意識と言語的知性・認識・意識との相補性としての理性、新理性である。簡単に言えば、身体と知性との相補性である。これは、状況によって、優位性が変わるだろう。現代のような情報社会は、当然、知性優位である。しかし、身体を軽んじていいわけではない。身体を軽んじているために、現代は、狂気・混沌・無能等に陥っているのだろう。身体と知性との相補性としての理性である。両者は対立するのであるが、それを相補的力学によって、両者を錬成するのである。そう、ユングが説いた錬金術、あるいは、東洋身体術も、これを意味したのではないか。身心相補性としての理性である。

p.s. 新理性を、不連続的差異論から見ると、メディア界に関係するだろう。しかし、正しく言えば、これは、イデア界、メディア界、現象界総体に関係することだろう。身体とは、不連続的差異論から見ると何か。これは、実に興味深い問題だ。とまれ、心、意識、認識とは、強度(高強度)から発生するだろう。そして、強度とは、イデア界の境界が根源である。もし、心、魂というのが、差異共存性、人倫性ならば、それは、イデア界に起源がある。そして、私見では、心や魂は身体に存している。つまり、心、魂とは、イデア界が、身体に宿している状態なのだろう。しかし、身体は、メディア界の差異・強度と関係する。連続的差異としての身体である。つまり、心、魂は、イデア界が連続的差異化した状態である。これは、イデア・メディア境界とも言えるだろう。だから、新理性とは、メディア界を介した、イデア界と現象界の相補性だろう。
 とまれ、身体とは、イデア界ないしイデア・メディア境界的連続的差異性と言えるだろう。そして、知性とは、現象界的言語認識である。これは、言語構造、言語的二項対立構造・形式をもつのである。これが、また、近代二元論と通じているのである。フッサール現象学は、これをエポケーして、根源的志向性に達する。超越論的主観性とは、イデア界の差異の志向性のことと考えられる。だから、メルロ=ポンティが、身体に向かったのは、理由があるが、しかし、身体はイデア界とメディア界と現象界をつないでいる。簡単に言えば、メディア界である。だから、身体にこだわると、フッサール現象学から後退する恐れがある。ただし、身体を指摘することは正しい。なぜならば、身体が媒介となって、イデア界につなぐからである。身体が抑制されていると、現象界的認識中心となってします。パラノイア的になってしまうのである。思うに、フッサールの不思議なことは、身体を介しているはずなのに、身体的言及が乏しいことである。生き生きとした現在とは、身体に関係するが。まぁ、天才なのだ。普通の人には拓かれていない、身体・イデア界の通路ができていたのだ。

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【2005/11/05 11:33】 | 文学&哲学 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

時空四次元について:備忘録
1/4回転で、差異が連続化される。
差異/強度連続体が発生する。差異⇔強度
差異は垂直/水平構造をもつ。だから、垂直/水平/強度連続体。
この水平志向と連続力はどう関係するのか。これを同一と見るか、別と見るか。これは、別だと思う。
この強度は、ガウス平面に直交するだろう。だから、これを、高度と捉えよう。強度軸、高度軸である。だから、垂直・水平・高度の直交座標があるだろう。三次元である。
強度・高度は何か。光なのだろうか。時間なのだろうか。思うに、原時間であろう。そして、差異は、原空間だろう。
即ち、差異・強度(高度)=原時空間(三次元)
そして、この強度が展開して、現象化するのだろう。
そう、差異/強度(高度)=原時空間が現象化する。
この時の、力学構造が問題だ。
差異/強度(高度)は、メディア界であり、中間界であり、プロセス界である。この強度(高度)(略して、高強度と言おう)の実現として、現象化があるだろう。現象軸が生起するだろう。垂直・水平・高強度→現象が発現する。
現象軸が、時空四次元体ではないだろうか。
なぜ、四次元となるのか。それは、垂直・水平・高強度の三次元性を内在している次元だからではないか。三次元性をもった一次元である。
つまり、垂直(縦)/水平(横)/高強度(高さ)の三次元性を内在して現象軸である。つまり、現象軸から三次元化するのだろう。現象軸を時間軸にすれば、いいのではないか。
ならば、現象軸とは、光速度の軸とも言えるだろう。
現象軸=時間軸=光速軸(光軸)
相対性理論とは、現象軸の理論だろう。
では、重力は、それは、高強度(高さ)のことではないだろうか。
ならば、量子力学との関連はどうなるだろうか。
量子力学は、メディア界の理論である。
差異/高強度の不可分一体・矛盾同一の理論である。
差異/高強度=粒子・波動/「力」ということだろう。
「力」が量子の力である。
だから、高強度=量子力である。
そして、高強度が重力だったのだから、
重力=量子力である。
量子力は、四つの力であるから、
これは矛盾する。
しかし、三つの力=重力としたらどうだろうか。
否、元へである。
現象における高強度が重力と言ったのである。
それは、メディア界の力ではない。
つまり、現象界の高強度と時間を別にしている。
しかし、メディア界においては、高強度は、原時間である。
だから、区別しないといけない。
メディア・高強度と現象・高強度である。
量子力は、メディア・高強度である。
重力は、現象・高強度である。
だから、量子力⊃重力である。
四つの力である。電磁気力、弱い力、強い力、重力である。
ならば、高強度を区別しないといけない。
メディア界の力を高強度と呼ぼう。
現象界の高強度は重度としよう。
つまり、現象化とは、高強度が、重力と三つの力に分離することではないだろうか。メディア界の高強度において、四つの力が不可分一体である。
では、高強度の原四つの力とは何か。その構造は?
差異の垂直/水平力がある。そして、高強度がある。つまり、差異連続体において、垂直力と水平力と高強度が内在している。 
ここでは、思考実験であるが、垂直力と水平力は、差異内在力、差異即自力であり、これが、強い力と弱い力となるだろう。そして、高強度自体は、光である。つまり、電磁気力であり、差異にとっては、外在的である。差異外在力、差異対自力である。そして、それらの架橋として、重力が発生するのではないか。即ち、重力は、即自と対自の中間力である。即ち、

差異即自力・・・差異中間力・・・差異対自力
垂直・水平力・・・中間力・・・高強度
強い力・弱い力・・・重力・・・電磁気力

となる。
これら四つの力が、メディア界において、不可分一体となっているのである。このように考えると、量子力学相対性理論となるだろう。
量子・相対性理論である。
E=mccであるが、
これは、メディア界の力の公式であろう。
しかし、これは、差異即自力が欠けているのではないだろうか。
それとも、全体の力の公式だろうか。
質量と重力の関係。
質量とは、差異・重力ではないか。
光が重力によって曲がるというのは、当然だろう。なぜなら、重力は中間力で、電磁気力を帯びるからだろう。あるいは、四つの力は、凝縮力をもつと言うべきかもしれない。向心力。メディア界的向心力。
結局、現象界とは、メディア界の影であろう。
プラトンイデアとは、一つは、メディアを指しているだろう。
そして、もう一つのイデアが、イデア界の不連続的差異共存体を指しているだろう。二つのイデア。メディ・イデア(メディデア)とイデア。中間イデアと原イデアである。形相と脱形相、構造と脱構造である。プラトンは、仏陀と並ぶ、ポスト・モダニストだ。プラトンの方が釈迦より、年長であるが、ほぼ同時代人で、それから、およそ2400年たっている。ようやく、
彼らに追いついたのである。人類の度し難き愚鈍さ!

プラトン:紀元前427年 - 紀元前347年
釈迦:前463年 - 前383年 、前560年 - 前480年 等

プラトン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97
%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
釈迦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

参考
http://elekitel.jp/elekitel/special/2002/03/sp_
03_c.htm
http://www-jlc.kek.jp/hep/hep-c5-j.html
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/yon.html
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/
6352/sub6/unified.html
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jps/jps/butsuri/
50th/noframe/50(5)/50th-p316.html

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【2005/11/05 06:15】 | 統一理論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

フッサール現象学と不連続的差異論(草稿:注を省略)
 フッサール現象学については、ここでは、晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下、『危機』)を基礎として考えたい。3) 不連続的差異論は、ドゥルーズ哲学の問題点に注目して、その矛盾を取り除いて、不連続的差異を原基とした整合的な理論であるが、表層的には、フッサール現象学とは関係なく成立したものであるが、後者を見ると、不連続的差異論との共通性が浮かび上がるのである。本稿は小論・モノグラフであるので、この点を詳述することはできないが、ここでは、簡潔に共通点を述べることに留める。
 フッサールは『危機』で、ヨーロッパの近代的諸科学の危機を説いているのであり、とりわけガリレオにおける物理学的客観主義のフレームを問題視している。よく知られているように、フッサールは、自然的態度のエポケー(判断停止)、現象学的還元、超越論的主観性、間主観性(相互主観性)を説いて、超越論的哲学、超越論的現象学を説き、近代的諸学の乗り越えを行なったと言える。一つの問題点として、いわゆるポスト構造主義との関係がある。ドゥルーズガタリは、『哲学とは何か』で、内在平面の理論を説くに当たり、フッサール現象学を超越性の理論として批判しているが、私見では、それは、フッサール現象学を捩じ曲げているのである。4) 何故ならば、フッサール現象学は、超越論の哲学であり、超越性のそれではないからである。超越論とは、実は、内在的な超越性を説いているのであり、これは、ドゥルーズガタリの内在性の理論と通ずると筆者は考えているのである。即ち、内在性ないし超越論性において、フッサール現象学ポスト構造主義の一つは通じていると考えられるのである。5)
 筆者の先の論考では、ドゥルーズ哲学の連続性をベルクソンハイデガーの哲学と関連させて述べた。6) 後者において、実は、ドゥルーズ哲学は、フッサール現象学と通じていると考えられるのである。ハイデガーは、フッサール現象学存在論的に展開したものと、言えるだろう。しかし、超越論的哲学ないし超越論的内在性の視点は、ハイデガー哲学にもあるのであり、それが、実は、ドゥルーズ哲学にもいわば導入されていると見ることができるのではないだろうか。この点に関する検証が必要であるが、本稿としては、次のことを確認したい。即ち、フッサール現象学の超越論的哲学は、ハイデガー哲学はもとより、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学にも導入されているということである。
 ここで、フッサールの志向性の概念を、不連続的差異論から確認して行きたい。ここで、後者の理論的構築を簡単に説明して、本節の理解に役立てたい。不連続的差異論は、三層構成の世界理論である。

1.イデア界/IM境界/2.メディア界/MP境界/3.現象界

(尚、イデア界とメディア界の境界をIM境界、メディア界と現象界の境界をMP境界と呼んでおく。)

イデア界には、不連続的差異が無数ないし多数、共存・共立しているのである。
不連続的差異をdとして表記すると

イデア界:d1/d2/d3/・・・/dn

となる。ただし、/は、不連続的差異の境界を表わす。そして、イデア界とは、超越論的領域、超越論的内在的領域である。このように見ると、フッサールの志向性とは、イデア界における一つの差異の他の差異への志向性と見ることができるだろう。例えば、差異1→差異2の→が志向性と見ることができる。ここで、問題は、フッサールの超越論的主観性、間主観性(相互主観性)の理解・把捉である。不連続的差異論において、イデア界における不連続的差異は、単にイデアという観念ではなくて、認識性と存在性との相補的両極性をもつものと考えられるのである。即ち、主観性且つ客観性ないし主観性且つ存在性という「もの」である。これをとりあえず、知即存在と呼んでおく。即ち、イデア界の不連続的差異とは、実は、フッサールの超越論的主観性とハイデガーの存在性を超克的に統一しているものと考えられるのである。(また、当然、ドゥルーズ(&ガタリ)の内在性の哲学をも超克していると考えられるのである。何故ならば、それは、連続性と不連続性とを混同した超越論的哲学であるからである。)
 ということで、フッサール現象学の志向性とは、不連続的差異の志向性であり、その力学であると考えられるのである。また、その結果、間主観性(相互主観性)とは、一つの不連続的差異と他の不連続的差異との共存的関係であることが判明するのである。即ち、境界を隔てつつ、不連続的差異同士の共存的認識/存在性であることと考えられるのである。結局、フッサール現象学は、ニーチェ哲学と同時に、不連続的差異論の先駆的哲学であることがわかるのである。ここで、『危機』から一節を引用して、本節を閉じたい。

 それぞれの自我主観が本原的な知覚野をもち、この知覚野には自由な活動によって開かれるべき地平がともなっていて、この地平が、つねに新たな知覚野、規定性と不規定性とによって繰りかえし予示されなおす多様な知覚野に通じているのと同じように、それぞれの自我主観はその自己移入の地平、その共主観性の地平をもっており、これは連鎖をなしている他者――それぞれが相互に対して他者であり、その他者はさらに繰りかえして別の他者をもちうる、といった ――の直接間接の交わりによって開かれうるものなのである。ということはしかし、それぞれの自我主観が一定の向きをもった世界をもっており、そのため、各人が相対的に本原的な所与の中心を、しかも一つの地平の中心としてもつことになるということである。このばあい、地平とは、あらゆる不規定性をともないながらも共に妥当しており、予料的にはたらいている錯綜した志向性を指す名称である。ということは、しかし同時に、自我主観の生活の本領をなす生きいきと流れる志向性のうちに、自己移入とその自己移入の地平というかたちで、それぞれの他の自我があらかじめすでに志向的に含蓄されている、ということでもある。真におのれ自身を理解した普遍的判断中止において、その固有の本質における心にとっては、およそ相互外在的な分離といったものはないということが明らかになる。判断中止に先だつ自然的―世界内部的な態度において、心を身体に定位させることによって相互外在としてとらえられるものも、判断中止によって純粋に志向的な相互内在に転ずるのである。それとともに、世界、つまり、端的に存在している世界と、そこにふくまれる存在している自然さとが、完全に共同的現象としての「世界」、つまり「すべての現実的および可能的主観にとっての世界」に転ずる。これらの主観のだれ一人として、彼はあらかじめそれぞれの〔他の〕主観の地平に引き入れてしまっている志向的ふくみ合いの関係からまぬがれることはできないのである。
 ・・・
しかし、もしわたしがおのれに対して、またおのれの世界意識に対して還元的な判断中止をくわえるならば、それとともに他の人間たちもまた――世界一般と同様に――判断中止に服し、かくてわたしにとって単なる志向的現象でしかないものになる。したがって、徹底した完全な還元は、それによってさしあたってはおのれを絶対に孤独化する純粋な心理学者の絶対的に唯一なわれ(エゴ)にゆきつくことになるのだが、この心理学者はそのようなものとして、もはや人間としての自己妥当をもたなければ、世界のなかにある実在的存在者としてもみなされず、徹底した還元によって普遍的かつ純粋なものとなったその志向性と、そのすべての志向的含蓄との純粋な主観となるのである。これは、それ自体において必当然的に完結しており、またそれ自体において必当然的に開示されるべき志向性のうちに必当然的に存在するところの必当然的われ(エゴ)である。そして、もしこの志向性のうちに――しかも本質的に――他の主観、といっても潜在的な他のわれ(エゴ)の共存が指摘され、したがって自我と他者との区別が指摘されうるならば、純粋な志向的心理学の主要課題の一つは、世界の妥当をいっそう進んだかたちで還元してゆくという仕方で、それによってこそ「われわれすべてにとっての世界」としての世界が、われ(エゴ)としてのわたしから出発して、その時どきの内容をもった万人にとっての世界になるところの、そうした主観的かつ純粋な機能を明らかにすることであろう。
 ・・・
すべての心は、個別的主観の生の流れの相互に含蓄し合う関係のうちにあって、現象学によって体系的に展開されうる志向性の〔それぞれが〕唯一の統一を形成している。また、素朴な事実性や客観性においては、相互外在の関係であるものが、内部から見られるなら志向的な相互内在の関係なのである。7)

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/05 06:12】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

対立物の一致:知=愛=力:超資本主義へ向けて
普通、知性、愛・共感性、力を別のものとする。
それは正しい。
しかし、この三位不連続性が、実は、一体となったときが、
最高・至高・究極の状態だろう。
父・子・聖霊の三位一体とは、そのような意味があるのではないか。
力・愛・知の三位一体。
これは、イデア界の超叡知であろう。
不連続的一体である。
そう、先に、考えていた不連続的差異の調律とはこのことではないか。
資本主義は、そのようになるだろう。
超資本主義である。
力と愛と知の三位一体としてのスーパー・キャピタリズム
連続主義・近代主義的な政治経済社会文化は、淘汰される。

p.s. 角界で言われる心技体も、このことと共通だろう。

テーマ:経済 - ジャンル:政治・経済
【2005/11/05 06:11】 | 差異共存・共創的資本政治経済論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

憲法改正問題:聖霊・差異・王冠・イデア界主義へ
憲法改正が、民意から自発的に起こるものならば、どうなろうとそれは、民主主義の精神に則るものだろう。しかし、現在の自民党の改正志向とは、アメリカの意向があるのだろう。ならば、それは、奴隷的憲法改正である。自衛権だの、何だの、無意味である。他国からの指令での憲法改正は、人間として最低である。自民党奴隷主義がある。アメリカは確かに、重要な国ではあるが、言いなりになる必要はない。自己主張が必要である。アジアとアメリカとのバランス。そう、イデア界的発想に立てば、アジアとアメリカとのバランスをとることができるだろう。D.H.ロレンスの「聖霊」・差異哲学から見ると、アジアが父・獅子・力であり、アメリカが、子・一角獣・愛である。日本は、子であり、政府は、父を排除しようとする。しかし、ライオンは、ユニコーンを襲うだろう。相克過程となる。日本は「聖霊」・差異・王冠のバランスを志向する必要がある。即ち、愛⇔力である。アメリカ⇔アジアである。アメリカを志向し、同時に、アジアを志向する。パラドクシカルである。これは、新自由主義問題にも関係する。新自由主義社会民主主義新自由主義を志向し、同時に、社会民主主義を志向する。日本の新自由主義は捩れている。これは、本来、力であるのに、愛から発している。愛は、社会民主主義である。そう、力が日本には、足りないのである。父が足りないのである。アジアが足りないのである。力のアジアと愛のアメリカのバランス志向、これが、日本の唯一の未来だろう。そう、アジアの不連続的差異とアメリカの不連続的差異をそれぞれ、確認して、相互共立する必要がある。

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/03 21:36】 | 政治/経済 | TRACKBACK(0) | COMMENT(1) |

「神」とのコラボレーションとしての新創造:新天地創造
後で詳述したいが、これまで、メディア界の連続的差異・多様体微分・形相・波動形態等、そして、メディア・現象境界のもつ同一性・積分的実体化に、人間は、制約されてきた。自然でさえも、メディア界/現象界に制約されているのである。しかし、不連続的差異論の解明から、無数の不連続的差異の存立するイデア界に注目すると、不連続的差異的創造が可能である。イデア界を「神」とするならば、「神」でさえ、自分の可能性(デュナミス)を、十分に実現できないのである。なぜならば、イデア・メディア境界の連続化という必然性に囚われて、自由度を喪失するからである。つまり、「神」でさえ「自然」に捕えられ、不自由なのである。全知かもしれないが、全能ではないのである。ここで、新しい人類、不連続的差異の人類が、「神」とコラボレーションすることで、まったく新しい創造、新天地創造が可能になると言えよう。これは、「神」と人類と自然との解放である。万有万物の「新自由主義」である。思うに、ホワイトヘッドのプロセス哲学であるが、確かに、「神」と自然と人類の協働がプロセスとなり、ポスト自然主義となるだろう。自然でさえ、新創造されるのである。

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/03 18:09】 | 新地球文明 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

不連続的差異論の力学構造に関する試論:覚書
メディア界で、連続化が形成される。差異が連続化される。ここは、量子論の世界だ。相補性の世界だ。そして、これを観測したものが現象界だろう。現象界において、観測主体と観測対象とが分離している。(差異が同一性化する)。
 思うに、イデア・メディア境界で、「光」が生じる。「ゼロ」化である。このとき発生する強度が光速度一定を指すのだろう。この連続化強度、IM 境界強度が、メディア界の連続化を支配すると言えよう。これは、差異と不可分一体である。これが、現象界の観測で、E=mccとなるのではないか。現象界は、時空四次元体であり、メディア界のエネルゲイアに規定されているだろう。メディア界の強度が主に、時間となり、メディア界の差異が空間になるのではないか。時間と空間の相補性があるだろう。これが、相対性理論だろう。(量子論は、イデア・メディア境界〜メディア界、相対性理論は、メディア界〜現象界を対象としているのではないか。)
 ならば、問題は、イデア・メディア境界から発生する直交する軸である。これは、メディア軸と呼んでいいだろう。ここから、時空四次元の現象界が発生するだろう。では、何故、四次元なのか。一昨日の考えを記すと、メディア軸をらせん軸と捉えた。つまり、メディア軸は、メディア界において、らせんを形成する。謂わば、メディア・螺旋である。(思うに、これは、メビウスの輪と関係するだろう。)メディア界は、現象界とは違う意味で、時空連続体である。それは、時空連続位相体であろう。これが、現象的時空体と異なるだろう。現象時空体は、位相体ではなくて、量的限定を受けている。量化が、同一性化であろう。メディア界は、連続性があるが、量的同一性はないだろう。
 だから、メディア軸とは、強度・差異連続軸であり、三次元体である。しかし、これが、同一性化するとき、差異1=差異2となるときに(これは、不連続的差異の連続・同一性化であり、いわば、実数や自然数の世界だろう。−n・・・、−2,−1,0、+1,+2、・・・、+n
これは、微分から積分の世界だろう。)、どういう力学構造が作用するのか。どうして、メディア軸から現象化するのか。これは、差異の志向性の力学によるだろう。差異1→差異2という志向性の終止点としての現象化である。だから、メディア軸・らせん軸は、志向性が、連続化だけで、中間点なのだ。即ち、差異1〜差異2ないし差異1≈差異2である。まだ、思志向性は中間態である。だから、メディア軸には、さらに、展開する力があると言えるのではないか。メディア軸から現象軸へである。これが、時間軸ではないか。メディア・螺旋を実体化するのである。現象させるのである。つまり、メディア軸とは別に、同一性軸が生起するのだろう。(ベルクソンの持続は、メディア軸的であろう。)つまり、メディア・らせんが、同一性軸において、現象化するのだろう。これで、四次元となる。だから、メディア軸が時間軸ではないだろか。すると、二次元、三次元、四次元の、9次元体だ。しかし、ガウス平面のx軸を原点とすると、十次元体となるだろう。10次元は超ひも理論と同数次元である。一次元+二次元+三次元+四次元=十次元(これは、1,2,3,4=10のテトラクテュスだ。http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-06

 さて、まとめると、x軸、y軸、z軸(メディア軸)、α軸(同一性軸・現象軸)の四つの軸があり、これが、一次元、二次元、三次元、四次元を構成して、全体で、十次元体となるということだろうか。


p.s. 光速度一定に関しての説明が今一つである。上記では、メディア軸において、光の発生を考えた。しかし、同一性軸・現象軸で、固定するのだから、ここで、光の発生を考えるべきではないだろうか。そう、現象界の光は、そうだろう。しかし、原光は、メディア軸で発生するだろう。原光が、量子論に関係するだろうし 、現象界の光が相対性理論に関係するだろう。
 では、イデア界の光、超光・至高光は、何と関係するのか。それは、宗教的な光だろう。「光あれ」。無量光。天照。D.H.ロレンスは黒い太陽dark sunと言った(因みに、私感では、真夏の太陽は、dark sunを感じる、というか、真夏の碧空と太陽にである)。
 しかし、科学的に見ると何だろうか。無尽のエネルギーではないだろうか。量子論で、場と言っているのは、このイデア界のことと見るべきだろう。連続ではなくて、不連続空間である。不連続原空間である。この無限エネルギーを活用できないのか。イデア界の不連続的差異共存体と共鳴できる装置を創ればいいのではないか。思うに、東洋身体術は、人体無限エネルギーの生成方法ではないか。ヨガとか気功とか座禅とか。そう、神や仏を、イデア界と考えると、宗教は簡単に解明できるだろう。万教帰一である。「一」は、イデア界である。不連続的差異共存原空間である。多神教は、多数の不連続的差異でいいし、一神教の神は、イデア界でいいだろう。アッラーイデア界である。結局、イデア界共鳴装置を創れば、「フリーエネルギー」が可能となるだろう。でも、これは、悪用の危険がある。思うに、太陽は、一種フリーエネルギー的装置ではないか。もっとも、寿命があるが。地上の太陽を創ればいいのだ。核融合ではなくて。不連続的差異共鳴装置である。思うに、地上のフリーエネルギーの場があるだろう。聖地と呼ばれている場所は、フリーエネルギー場ではないだろうか。戸隠神社の参道の杉巨木並木は、フリーエネルギーによるのか? 地上におけるイデア界共鳴場。思うに、古代人、前古代人はこれを知っていたのではないか。知の問題。聖・日知り。グノーシス・霊知。地球共鳴体が、地球のツボではないか。龍脈、レイライン。霊学では、アトランティス大陸の崩壊は、邪悪な利己主義によって、「力」が悪用されたからというような説がある。指輪物語

p.p.s. 超ひも理論のさらに統一理論として、M理論というものがあり、究極はひもではなくて、膜であるということである。それは、十一次元ということである。思いつきで言えば、イデア界の不連続的差異共存体の、境界に隔てられた差異の体とすれば、それらは、いわば、蜂の巣のようにイメージできるかもしれない。蜂の巣は膜である。



フリーエネルギー
http://www2s.biglobe.ne.jp/~h-h/himitu.htm

戸隠神社
http://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/jinjya/j_
togakushi.html

指輪物語
http://www.asahi-net.or.jp/~BT7T-TNMR/digest.html


cf. 超ひも理論
http://laboratory.sub.jp/phy/76.html
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%
E8%B6%85%E3%81%B2%E3%82%82%E7%90%86%E8%
AB%96&btnG=Google+%E6%A4%
9C%E7%B4%A2&lr=

超弦理論
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超ひも理論 から転送)
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超弦理論(ちょうげんりろん:super string theory)は粒子を粒ではなく弦である、と考える物理学 の理論。超ひも理論とも。

この理論は奇妙な歴史を持っており、もともとはクォークの閉じ込めを記述するために考え出された。超弦理論は粒子を弦の振動で区別しており、「閉じた弦」と「開いた弦」がある。開いた弦は光子、ウィークボソングルーオン を含み、閉じた弦は重力子を含む。また開いた弦の相互作用を考えるとどうしても閉じた弦、すなわち重力子を含まざるを得ず、他の重力を考えても考えなくてもよい、という理論とは決定的に異なる。このことが超弦理論を万物の理論と呼ぶ理由である。しかし超弦理論を支持する実験事実が一片も見つかっておらず、また宇宙項の説明、ニュートリノ の階層問題など未解決の事柄があるのも事実である。

超弦理論には五つの種類があり、それぞれI型、IIA、IIB、ヘテロSO32,ヘテロE8×E8と呼ばれる。この五つの超弦理論、そして11次元超重力理論をその極限に含んだ理論がM理論である。(空間 +時間 の4 次元以外の次元は、量子レベルで巻き上げられているため、直接には、知覚できないとされる。更に、弦の振動は、これら巻き上げられた次元の形により制約を受け、その振動の形により、特定の量子を形作っているとの説もある。)超弦理論では基本的物体は一次元の弦であったが、このM理論では基本的物体は二次元の膜であるという定式化が提唱されている(なお、ビッグ・バンは我々の存在する宇宙が所属する膜と他の膜の接触によるエネルギーが原因で起こったとされる)。また、超弦理論には、Dブレーンと呼ばれる様々な次元の超空間が10次元の中に存在し、重要な役割を果たしている。これはもともと一次元の弦がくっつく超空間として定義されているものだが、重力を含む閉じた弦を放出するソースとしてもとらえられることから、ブラックホールの高次元への一般化となっている。この描像を宇宙論に適用した理論は、ブレインワールド(シナリオ)と呼ばれ、典型的な模型では我々はこの(D)ブレーンの上に住んでいることになる。これに関連して、例えば宇宙論のインフレーションをブレーンの運動で捉えるなど、様々な研究がなされている。

超弦理論は重力の量子論であるため、ブラックホールエントロピーに関する問題にも答えている。ブラックホールエントロピーは表面積に比例しているが、この事実をDブレーンに張り付いた弦の状態を数え上げる、という方法で導き出している。これは熱力学 のエントロピーを統計熱力学の手法で導き出すことに対応している。

超弦理論は、現時点では観測や実験事実を説明するまでには至っていないが、上記のようなブラックホールの問題の解決、宇宙論や現象論の模型への多大な影響、そしてホログラフィー原理の具体的な実現など、その成果を挙げるにはいとまがない。超弦理論に懐疑的な発言をしていたスティーヴン・ホーキングさえ、近年は超弦理論を用いた研究を発表した。これからの発展がますます期待される。
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