力の統一理論

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Category : 力の統一理論

テーマ:不連続的差異論 - ジャンル:学問・文化・芸術
【2005/11/02 03:29】 | 不連続的差異論 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0) |

自然とは何か:連続的自然と不連続的自然:連続的理性と不連続的理性
後で、詳論する予定であるが、今簡単に創造について触れると、根本的に二種類の創造がある。誰もが目にする、植物の創造は、造化である。スピノザ的に言えば、能産的自然による所産的自然である。これは、ピュシス、自然(じねん)である。しかし、人間は、工作する。テクネーする自然である。これは、造化の自然とは異なるが。広義の自然ではある。二つの自然があるのである。人間の造る機械も、一つの自然である。この自然が自然自体に破壊的ではある。
 ここで、不連続的差異論から見ると、創造は三種類可能である。

1)自然(じねん)の創造
2)機械の製作:人工的創造
3)不連続的差異による創造

これまでの創造観は、1と2が主流だったと思う。しかし、3が可能であるし、多くの創造的な物事は、3に関わるだろう。とりわけ、芸術と呼ばれるものは3に関係する。ここで、三つの理性が考えられる。

1の理性とは、自然科学である。フィボナッチ数列や黄金分割に関係する自然である。

2の理性とは、メディア・現象境界に関係する。つまり、近代的客観主義的理性である。これは、古い近代・自然科学である。

3の理性とは、不連続的差異の理性である。これは、イデア界の理性である。思うに、プラトンの『ティマイオス』であるが、その理性とは、1の理性と2の理性の折衷だと思う。3の理性こそ、現代の理性である。これこそ、純粋理性である。カントの純粋理性とは、イデア・メディア境界の折衷理性である。だから、アンチノミーとなるだろう。

現代は、3の創造・理性の新時代である。1の理性は、プラトンの理性である。そして、2の理性は、近代主義である。これが、1と衝突している。
 では、3の創造性とは何かである。これは、イデア・メディア境界における、新しい創造である。連続化の基準的比率(連続的理性)に因るのではなくて、不連続的差異的理性が基準となる。差異連続的理性ではなくて、差異共存的理性である。

p.s. 1がプラトンの理性と言ったが、説明が必要だろう。『ティマイオス』のデミウルゴスは、理性によって、宇宙を創造するが、それは、ピュシスとテクネーの中間であろう。キリスト教の創造神は、当然、自然を超越した神であるが、しかし、思うに、ロゴスで創造するのだろうから、プラトンデミウルゴスに似ているだろう。
 他に、カントの純粋理性であるが、イデア・メディア境界にあると述べたが、例えば、自由と必然のアンチノミーを考えると、自由とは、差異から発するのであり、それは、イデア界に根拠がある。しかし、必然性とは、現象界に根拠があるだろう。だから、やはり、これも誤りで、訂正したい。的確に言えば、イデア界と、メディア・現象境界とのアンチノミーだろう。思うに、カントの構想力(想像力)とは、メディア界だろう。
 後で、もう少し検討したい。

p.p.s. 構想力はメディア界であるが、これと、イデア界とが、カントにおいては、つながっていない。フッサールの超越論的主観性、超越論的現象学とは、イデア・メディア境界とイデア界に達していると思う。ただ、私見では、フッサールは、両者の間を揺れ動いていたようである。主観性という発想は、イデア・メディア境界だと思う。しかし、志向性の概念は、イデア界の力の概念と考えられるのである。
純粋理性批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん、Kritik der reinen Vernunft)は、ドイツ の哲学者イマヌエル・カントの主著で、第一版が1781年 に、第二版が1787年 に出版された。カントの三大批判の一つで、1788年 刊の『実践理性批判』(第二批判)、1790年 刊の『判断力批判』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間の理性が担う諸問題についての古典的名著。ライプニッツなどの存在論形而上学と、ヒュームの認識論的懐疑論の両方を継承し、かつ批判的に乗り越えた西洋哲学史上、もっとも重要な著作のひとつである。


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概論

純粋理性批判』は、理性 認識の能力とその適応の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学 (形而上学 )に先だち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。

カントは理性(Vernunft)がそれ独自の原理 (Prinzip)にしたがって事物(Sache, Ding)を認識すると考えるが、この原理は理性に経験にあらかじめ先立って与えられる内在的なものであり、理性自身はその起源を示すことが出来ず、またこの原則を逸脱して自らの能力を行使することも出来ない。換言すれば、経験は経験以上を知り得る事ができず、原理は原理に含まれる事以上を知り得ないのである。カントは理性が関連する原則の起源を、経験に先立つアプリオリな認識として、経験を基礎とせず成立しかつ経験のアプリオリな制約である超越論的 (transzendental)な認識形式にもとめ、それによって認識理性(theoretische Vernunft)の原理を明らかにすることにつとめる。
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人間的認識能力とその制約

伝統的な懐疑論は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。

ここでカントは認識の制約以前にある「物自体」(Ding an sich)と経験の対象である「物」(Ding)を区別する。「物自体」は理性を触発し(affzieren)、感性 (Sinnlichkeit)と悟性 (Verstand)に働きかけ、それによって人間理性は直観 (Anschauung)と 概念(Begriff)によって、かつ超越論的制約であるふたつの純粋直観(reine Anscuauungen)・空間 と時間 、また12の範疇 (Kategorie)すなわち純粋悟性概念(reine Verstandbegriffe)のもとに、みずからの経験の対象として物を与える。

しかしこれは一方で、人間理性(menschliche Vernunft)が、われわれの認識能力(unser Erkenntnisvermoegen)を越えるものに、認識能力を適応することができないということを意味する。すべての人間的認識は超越論的制約のもとにおかれており、ゆえに伝統的に考えられてきた直接知、知的直観の可能性は否定される。神 やイデア(理念)といった超越が、人間理性にとって認識可能であるとした伝統的な形而上学とは対照的に、カントは、認識の対象を、感覚に与えられ得るものにのみ限定する。すなわち、人間理性は、ただ感性にあたえられるものを直観し、これに純粋悟性概念を適応するにとどまるのである。

感性と悟性は異なる能力であって、これらを媒介するものは、構想力 (Einbildungkraft)の産出する図式(Schema)である。また感性の多様 (Mannigfaltigkeit der Sinnlichkeit)は統覚 (Apperation)、すなわち「我思う」(Ich denke: つまりデカルトのコギト)によって統一されている。しかし理性にはおのれの認識を拡大し、物自体ないし存在を把握しようとする形而上学への本性的素質 (Naturanlage zur Metaphisik)がある。このため、認識理性は、本来悟性概念の適応されえない超感性的概念・理性概念をも知ろうと欲し、それらにも範疇を適応しようとする。しかしカントは認識の拡大へのこの欲求を理性の僭越として批判し、認識(erkennen)されえないものはただ思惟する(denken)ことのみが可能であるとする。そのような理性概念として、神・魂 の不滅・自由 が挙げられる。
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アンチノミー(二律背反)

理性概念・理念(Idee)は人間の認識の能力を超えており、したがって理念を認識し、述語付けしようとする試みは、失敗に終わらざるを得ない。カントはそのような悟性の限界を4対の二律背反(Antinomie)する二命題の組み合わせによって示す。

こうした命題は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいはどちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適応をあやまったなりたたないものについての言述であることに帰する。こうした二律背反命題としては事物の必然性 と自由 についての背反命題(第三アンチノミー)があげられる。これはキリスト教において予定との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適応することから矛盾をきたすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由がなりたつことは、カントの批判の体系内では双方ともに真なのである。

ただし、こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』のなかでは必ずしも十分に展開されず、のちに『実践理性批判』で展開されることになる。
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影響史

純粋理性批判』第1版は、当時のドイツ の講壇哲学者と通俗哲学者の双方から激しい批判で迎えられた。とくにカントの哲学をバークリの観念論 と同一視する批判がなされた。カントはこれに反論し、自らの批判の内容を簡潔に要約した『プロレゴーメナ』を著すとともに、とくに感性論および統覚 と構想力について述べる部分に大規模な記述の書き換えをほどこし、第二版を発行した。しかしカントの理解としては、第一版と第二版の間には本質的な差はない。現代の研究者は、両者の間に発展をみとめるものの、大筋では同じ内容に異なる表現を与えたものと解している。

しかし『純粋理性批判』は若い世代に熱狂的に迎えられた。哲学的影響は、フィヒテシェリング といった、次の世代に及び、ドイツ観念論 の成立を促した。しかしドイツ観念論は、カントが否定した人間理性による超越の把握に再び向かうことでカントと方向性を別っている。

カントの影響は19世紀末には新カント学派 にも見られる。新カント学派では古典的物理学の認識の基礎付けという側面が強調された。またフッサール現象学 にもカントの影響は及んでいる。

美学 においては、『純粋理性批判』の構想力論をもとにコンラート・フィードラー が純粋視覚を提唱し、この理論はさらに、20世紀後半のアメリカにおいて、クレメント・グリーンバーグ により抽象表現主義 を擁護するフォーマリズム 批評の理論的根拠として用いられた。
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翻訳

純粋理性批判』には多くの邦訳があるが、以下には代表的なもののみを挙げた。