基本的な4つの力と四大(地水火風):イデア界の4+1=5つの虚力

基本的な4つの力と四大(地水火風):イデア界の4+1=5つの虚力の原構造


ここでは、詳述せずに、ポイントだけを考えよう。プラトンは、四大と正多面体とを結びつけている。
1)火=正四面体(正三角形の面)
2)空気・風=正八面体(正三角形の面)
3)水=正二十面体(正三角形の面)
4)土・地=正六面体(正方形の面)
そして、世界全体が、正十二面体(正五角形の面)である。
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-03/zone03top.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Platonic_solid
そして、ケプラーがこれを踏襲して、独自の宇宙論を立てたのであり、そこから、ケプラーの法則が生まれたのである。ある意味では、瓢箪から駒である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC
 とまれ、私は、これらが、物理学の基本的な4つの力と対応しないのかと思っているのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamental_forces
そして、正十二面体が、ダークエネルギーに対応しないかと思うのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dark_energy
 不連続的差異論から見ると、差異の垂直・水平の対極性があり、垂直の排斥力と牽引力、水平の排斥力と牽引力で、差異の4つの力が考えられ、また、4つの力を含む全体の力が考えられる。だから、4+1=5つの力があるということになる。これが、根源的な原動力・発動力である。だから、ここから演繹すれば、4+1=5つの力の構造が発生すると言えるだろう。これが、4つの力とダークエネルギー、四大や五大に対応するのか云々というよりは、この原構造が前提として存在し、それが、メディア界、現象界において、展開されると述べることが、エッセンシャルだと思う。そう考えれば、物理学の4つの力、ダークエネルギーという考え、プラトン立体、四大・五大という考えは、それぞれ、この原構造に一致するということはできるだろう。つまり、構造の問題としては、一致が見られるということであり、それはそれで限定するのである。
 そして、それ以上のことは、精緻に考察していくべきである。つまり、総論から各論ということである。

p.s. 
1.プラスのx軸とマイナスのx軸があるから、プラス5とマイナス5の力があることになるだろう。10(とう)の力である。しかしながら、プラス5+マイナス5=10全体の力が発生するだろう。すると、11の力となるだろう。超ひも理論では、10次元であったが、M理論では、11次元である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6%E7%90%86%E8%AB%96
http://en.wikipedia.org/wiki/Superstring
2.物理学の基本的な4つの力とは、基本相互作用をもっていることであるが、仮定されたイデア界の4つの力も相互作用をもつのである。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamental_forces


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何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのか:過渡期としての近代とポストモダン革命:補正2
2

近代において、古代宇宙論(コスモス論)が崩壊して、太陽中心の宇宙という物質主義的宇宙観が進展したということができる。コスモスの崩壊である。ユニヴァースが始まったと言えるだろう。
 簡単に言えば、コスモスと叡知が結びついていたが、ユニヴァースは、近代的知性と結びついている。これが、西欧近代が、叡知を失った理由である。コスモスからユニヴァースへの転換である。つまり、これは、叡知的宇宙から物質的宇宙への転換である。この問題は複雑であるが、簡単に言えば、叡知の力の宇宙(コスモス)から物質の力の宇宙(ユニヴァース)へとパラダイム変換したことである。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560024162/250-8960880-5103431
 わかりやすく言えば、宇宙が、なんらかの「精神性」をもったものから、数量化できる物質だけから構成されるものへと変換したということである。そして、この結果、近代的科学・唯物論的宇宙観が形成されたのである。これが、西欧近代における、叡知の喪失の事態である。これは、主客二元論と平行し(デカルト)、第3のものを喪失したのである。ただし、事態は、単純ではなくて、近世においては、この物質的理性と神の理性とが、一致していたのであるが、後に、分離して、神の理性が消失するのである(神の死)。つまり、本来は、神の理性と人間の理性とがあったわけであるが、後者中心になり、前者が消失したのある。つまり、三元論から二元論への転換がここにはあるのである。
 これを不連続的差異論から見るならば、メディア界の喪失であろう。イデア界と現象界の二元論となったのである。キリスト教的に言えば、聖霊の喪失であり、父と子の二元論の宗教となったのである。芸術的に言えば、想像力の喪失である。このようなコスモスの崩壊・喪失によって、叡知の伝統が断たれたと考えられるのである。【p.s.  ここは、もう少し慎重に述べる必要がある。近代において喪失されたものを、ここでは、メディア界と述べているが、しかし、同時に、イデア界が喪失されたと言うことも正しいのである。どちらなのか。近代的合理主義は、想像力を排斥しているのであり、メディア界の排除となり、同時に、イデア界の喪失となるのである。メディア界とイデア界の両方を喪失したと言える。だから、ここで、「イデア界と現象界の二元論」となったと述べているのは不正確なのである。訂正したい。正しくは、メディア・現象境界(言語界=超越論的形式)と現象界の二元論になったのである。つまり、カント的になったのである。あるいは、悪魔的になったのである。このメディア・現象境界が悪魔・ルサンチマン・憎悪領域なのである。ここをエポケーしないといけないのである。】
 しかしながら、この叡知の喪失は、単に否定的なものだけではなかっただろう。これは、デカルト哲学の問題である。ここに近代の意味が集約されるだろう。即ち、コギト主義である。個的合理主義である。近代以前までは、神の理性が、宇宙を説明していたが、コギト主義となって、個から、正確に言えば、個の特異性から、森羅万象を説明しなくてはならなくなったのである。これは、実に、認識の大革命、パラダイムの変換であった。カントが、コペルニクス的転回と自身の哲学を呼んだが、実は、これは、デカルト哲学に発していると言うべきだろう。それまで、神の理性、神の叡知が主導的であったが、コギト革命の結果、コギトが主導的となったのである。そして、このコギト主義に、先に述べた主客二元論、物質主義・唯物論が重なるのである。
 結局、西欧近代における叡知の喪失とは、単に否定的な意味だけでなく、積極的な意味、即ち、コギト主義という意味があったのである。何故、西欧近代において、叡知の伝統が断ち切れたのかという問題は、こういう意味をもつのである。これは、人類革命なのである。神の理性、神の叡知から人間の理性、人間の叡知への転換を意味するのである。しかし、これは、根源的次元の喪失をともなったのである。
 整理すると、近代的科学において、神のコスモスから人間のユニヴァースへの転換があり、コスモスの叡知が喪失した。それは、メディア界、想像力の喪失であった。しかし、それは、神の理性から人間・主体の理性・コギトへの転換を意味していたのである。これは、一般性から特異性への転換を意味するのである。つまり、一般的叡知が解体して、特異性が出現し出したのである。不連続的差異論から見ると、イデア界の本来の不連続的差異の特異性が発現し出したのである。進化というよりは、進展である。イデア界の進展としてのコギト革命である。
 結局、叡知の喪失とは、イデア界の必然的進展であり、一種の忘却である。即ち、特異性は、近代的二元論の装いをしたのである。特異性の現象界化の徹底ということである。イデア界の現象界化への徹底である。結局、コギト主義は、イデア界の叡知の必然であったのである。叡知の喪失とは、叡知の展開であったのである。叡知の現象界化、これが、西欧近代における叡知の喪失の意味である。フッサールの自然的態度である。ハイデガーの言う存在忘却にほぼ当たるだろう。つまり、不連続的差異論から見ると、1/4回転によってメディア界が発生し、さらに、1/4回転によって、現象界が発生して、イデア界がすっかり裏返しになり、イデア界を消失するのである。しかし、これは、イデア界自体の発現なのである。自己隠蔽的発現なのである。つまり、イデアの影としての現象・仮象なのである。西欧近代とは、この徹底であるということである。これは、自己否定的発現である。自己否定的同一性である。これは、暴力・権力・破壊・狂気的である、これまで何度も指摘したように。
 結局、西欧近代とは、ニーチェが言うような過渡期であったのである。イデア界の現象界への自己否定的転化の徹底化であったのである。ここでは、積極性と反動性が併存しているのである。
 さて、今やポストモダン革命の真っ直中であるが、結局、何が、近代主義からの転換の駆動力であるのか。私は、何度も、資本主義は、差異から発動していると述べた。コギト主義も差異・特異性によって発動しているのである。つまり、近代とは、不連続的差異・特異性によって駆動されていたのであり、それが、現象界という衣をまとっていたのである。結局、震源である不連続的差異・特異性・イデア界は、近代の枠組・フレームワークを破砕・ブレークせずにはいないということなのである。そして、今日、それが実現して、ポストモダン革命が驚異的に進展しているのである。近代が解体するのは、必然であったのである。それは、過渡期だったのである。近代は意外に短い時代だったと言えよう。16世紀から20世紀にかけての、約4世紀が近代だったのである。
 もう少し、精緻にこのポスト近代革命について見ると、不連続的差異・特異性の発動・発現としてのコギト主義があり、それが、主客二元論の近代諸科学を生んだのである。しかし、それは、表面的な学に過ぎなかったのである。なぜならば、ベースの不連続的差異・特異性を排斥しているからである。しかし、これは、「自己主張」を当然行い、その結果、近代主義が瓦解するのである。この破壊の獅子吼がニーチェであった。また、先駆として、ブレイク、シュティルナードストエフスキーキルケゴール等をあげていいだろう。ニーチェの後、フッサールがポスト近代の理論を打ち立てたのである。
 また、物理学は、大天才のアインシュタインによってポスト近代的科学が誕生し、量子力学が決定的にした。そして、世界戦争の大災厄を越えて、フランスで、構造主義革命以後、ポストモダン革命が再燃したと言えるだろう。ポスト構造主義、「ポストモダン」である。そして、冷戦の終焉後、資本主義のグローバリゼーションが発動し、ポストモダン革命が忘失される。しかし、グローバリゼーションは、近代とポストモダンの折衷である。帝国主義性は近代主義であり、新自由主義は、ポストモダン的である。即ち、近代的資本主義のもつ集団的特権性を破壊するのである。これも、不連続的差異・特異性から発動していると考えることができるだろう。結局、ポストモダン革命が資本主義にも進展しているのである。ポストモダン資本主義であるが、これは、不連続的差異的資本主義と言ってもいいだろう。ここでは、資本が不連続的差異化、ミクロ化すると言えよう。そして、ここから、新しい民主主義が創造されるだろう。不連続的差異資本の共立による民主主義である。不連続的差異的資本共立民主主義である。人間は、不連続的差異的資本市民となるだろう。イデア界・メディア界・現象界の循環叡知が、資本となり、社会・世界・自然を環流するだろう。そう、近代の無明を超えた叡知資本主義とも言えるだろう。

p.s. 先に、本件の問題に、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を結びつけたが、説明に飛躍があったので、ここで省いた。しかしながら、おそらく、両者は関係している。その点については、後で、検討したい。