心身=メディア界の様相について:認識された不連続的差異・イデア界

心身=メディア界の様相について:認識された不連続的差異・イデア界の教化


心身=メディア界は、もっとも、「複雑怪奇」な領域であろう。ドゥルーズガタリカオスモスと呼んだのは、この領域を指すと考えられる。コスモスとは、イデア界・ガウス平面を指すと見るべきだろう。また、ラカン精神分析想像界を脱エディプス化すれば、心身=メディア界になると考えられよう。
 私が今問題にしたいのは、この心身=メディア界の「心」の様相である。ここは、思うに、実に不安定な様相にあるだろう。一方では、イデア界的衝動があり、他方では、現象界的衝動がある。(前者が、シュタイナーの言うルシファー、後者がアーリマンに相応するのかもしれない。また、フロイト死の欲動であるが、それは、前者なのかもしれない。そして、「エロス」とは、後者かもしれない。)即ち、心身=メディア界は、完全に分裂的な領域なのである。心身が引き裂かれる領域なのである。この「カオスモス」ないしカオスを安定化するため、人類は、宗教やイデオロギーアイデンティティ等を欲望希求していると言えよう。
 近代とは、この心身=メディア界=カオスモスを、主客二元論で合理化した(近代自我合理主義)のであるが、しかしながら、この合理pしは、当然、差異である。メディア界の差異(メディア差異)である。メディア差異不安を排除隠蔽することが、暴力なのである。それは、自己と他者への暴力であるが、自己のメディア差異不安を他者へ投影して、自己→他者攻撃をするのである。オリエンタリズムとは、この展開であろう。また、白人が有色人種を差別するのも同様であろう。
 心身・メディア界・カオスモスは、共感性の領域であり、自己と他者とが、いわば、触れ合うのである。ドゥルーズガタリの離接の領域である。大拙即非の論理の領域である。しかしながら、同時に、反感の発生する領域であり、同一性自我=近代主義へと転化する領域である。問題は、反感によって同一性自我へと転化するのを防ぎ、共感性を保持する知恵である。スピノザの『エチカ』には、そのような知恵が能動的観念等として説かれている。しかしながら、このスピノザの叡知・般若も、完全に、同一性自我から脱却していないと考えられるのである。思うに、連続性が、スピノザ哲学にはあり、それが、反動となり、同一性自我につながると思うのである。心身・メディア界・カオスモスの共感性とは、連続性をもつのであり、そのため、反感が断ち切れないのである。
 しかし、不連続的差異論に拠れば、差異が不連続化するため、共感性が、不連続化するのである。つまり、共感性が独立・直立するのである。そのため、共感的歓喜が反感反動から分離して、同一性自我へと転化するのを防ぐのである。そう、不連続的共感性、不連続的心身・メディア界・カオスモスが形成されるのである。ODA ウォッチャーズ氏が説く差異の共立としてのメディア界とは、この事態を指していると考えられる。不連続的メディア界、不連続的差異的メディア界である。これは、イデア界化されたメディア界と換言することができる。また、半田氏が説いた聖霊としてのメディア界も、ほぼ同様のことを指していると考えられよう(聖霊とは、イデア界からメディア界へと作用するだろう。ならば、聖霊とは、不連続的差異の叡知ソフィアの力であろう。では、叡知ソフィアの力とは何か。イデア界の力である。イデア界の理念の力である。それは、コスモスの力である。エネルギーを超えたエネルギーである。スーパー・エネルギーである。しかし、単にイデア界の力ではないだろう。イデア界の1/4回転を生む力の認識だからである。つまり、これは、逆1/4回転であろう。イデア軸であるX軸へ回帰する力である。マイナス1/4回転の力である。あるいは、4/4回転の力である。そう、イデア界・ガウス平面への回帰・永遠回帰の力である。)。私が、これまで、イデア界の差異の共立に拘ってきたのは、メディア界がもっている連続性から脱却したいためであったのである。しかし、イデア界に達すると(親鸞往相回向)、今度は、認識・覚知されたイデア界の作用が、他の領域へ浸透する(還相回向、理事無碍&事々無碍)と考えられるのである。そして、メディア界が不連続化されるのであり、さらに、現象界が不連続化されるのである。即ち、総合的不連続的差異化である。共感性も、不連続的共感性となり、イデア界的な共感性となるのである。
 ここで、D.H.ロレンスの真の代表作である『死んだ男』で、「死んだ男」=イエスが、宇宙の暗い薔薇に、神秘的に、触れるとき、それは、メディア界の共感性によるものであるが、しかし、それ以前、「死んだ男」は、イシスの巫女との不連続的差異の共立を体験しているのであるから、この宇宙の暗い薔薇との神秘的接触とは、不連続的メディア界の共感的接触、不連続的差異的共感的接触と見るべきである。ならば、それは、コスモスの不可視の薔薇との接触と呼ぶのは正しいのである。