一神教と近代主義について:一神教と近代主義のポジティブな面は何か

一神教近代主義について:一神教近代主義のポジティブな面は何か:超越神と内在的超越性
テーマ:一神教多神教
Mon, July 31, 2006 20:38:37


旧約聖書から見る限り、ヤハウェは、ユダヤ民族が、偶像崇拝を行っているのを忌み嫌い、懲らしめたのである。金牛の崇拝、バアル神崇拝、等々を憎悪して、超越唯一神である自分を崇拝するように、強制したのである。
 バアル神崇拝等は、多神教自然宗教と考えられるのである。おそらく、母権的な女神崇拝もあったと思われるのである。
 さて、もし、一神教が生まれなかったら、どういうことになったのであろうか。ユダヤ民族は、偶像崇拝多神教、自然崇拝、母権制を維持したのであろう。偶像崇拝を考えよう。これは、日本で言えば、御神体崇拝である。山岳を御神体とする信仰は日本では普通である。現在でも、奈良の三輪(みわ)山は、大神(おおみわ)神社の御神体である。これを、ヤハウェは禁じたと考えればわかりやすいだろう。これは、超越神か否かの問題である。内在的神を、ヤハウェは禁じたということになる。(スピノザの神即自然は、内在的神を説いているので、ユダヤ教の逆鱗に触れたということで、スピノザは破門されたということだろう。)
 問題は、超越性である。あるいは、内在性である。私は、神が存在するなら、内在的超越性のものと考えていたのであり、超越神の考えは、まったく、考えられなかったのである。三輪山御神体であるという神道は、内在的超越神の宗教であると言えるだろう。
 ここで、新プラトンシナジー理論から考えると、超越とは、虚軸・Y軸の問題となるのである。思うに、実軸・X軸から見ると、Y軸・虚軸は、零度の位置にあるので、存在するような、しないような、不確定の存在である。(量子・素粒子とは、実は、この領域の物質的反映であると考えられる。)そして、連続・同一性中心主義になると、完全に、Y軸・虚軸は消えてしまうだろう。あるいは、無意識の内に、抑圧・削除してしまうのである。
 ここで、日本人の宗教心を考えると、結局、内在的超越信仰・多神教は、実際のところ、日本人の意識から、ほぼ消えてしまったと言えるだろう。開発主義やゴミや汚染で自然が破壊された国土を見れば、瞭然である。結局、ある意味では、キリスト教の国の方が環境対策は進んでいるのである。とくに、ヨーロッパであるが。アメリカの国土は広く、環境破壊が目立たないのではないだろうか。イギリスのナショナル・トラストは、自然を保護しているだろう。
 とまれ、内在的超越神信仰は、消えゆく必然性があり、超越一神教の方が、進歩的であることを仮に認めよう。思うに、これは、自我形成の歩みを反映しているように思うのである。前者は、情感的であるが、後者は契約的である。ロゴス・言語的である。
 ということで、大雑把ではあるが、超越一神教は、自我とロゴスの形成においてポジティブであったと言えよう。
 次に、近代主義であるが、これも複雑であるが、ここでは、近代合理主義としての近代主義を考えたい。これは、ルネサンス個人主義を前提にした、超越一神教個人主義化と、おおまかには、言えるのではないだろうか。超越性とは、ロゴスが引き受けているのだろう。だから、超越的ロゴス・理性・合理性である。
 最後に検討したいのは、消えた内在的超越性と超越神性との比較である。内在的超越性は、多者においては、消滅する必然性にあったのであるが、優れた少数者においては、継続したと言えよう。哲学で言えば、スピノザ哲学である。また、文学・芸術では、ロマン主義象徴主義等になったと言えよう。そして,キリスト教は、実は、微妙である。イエス・キリストという具体像が、内在的超越性を喚起しないとは言えないからである。だから、キリスト教とは、内在的超越性と超越神性との中間態であると言えるだろう。
 私が考える内在的超越性とは、実は、差異共振性のことである。これは、連続・同一性や自我の発達にともない、衰退する傾向にあるのだろう。連続・同一性主義・自我中心主義が、差異共振性を否定・排除・隠蔽してしまうのである。新プラトンシナジー理論は、差異共振性を主唱するのであるが、それは、内在的超越性の復活を意味するのである。当然ながら、それは、かつての多神教ではありえない。これは、ポスト連続・同一性中心主義・ポスト近代主義・ポスト近代自我主義を意味するのである。つまり、西洋文明の極限から反転して発生する内在的超越性を意味するのである。言い換えれば、ポスト一神教としての内在的超越性であり、新たな内在的超越性である。この力学は何であろうか。
 それは、一言で言えば、差異である。特異性としての差異である。それは、正しくは、不連続的差異、絶対的差異に基づく力学である。ここには、近代の正統性の問題があるのであるが、私見では、近代は、イタリア・ルネサンスにおける差異の発動が起点なのである。それは、特異性としての差異、不連続的差異としての差異の発動である。それは、実は、イデア界から発動・起動・作動しているものと考えられる。そして、宗教改革によって、差異が、超越神的に否定・排除・隠蔽されるのである。つまり、新たな内在的超越性の超越神化が宗教改革にあったと考えられるのである。そうだ、近代(原近代と呼ぶ)は、新内在的超越性=不連続的差異の発動の新時代であったと考えられるのである。これを、似非近代主義=近代合理主義が、隠蔽していったのである。しかるに、正統近代(例えば、哲学では、ニーチェフッサールである)とは、これを批判的に見るのである。この鬱勃たる内在的超越性=不連続的差異性が、不滅である。結局、近代合理主義とは、新内在的超越性=不連続的差異性を、超越神的合理主義で否定・排除・隠蔽したものであろう。似非・近代主義なのである。プロテスタンティズムは、イタリア・ルネサンスの差異主義に対する父権的反動と正当に呼べるのである。これは、換言すれば、差異共振性に対する反動なのである。Y軸・虚軸への反動なのである。これを、執拗に否定・排除・隠蔽せんとするのである。これを魔女狩り的に攻撃するのである。さらに、換言すると、差異共振性とは、キリスト教では、聖霊に当たるのである。純粋に、聖霊を肯定すると、実は、キリスト教会が崩壊・瓦解・解体するのである。聖霊は差異共振性であり、内在的超越性であるから、超越神宗教を破壊するのである。西洋文化・文明は、超越神性のために、差異共振性を否定・抑圧・排除・排出・隠蔽してきたのである。
 ここで、簡単に整理すると、超越一神教近代主義のポジティブな面は、自我や合理主義を形成したことにある。しかし、同時に、差異共振性を排斥してきたのであり、そのため、今日、地球世界は、絶滅の危機にあるのである。そう、超越一神教がなければ、近代合理主義が発達しなかったであろう。そして、それは、反転的に、アイロニー的に、逆説的に、差異共振性=新内在的超越性を示唆ないし指示しているのである。そう、近代合理主義がなければ、パソコンもなかったのである。
 さて、ここで、ついでながら、いわば、おまけとして、バッハ音楽やバロック音楽について考えると、バッハ音楽はドイツ・プロテスタンティズムの音楽であるが、例外的に、カトリック教会でも認められているのである。バッハ音楽は、確かに、キリスト教的芸術であるが、しかし、本当は、イタリア・ルネサンスによる差異共振性=不連続的差異性が基盤にあり、それがプロテスタンティズムをまとっていると考えられるのである。また、ヘンデル音楽もそうだと思うのである。彼らは、音楽のダ・ヴィンチ、ラファエル、ミケランジェロである。これが、モーツァルトになるとはっきりするだろう。モーツァルト音楽では、キリスト教的様態が薄くなっているのである。それは、差異共振の現象音楽と言えよう。