近代的自我:差異の否定・排除・隠蔽・無化の構造について

明日野氏の反動に関する試論は、後で検討することにして、今は、簡単に本件について触れて留めたい。
 (+i)*(−i) ⇒+1が一人称の自己認識方程式である。例えば、(+i)を自己とすれば、(−i)が他者になる。これは、内在的他者である。内界の他者である。自己内他者である。私が自己の差異というときは、(+i)*(−i)を指しているのである。
 では、近代的自我はどう数式化できるのか。近代的自我は、(−i)を否定するのである。では、否定をどう数式化したらいいのか。それは、−でいいのではないだろうか。つまり、(+i)*−(−i)が近代的自我ではないのか。そして、(+i)*−(−i)⇒−1となるということではないのか。これは、結局、(+i)*(+i)⇒−1と同じことになるだろう。そう、これは、正に、(+i)という自己が中心となった数式ではないだろうか。本来、自己*他者とならなくてはならないのに、自己*〜他者となって、−1の同一性自己=自我になっているのである。おそらく、−1は、近代的自我を表わすと言ってもいいかもしれない。精緻な検討は後にしよう。
 さて、問題は、他者を否定する−がどこから発生するのかである。これが、おそらく、この問題の核心の一つだろう。直観から考えよう。この他者否定から自己同一性=自我が形成されるのである。この否定には、自己満足があるのである。そして、これが、傲り、慢心、高慢さを生起させるのである。では、何故、そのような自我感情が発生するのか。
 それは、他者が苦悩(苦しみ)を与えるからである。そう、直観であるが、内在的即自的他者とは、差異共振シナジーを形成する他者である。零度の他者である。しかし、この他者は、苦悩を与えるのである。何故か。本来、この他者と共振しているので、自己は、幸福なはずである。しかし、何故、他者は苦痛をもたらすのか。本来、歓喜の源泉である他者がどうして、苦悩・苦しみをもたらすようになるのか。思うに、自己の直立・独立の志向が発生して、そのために、他者が阻害原因となり、苦悩をもたらすのではないだろうか。自己独立のための阻害として他者であるから、他者を否定するようになるということになるだろう。
 私の勘では、この自己独立に、新たな1/4回転が必要なように思えるのである。これによって、零度が、否定されて、−1になるということではないのか。即ち、(i)*(i)⇒−1である。これが、独立自己、即ち、同一性自己=自我である。こには、自己認識はないのである。ただ、自己独立だけである。他者を否定して独立した自己=自我だけである。(おそらく、これが、父権的自己である。)−1である自己=自我には、他者はいないので、横暴・専横・暴虐、等々である。そして、この延長が近代的自我である。
 しかし、先に私は反転と言ったが、それが、⇒差異、あるいは、(+ i)*(−i)ではないだろうか。つまり、反転としての−i である。つまり、差異共振シナジーが発生するということである。差異共振シナジーエネルゲイアが発生するということである。すると、−1である独立自己=自我の「深層」・「無意識」・「潜在意識」において、いわば未知のエネルゲイアが発生するのである。
 ここが大事なポイントである。−1である自己ないし自我は、−iを否定して成立しているのであるから、−iが新たに発生する反転において、反動化するはずである。いわば、自己否定である−iが作用しているのである。自己矛盾に陥るのである。同一性自己=自我を否定するエネルゲイアが作用しているのである。
 この自我否定のエネルゲイアの取り込み方は、伝統文化において存しているのである。それが、智慧・叡知、あるいは、教養である。あるいは、社会的習慣である。問題なのは、近代においては、伝統文化を否定しているので、自我は、自我否定のエネルゲイアの取り込み方を知ることができない環境に置かれているのである。そのために、自我主義的に、自我流に、対処するのである。発生した−iをさらに否定するのではないだろうか。即ち、−(−i)=+i である。同一性自己=自我形成のときは、1/4回転は能動的であった。しかし、反転期において、同一性自己=自我を維持するのは、反動である。思うに、1/4回転で、(i)*(i)⇒−1が生起したが、しかし、内面においては、(−i)が存しているのである。だから、(i)*(−i)が潜在しているはずである。そして、反転期において、この潜在している(i)*(−i)が活性化(賦活)されることになり、差異共振シナジーエネルゲイアが発生すると言えよう。
 私が問題にしている近代的自我であるが、反転期において、何らかの原因で、−(−i)=(i)を生み出すのである。つまり、(i)*(i)=−1である。つまり、同一性自己=自我が強化されるのである。しかし、この否定は、反動である。1/4回転が否定、−であったならば、反転は肯定、+のはずである。つまり、+(−i)=−i である。だから、(+i)*(−i)⇒+1となるのである。
 では、反転を否定する−はどこから発生するのか。これがアポリア(難問)である。作業仮説で言えば、−1が原因ではないだろうか。−iが発生すると、+1という自己が発生するのである。これは、−1を否定するのである。だから、−1の自我・同一性自己は、−iを否定するのである。だから、同一性自己・自我の−1が、否定の原因のように思えるのである。これが、近代的自我の狂気の事象である。フランス・ポストモダンの頓挫の原因もここにあるのであるし、アイロニカルな没入もこれが原因ではないだろうか。
 結局、反転や反動の問題は、−iが潜在しているが、それが、+iにとって、未知のように思える点ではないだろうか。自己独立する前は、+iは、−iと共立していた。しかし、そこから脱して、自己独立するのである。そして、−iは潜在したままである。いわば、デュナミスである。しかし、反転によって、それがエネルゲイアとなるのである。近代的自我にとっての悲劇は、−iの文化が喪失されているので、それを単に否定・排除・隠蔽するしか方法ない点であろう。これが、私がこれまで、異常に執拗に繰り返した近代的自我狂気の事象である。−iの文化・教養・社会・経済の喪失である。そして、現在の日本の狂気は、ここに存していると言える。
 哲学の復権である。そして、プラトニック・シナジー理論の日の出である。