反差異(連続)的同一性と−(−i)について:最初の−の起源

反差異(連続)的同一性と−(−i)について:最初の−の起源


今は、本件について、簡単に触れるが、(i)*(-i)⇒+1は、差異的同一性=自己の方程式であるのに対して、(i)*-(-i)⇒−1は、反差異的(連続的)同一性=自我の方程式であると定義化した。
 後者は、近代的自我の事象を意味しているし、さらに、自我と呼べる事象一般を指していると考えられる。問題は、先にも述べたが、−(−i)の最初の−(マイナス)の起源である。先には、そのような否定的状況の固定化を仮説して考えたのである。つまり、飢渇のような極限状況の場合を考えたのである。その時、−(−i)が固定されると考えられるからである。しかし、それは、経験論の考察であり、絶対とは言えないのである。飢渇状況になっても、当然、+(− i)を保持する場合が、考えられるからであるし、そのような場合も人類史においてかなりあると考えられるのである。
 ということで、内在的論理を考える必要がある。さて、反差異(連続)的同一性は、(i)*-(-i)⇒−1であり、左辺の最初の−の発生がどういうものであるのか、ここで、一つ思考実験してみよう。「メディア界」(本当は、差異共振シナジー空間である)において、iと−iが共振していると考えられる。だから、i即非−iである。だから、i即-iのときがあるはずである。これは、いわば、反対物の一致である。この即が、いわば、即一(そくいつ)性が、原・反差異的同一性の起源ではないのだろうか。この即一性を、とりあえず、⇔で表記しよう。すると、(i)⇔(-i)となり、i=-i又は-i=iとなるだろう。これを自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1にあてはめると、(-i)*(-i)⇒-1又は、(i)*(i)⇒-1となるだろう。そうすると、追求していた最初の−とは、即一性が起源であるということになるのではないだろうか。「メディア界」の即非事象・様相において、即一性の傾斜をもつときに、反差異(連続)的同一性が派生するといえるのではないだろうか。そして、これは、明日野氏がいみじくも述べているように、倒錯なのである(転倒とも呼べるかもしれない)。
 それに対して、(i)≠(-i)のとき、いわば、非性のときは、(i)*(-i)⇒+1が成立するのではないだろうか。(i)と(-i)との差異を、正常に認めるときに、差異的同一性=自己が派生すると言えるのではないだろうか。だから、まとめると、即非性があるときは、±1という自己/自我が形成されるのである。差異的同一性と反差異(連続)的同一性の両義性がここにはあることになるのである。これが、思うに、正常の「わたし」の分裂であろう。そして、これが、プロト・モダンであろう。しかるに、即一性だけが肯定されることになったのである。即一性の傾斜だけが肯定されて、非性が否定される事態が発生したのである。反差異(連続)的同一性主義である近代的自我の誕生である。
 何故、即一性が肯定されて、非性が否定されたのだろうか。ルネサンスには、非性があったにもかかわらず。問題は、即一性への傾斜の力学にあるのではないだろうか。自己と他者が同一に見える視点があるが、これが固定されるのである。この固定力学は何なのか。直感では、幻想能力に関係があるように思えるのである。あるいは、見なし能力である。自己と他者は異なるものであるが、それを同一であると見なすのである。これは、正に、差異=微分の考え方と共通だろう。極限値を、等号化するのである。
 ならば、幻想力・見なし力の起源を考えなくてはならない。私のこれまでの直観思考では、「メディア界」の即非・極性様相から、ねじれて、反差異(連続)的同一性が発生するのである。つまり、第二の1/4回転によって、非性が否定・排除・隠蔽されて、即一性による反差異的同一性が発現するのである。つまり、即一性ないし反差異性への傾斜力学が発動するのであり、それが、差異を否定・隠蔽するのである。今想起したのは、言語形成が、この即一性の傾斜力学と関係するのではないのかという点である。例えば、現象の「山」があるとしよう。それに対して、観察者は、yamaと呼ぶ。あるいは、山と文字表記する。しかし、現象の「山」は、本来、特異性、差異である。つまり、差異的同一性としての「山」である。それをyamaと呼ぶとき、それは、既に、差異から同一性へと、つまり、差異的同一性から反差異(連続)的同一性へと移行しつつあると考えられるのである。ということで、作業仮説的に、言語化が、即一性化と結びつき、それを固定化するのではないだろうか。あるいは、即一性化が言語を発生させたと言えるのかもしれない。差異的同一性である、現象の「山」を、反差異的同一性であるyamaに変換するのであるから。
 とりあえず、今の時点では、これまでの考え方を踏襲して、即一性への作用が生起して、差異を否定して、反差異的同一性が形成されたと考えよう。そして、そのいわば、反作用として、非性への作用が発生して、差異的同一性が形成されるとしよう。即一性への傾斜エネルギーをプラス・エネルギーとすれば、非性への傾斜エネルギーはマイナス・エネルギーになり、両者相殺されて、ゼロ度になるということである。エネルギー保存則である。
 以上の視点から、西欧近代、近代主義を見ると、それは、即一性へと強く傾斜し、非性への傾斜をほぼ否定したことがわかるのである。とまれ、この問題は、たいへんなアポリア(難問)である。


参照:
「即自と対自、即非と対非」

  1. i,-i,+1,-1についての考察

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=402313
Theories for the Platonic Synergy Concept.