検討問題:自己認識方程式と身体・感情・心身

検討問題:自己認識方程式と身体・感情・心身


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


先に述べたことから、本件について言うと、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式において、iが思惟であり、(-i)が延長となるが、主体においては、iが精神であり、(-i)が身体となるだろう。そして、*において、感情が発生する。あるいは、欲望が発生する。(今、この問題は保留しておこう。)
 とまれ、iと-iが共立共振したときが、美であり、倫理であり、真理であろう。(バッハの音楽の精神性やアート性は、ここから発しているだろう。)この共振の美的感情が、歓喜である。しかし、バッハの音楽の美的感情と、例えば、美味な料理の歓喜とはどう異なるのだろうか。精神的歓喜と身体的歓喜である。倫理的歓喜と感覚的歓喜と言ってもいいだろう。これは、実に、プラトニズム的問いであろう。
 例えば、美味な魚料理を食するとしよう。極上の味であるとしよう。私の味覚と魚料理との共振作用があるだろう。一見、i*(-i)の関係のように見えるが、果たして、そうだろうか。あるいは、みかんを食べるとしよう。とても甘味のあるみかんである。この舌の味覚は、差異共振なのだろうか。そうではないだろう。味覚の場合は、感覚中心で、倫理や精神がないからである。
 例えば、姿造りで、動いている魚の刺し身を食べるのは、なにか、気色悪い、魚の目が私を見つめているようである。これなどは、倫理的である。
 ということで、ざっとであるが、精神的歓喜と身体・感覚的歓喜とは、別のものであるということになった。バッハの音楽を例にとれば、精神と感覚、ないし精神的感覚の問題がある。
 精神とは何だろう。対象を「モノ」と見たら、主体による対象への志向性は、精神的にはならない。例えば、単に食べ物としてのみかんは精神的対象にならない。「モノ」としての対象と精神的対象の違いは何か。対象を他者として見るときに、精神性が生まれるだろう。ある人種を、他者ではなくて、劣等人種と見るとき、そこには、精神性はない。
 共感性の問題があるだろう。共感性は、差異共振精神感情である。倫理的感情である。仁義である。美徳である。仁徳である。ここで、先の陽意識と陰意識の双方向性を考えると、共感性は、陰意識、−エネルゲイアに基づくであろう。陽意識、+エネルゲイアは、連続的同一性を形成するだろう。対象に自己投影して、自我所有とするのである。(私は、これが、フロイトの死の本能だと思う。)ここには、攻撃行動があるだけであり、「仁義」はない。陰意識、−エネルゲイアを排除しているのである。(反復強迫とは、この排除による反動ではないだろうか。)
 そう、陰意識、−エネルゲイアがあっても、陽意識が維持されれば、自我が維持されているのである。つまり、連続的同一性という自我が残るのである。つまり、これは、他者を確認していないのである。連続的差異としての対象なのである。だから、陽意識が解体して、不連続的差異である他者が出現すると言えよう。陽意識の解体とは、現象学的還元、エポケーのことだろう。脱自我のことだろう。まったき他者が出現するのである。反差異・連続的同一性が隠蔽していた、他者が出現するのである。これは、自己内の-iの発見でもある。陽意識の盲点が、出現するのである。陽意識の「光」が隠蔽していた陰意識の「闇」が現れるのである。この「闇」とは、実は、光である。本来の光である。真光である。ロレンスが言った黒い太陽とは、このことではないのか。阿弥陀如来の無量光とは、このことではないのか。-iの光、陰意識・−エネルゲイアの光である。いわば、闇の中の光である。
 そう、ここで直観で言えば、私が自然に見る光とは、この光である。-i、陰意識・−エネルゲイアの光を、私は、自然に見るのである。これは、なにか、現象の光と混じっている。太陽の光も、この陰の光のように思えるのである。つまり、現象光には、-i、陰意識・−エネルゲイアの光があるのではないだろうか。では、+iの光とは何か。これは、光の闇だろう。白い闇ではないだろうか。連続的同一性の闇ではないだろうか。近代主義の闇、唯物論の闇ではないだろうか。近代は、闇を見ているのである。光を排除しているのである。陽の闇と陰の光があるのであり、近代は、後者を排除して、前者と一体化しているのである。悪魔となり、天使を排除しているのである。
 ここで、簡単に整理すると、感覚は闇であり、精神は光であるということである。みかんの甘美さは、闇の歓喜なのであり、バッハによる歓喜は、光の歓喜である。今は、ここで留めて、さらに検討したい。