以下、toxandoria氏の論考『[暴政 ]“暴政の調教に身を任せるサル”

以下、toxandoria氏の論考『[暴政 ]“暴政の調教に身を任せるサル”と化した日本のメディア 』へのコメントを転載します。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20061130#c1164984655

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platonicsophience 『toxandoria 様


やや久しぶりにコメントします。
現代日本の政治・社会状況へのラディカルな批判は、首肯できるものです。
以下、3点が目に付きました。


1)1930年代の空気に似ていること
2)「天の声」という支配権力
3)政権のペットとしてのメディアと思考停止の国民


これは、明確に、「1984年」全体主義体制ですね。
北朝鮮体制と共通します。
この全体主義メディア体制、これがいちばんの問題ではと思います。
「初めに結論ありき」とおっしゃっていますが、これは、キャッチ・コピーの世界ですね。あるいは、マニュアルの世界ですね。思考過程を飛ばして、要領良く、結論を鵜呑みにするのです。どうも、現代日本の民主主義の脆弱さは、この辺にあるように思われます。簡単に言えば、教養の欠落です。
携帯の時代です。真理よりは、思考過程を自分は取ると言ったレッシングの金言を想起します。つまり、現代日本人は、自分で難解な書物を読書して、思考力を培うトレーニングを喪失していて、マニュアル的結論に飛びついて、天狗になっているように思われます。私は、完全にレッシングの見方に賛成です。結論より、思考過程が大事だと思います。つまり、自分で考えるということです。これが欠落しているので、マスメディアや政治家の言葉を鵜呑みにするのだと思います。
 数年前なくなった阿部勤也氏の『教養とは何か』を読み、かつて職人の教養とは、すべての学問に精通することであるとありました。教養はそういう森羅万象似通じるものだと思います。これが、なくなっているために、専門御用学者どもやマスコミの軽薄人が跋扈しているのだと思います。
 結局、知識の根っ子のところに、教養・涵養cultivationがなくてはなりません。そして、ここから、独立した個が生まれて、真正な民主主義が可能になるのではと思います。
 さて、いつも、美術や映画や写真等々を関連させて、楽しんでいます。私は、昔は、ピーテル・ブリューゲルのファンでした。あの鮮烈な画面は何か、未だに、解析できていませんが、toxandoria氏の解説により、謎が明らかになりつつあります。ゴヤの絵画に通じることになりますね。そうすると、フランドルとスペインの関係がありますね。海舌氏が禅的に解説していましたが、確かに、零度のリアリズムだと思います。ゼロ度において、現象は、その真相を露呈するように思います。』