志向性:連続的同一性志向性エントロピー・エネルギーと即非志向性ネ

志向性:連続的同一性志向性エントロピー・エネルギーと即非志向性ネゲントロピー・逆エネルギー


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


i*(-i)⇒+1における志向性の問題


iの-iへの志向性が、連続的同一性になるならば、-iからiへの志向性も、連続的同一性にならないのか。思うに、そのように単純に対称的にはならないのではないだろうか。主体であるiの志向性は、否定的志向性であるが、-iの志向性は、肯定的志向性ではないだろうか。というか、一番最近には、そう考えたのである。思うに、iの志向性は、知的認識の志向性であり、光の認識の志向性ではないか。もし、そうならば、- iの志向性とは、闇の認識の志向性ではないのか。問題をそのように変換していいのだろうか。もともと、iは、差異であり、-iも別の差異であるはずである。ならば、-iの志向性は、単に、闇の志向性ではない。それも、光の志向性になるだろう。つまり、iの志向性も、-iの志向性も、光の認識の志向性であり、連続的同一性の志向性と言えるのではないのか。そのように考えるならば、i⇔-iで、i=-iとなり、これは、正に、即非の世界ではないだろうか。つまり、i*(-i)⇒+1は、i=-iという絶対矛盾的自己同一を意味しているということになるだろう。しかし、問題は、連続的同一性の志向性の帰結が即非であることである。現象界は、対立の統一された世界ということになる。あるいは、差異の統一された世界であるということになる。つまり、即非であり、且つ、連続的同一性の世界であるということになるのではないか。言い換えると、本来、i*(-i)⇒+1であるのに、結果は、⇒−1となっているということではないのか。思うに、連続的同一性とは、弁証法である。即ち、iによる連続的同一性の志向性があり、且つ、-iによる連続的同一性の志向性があるのだから、主体中心主義と他者中心主義に揺れ動いているはずである。思うに、これが、優越性と劣等性の二項対立(言わば、主体と他者、主人と奴隷のシーソー)の根因であろう。そして、これが、自我である。劣等感コンプレックスを抱き、且つ、優越感を保持しようと構えているのである。当然、他者に対して、弱者であり、且つ、攻撃的なのである。(因みに、この自我の病的な屈折をもつ人物を、ドストエフスキーが、迫真に描いているだろう。また、今日、日本では、このような病的な自我の人物が蔓延しているだろう。自己愛性人格障害とは、正に、この病だと考えられる。)

 以上では、自我形成が、主体と他者、両者による連続的同一性への志向性によってなされると考えたのであるが、そうならば、⇒+1の差異としての自己は、どのように形成されるのだろうか。以上の自我形成は正に、ヘーゲル弁証法と一致するものであったが、真正な自己、差異である自己、特異性である自己は、どうやって生起するのか。主体と他者との二項対立のシーソーではない、即非・対極性を構築する力学は何か。私の直観では、これは、自然(じねん)なのである。あるいは、個人の基盤に、何ものにも換えがたい、「個」・特異性があると思うのである。「わたし」の言わば、「根っ子」である。他者と主体を比較して、劣等感、優越感に浸る自我とは別に、「わたし」の「根っ子」に「個」・特異性・単独性(これが、不連続的差異なのだが)があると、自然(じねん)に感じられると思うのである。そう、自我の劣等感vs優越感の弁証法から超然とした個の核(個核とでも呼ぼうか)があるのである。ただし、これは、素朴状態では、不連続性と連続性の中間態にあるように思える。おそらく、これは、メディア界の自然素朴様態と呼べるのかもしれない。一方では、不連続性があるが、他方では、連続性である自我と結びつく。(差異共振シナジーは、不連続性に存しているのである。)この自己/自我の自然状態が、結局、近代の矛盾であったのである。自然状態では、連続的同一性に帰結するから、個・個核が、不連続化せずに、連続性と結びつくのである。(多くの哲学や心理学が、この連続性から脱却できずに、自然素朴状態のままであった。これを明確に切断できたのは、カント、キルケゴールニーチェ、そして、フッサールくらいであったろう。日本では、西田幾多郎鈴木大拙くらいであったろう。)

 ということで、自然過程である連続的同一性とは別に、個・個核・差異・特異性・単独性があることになったが、何故、あるのか、それを説明していない。それは、端的に言えば、主体と他者の関係は、本来、即自的にあると考えられよう。つまり、これまで述べてきたように、即自的な、主体と他者との関係として、心と身体の関係があると考えられるのである。即ち、即自的に、心と身体が、主体と他者として、内在しているのである。これは、自我におけるような、主体と外的他者との弁証法ではなくて、即非・対極的関係にあると考えられよう。なぜならば、「わたし」は、心であり、且つ、身体であるからだと思われるのである。この事態は、主体と外的他者との関係とはまったく異なると言えるだろう。何故なら、「わたし」は、主体であると、同時に、外的他者であるとは言えないからである。純粋に、対自的な他者なのである。つまり、即自態において、「わたし」は、主体である心であると同時に、他者である身体でもあるのである。つまり、即自態において、即非が成立しているのである。この即自的即非性が、個・個核・差異・特異性・単独性の根拠・基盤・土台・根底・基底・原基・ベース等である。整理すると、即自態においては、即非性があり、対自態においては、弁証法があるということである。この不連続性と連続性の癒着の矛盾が人間にはあるのである。

(ここで、付け加えれば、倫理・道徳とは、本来、即非性の起源があるのである。自我は、没倫理・没道徳的である。近代主義は、無責任人間を生んだのである。倫理的エネルゲイアは、即非性から発するだろう。これは、零度のエネルギーであり、連続的同一性のエネルギーとは区別される。そう、即非エネルギーと連続的同一性エネルギー、差異共振エネルギーと反差異的同一性エネルギー、この違いは何か。明らかに、質的に異なるのである。この点については、後で検討したいが、今、直観で言えば、前者は虚次元エネルギーであり、後者は実次元エネルギーである。あるいは、超越論的エネルギーと現象的エネルギーである。有り体に言えば、超物質エネルギーと物質エネルギーであろう。超エネルギーと物質エネルギーである。「気」は当然、前者である。そう、超次元エネルギーと現象次元エネルギーである。語弊があるが、前者を精神エネルギーと呼べるだろう。また、これこそ、創造エネルギーである。そう、宇宙の創造エネルギーと等しいものであろう。永遠のエネルギーである。ここでは、神も、イデアも、芸術も、倫理も、等しいのである。ドストエフスキーのいう「神への希求」である。また、二つのエネルギーは、経済に関係すると言えよう。後で検討したい。p.s. 前者は、デュナミス/エネルゲイア、後者はエネルゲイア/エンテレケイアと呼べるかもしれない。)

そして、この癒着は、自然的であるので、脱却がきわめて困難である。
 
 さて、次に、問題は、近代的自我、近代合理主義と即非性の独立の問題である。近代的自我/近代合理主義は、主体と他者の二項対立のシーソー様態にあり、即非差異を否定・排除・隠蔽するのであるが、この原理は、如何に。この問題に関しては、これまで、執拗に検討してきたが、結局、連続的同一性的志向性(エンテレケイア・終局態志向)を考えるといいのである。発生論的に見て、即非差異の様相から連続的同一性志向性が発生するのであるから、この発生においては、連続的同一性が優勢となると言えるだろう。そして、起源の即非差異様相は忘却されやすいのである。そして、近代においては、連続的同一性の「合理性」が徹底されて、即非性を否定・排除して、近代科学、とりわけ、唯物科学が生まれたのである。つまり、近代は、連続的同一性志向性の究極的エンテレケイア(終局態)であると考えられるのである。
 
 そして、当然ながら、即自的に内包されている即非差異のエネルギーが反抗・批判的視点をもって、賦活されると言えるのである。この点は、反近代的芸術・哲学・思想を見るといいだろう。モダンとトランス・モダンの争闘があるのである。(今日の日本は、モダンに染まり切っていて、夢遊病に罹っているのである。非現実的な日本なのである。)モダンは、現象的に、つまり、物質的には、明敏であるが、叡知的には、白痴状態である。これは、不毛・自滅的なのである。言わば、蛸が自分の足を食べているのである。互いに不毛・反生産的な潰しあいをしているのである。


Destroy Modern Materialistic Japan!
Create Trans-Modern Platonico-Synergetic Japan!


 ここで、最後に、エネルギー力学について触れると、おそらく、連続的同一性志向性というエネルギーが作用したのであるから、それと釣り合うように、逆エネルギーが作用するのではないだろうか。エネルギーをエントロピーとすれば、逆エネルギーは、ネゲントロピーではないだろうか。つまり、脱連続的同一性エネルギー、差異共振シナジー・エネルギーである。トランス・モダンとは、このネゲントロピー・逆エネルギーを実践するものと考えられる。