『大乗起信論』とPS理論

大乗起信論』とPS理論


テーマ:仏教/大乗仏教


大乗起信論』、現代語訳、文庫で120ページに満たない小さな書ではあるが、大乗仏教理論の神髄・要諦を説く古典である。

 高崎直道(じきどう)氏の現代語訳が明快ですばらしい。現在、岩波文庫は、けしからんことに、品切れで、重版未定となっている。(岩波書店は、良書を、すぐ品切れにして、古本屋で高く買わせるシステムなのか。)

 とまれ、この書の理論は、プラトニック・シナジー理論PS理論と同形であると直観した。今は余裕がないので、極く簡単に触れると、この書の「心」とは、内界であり、特異性であり、内在的超越性の精神のことと見ることができると思う。真如というのもほぼ同じものである。

 この「心」が心身を形成し、現象界を発生させるのである。プラトン哲学のイデアに相当すると言ってもいいだろう。

 そう、阿頼耶識がでてくるが、それは、連続的同一性化した意識のことである。つまり、初めは、「心」=真如が転化して、差異的同一性(如来蔵)を形成するが、それが、連続化して阿頼耶識になると考えられるだろう。つまり、差異的同一性と連続的同一性の混淆した意識が阿頼耶識であり、連続化が進むと、無明へと進むのである。無明とは、正に、連続的同一性の意識と言っていい。これは、フッサールの自然的態度である。あるいは、妄分別である。

 そして、この無明=連続的同一性自我=自然的態度からの脱却して、如来蔵や「心」=真如に回帰する教義を説いているのである。これは、PS理論では、特異性に徹して、差異共振シナジー様相へと転化することを意味しよう。そう、差異共振シナジー様相とは、ほぼ如来蔵を意味するだろうが、当然、「心」=真如(=イデア界)を指しているのである。

 思うに、PS理論が『大乗起信論』さらには、大乗仏教を現代的に解明できるのではないかと思えるのである。また、さらに言えば、PS理論こそ、宗教を現代的思想として解明できるように思えるのである。キリスト教も、PS理論によって、その意味することが明晰にされると思うのである。また、当然、イスラム教も同様であるし、神道も同様である。

 付け加えると、心理学もPS理論が明晰なものにすることができると思えるのである。偏頗な精神分析、不明晰なユング心理学を乗り越えて、真に理論的な心理学を提示できると思えるのである。そう、超越論的心理学である。

参考:
http://blog.livedoor.jp/epokhe/archives/cat_497286.html


p.s. 該博な井筒俊彦氏の「東洋哲学覚書 意識の形而上学ーー『大乗起信論』の哲学」
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%A6%9A%E6%9B%B8-%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6%E2%80%95%E3%80%8E%E5%A4%A7%E4%B9%97%E8%B5%B7%E4%BF%A1%E8%AB%96%E3%80%8F%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6-%E4%BA%95%E7%AD%92-%E4%BF%8A%E5%BD%A6/dp/4122039029/sr=8-1/qid=1171016513/ref=sr_1_1/250-8960880-5103431?ie=UTF8&s=books
の初めの方に、的確な指摘があるので、引用したい。(まだ、この本を読んではいないが。)

引用開始
【『起信論』だけでなく大乗仏教全般を通じて枢要な位置を占めるキータームの一つ、「真如」。この語の意味の取り方は様々だが、『起信論』の立場からすると、「真如」は(・・・)、第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である。
 しかし、また逆に、「真如」以外には、世に一物も存在しない。「真如」は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって、乱動し流動して瞬時も止まぬ経験的存在者の全てがそのまま現象顕現する次元での「真如」でもあるのである。
 この意味で、「真如」は先ず存在論的に双面的である。一方において、それは「無」的・「空」的な絶対的非顕現、他方においては「有」的・現象的自己顕現。このように双面的・背反的であるからこそ「真如」は、「真如」なのであって、もしそうでなければ、存在エネルギーの全一態としての真実在とか、そのエネルギーの全顕現的奔出とかいうことは考え得られないであろう。一見、「真如」と正反対の、いわゆる「無明」(=妄念)的事態も、存在論的には「真如」そのものにほかならないのだ。この存在論的事実を信仰的言辞の価値づけ原理に移して表現すれば「煩悩即菩提」ということになろう。哲学的には、「色即是空、空即是色」とも。要するに「真如」は二岐分離しつつ、別れた両側面は根元的平等無差別性に帰一するのである。

 以上は、存在論的双面性の問題だが、「真如」にはこれとはもう一つの別の秩序の双面性がある。それは、プラス・マイナス(正・負)の符号づけ秩序であって、特に倫理学・道徳論に関わる思想の領野において決定的な重要性を帯びて現れてくる。この観点からすると、「煩悩即菩提」どころではない。「真如」は無明(=妄念、妄想)と正面きって対立するのだ。いま見たように、「無明」的事態は全て本源的に、「真如」それ自体の一側面であるのに・・・・・。
 この観点に立つとき、『起信論』は「真如」を現象態と非現象態とに分け、前者にマイナス記号、後者にプラス記号をつけて、相互矛盾的対立関係に置く。すなわち、現象的事物事象の世界(我々の経験的存在の世界)は、隅から隅まで「妄念」の所産であって、いわゆる現実は、本来的に妄象の世界とされるのである。
 こうして、この視点から見ると、「真如」の非現象態と現象態とは、互いに鋭く対立し、これら相矛盾する二側面が、一方はプラス符号、他方はマイナス符号を帯びて、「真如」において同時成立している、ということになる。
 かくて「真如」を対象とする我々の思索は、ここでもまた、必然的に双面的・背反的となる。二つの相反する意味志向性が、「真如」をめぐる思惟をして、逆方向に向う二つの力の葛藤のダイナミックな磁場たらしめずにはおかないのだ。

 意味志向性のこの二重構造に目隠しされることなあく、それを超出して、事の真相を、存在論的、かつ価値符号的双面の「非同非異」性において、そのまま無矛盾的に、同時に見通すことのできる人、そういう超越的綜観的覚識をもつ人こそ、『起信論』の理想とする完璧な知の達人(いわゆる「悟達の人」)なのである。】 pp. 16~18
引用終了