日本人の知性ルネサンス:内観的自己知性へ向けて:清沢満之と内観主

日本人の知性ルネサンス:内観的自己知性へ向けて:清沢満之と内観主観性


テーマ:日本再生・東洋ルネサンス計画

清沢満之の言葉に少し触れた。彼は、没年が1903年であるから、今から、百年以上前の哲学者・宗教者であるが、思想は新鮮である。

彼の「精神主義」・内観主義に触れて、戦後の日本、現代日本が何を喪失したのか、深く感得される。

明治近代化においては、日本人の精神には、PS理論でいうメディア・ポイントが開放系であった。即ち、日本人の知性は、超越性と結びついていたのである。これは、清沢満之のような天才的人物のような意識化に達していなくても、民衆は、無意識的に超越性に触れていたと思う。それは、思うに、鈴木大拙の説く「日本的霊性」に通ずるだろう。

この内在的超越的知性が、かつての日本人にはあったのだ。それが、おそらく、戦後において見捨てられたのである。戦後のアメリカ的物質主義的合理主義によって見捨てられたのである。

確かに、この超越的意識と戦前天皇制は結びついていただろう。イデオロギーであった。これが、天皇人間宣言で、形式的に解体したと言えるだろう。そして、その後、三島由紀夫の反動的天皇主義を生んだと言えよう。

三島が音楽が流れなくなったとは、断絃の時があったからだというようなことを言ったが、断絃の時は、おそらく、このときと言えよう。

つまり、日本人が超越的意識を否定したときである。PS理論でいうメディア・ポイントを否定したときである。あるいは、特異性の感覚・意識・身体性を否定したときである。

折口信夫が戦後、新神道論を唱えたのは、伝統的超越的意識の復興を目指してのことと言えよう。

そうだ。やはり、戦前・戦中に対する戦後の判断によって、日本の伝統的精神が否定されたのだ。ここが、「断絃の時」である。

戦前の全体主義的精神が否定された。確かに、全体主義の否定は正しいが、それと同時に、戦前の伝統的日本文化まで否定されたのだ。また、戦前においても、西欧中心主義(脱亜入欧)があり、伝統的日本文化は危機に瀕していたが、戦後の戦前否定によって、決定づけられたと考えられるのである。

そこで、神道だけでなく、大乗仏教やその一つである禅思想、等が否定されたのである。つまり、価値観が、欧米近代合理主義となり、その他の日本の伝統的価値観が無惨に見捨てられたのである。これは、戦後の文化人や知識人の影響が強いだろう。即ち、敗戦による戦後民主主義の拠ると言えるだろう。

確かに、敗戦・占領によって、戦前の全体主義は、いちおう、解体され(、しかしながら、岸信介の国家統制経済路線・国家社会主義路線は、継続したのであるが)、近代合理主義・唯物科学・近代資本主義が主調になったのである。

実は、欧米の精神には、周知のように、古代ギリシアの理性主義とキリスト教的ロゴス主義が基調としてあるのである。この基礎の上に、欧米の合理主義は成立しているのである。いくら、齟齬が生じても、それが、欧米の伝統精神である。

しかるに、戦後日本は、欧米の思想的基礎を持たずに、また、自身の伝統精神(大乗仏教、禅、神道、等の東洋精神)を否定して、近代合理主義を取り入れたのである。

つまり、戦後日本、現代日本は、自己否定によって形成されたのである。根無し草的亡国的国家になったと言えよう。

この自己否定が恐ろしいのである。これが、今日の日本の狂気を生んでいると言えるのである。

魂を否定したところに現代日本人の意識が形成されているのである。

では、端的に、この自己否定とは何か。

これは、日本思想史の複雑な経緯があるとは言え、一言で言えば、日本的自我形成によるものだろう。自己を喪失して自我を形成したのである。

これは、日本思想史における一神教的志向と言えるだろう。国学的志向である。

自我すなわち、連続的同一性の意識の形成はなんらかの必然性があるのではないだろうか。

唯物論的自我形成は、人類史的に見ても、なんらかの必然性があるのだろう。

とまれ、日本的自我形成のために、日本的自己否定の路線が近代化であると言えよう。現代がその帰結、黙示録的終末状況である。

自己を否定して自我を形成するのである。自己のもっている、いわば、矛盾した性質があると言えよう。そして、自我は自己へと回帰するのである。これが、トランス・モダンである。らせん的回帰である。(世界は、今や、トランス・モダンへと「進化」しつつあると言えよう。ニーチェで言えば、超人化である。東方キリスト教で言えば、神化・テオーシスである。仏教で言えば、仏化であろう。経済で言えば、差異共振シナジー価値的トランス・モダン経済である。)

端的に、この元自己⇒自我⇒自己形成という教養図式は何を意味するのか。

西洋的に言えば、中世/ルネサンス⇒近代/ポスト・モダン⇒トランス・モダンであろう。

日本的に言えば、東洋的日本⇒明治入欧近代/戦後入米近代⇒東洋・日本ルネサンス的トランス・モダンであろう。

この類似した図式の力学とは何か。

これは、PS理論では既に解明されている。即ち、連続的同一性化とその再創造的自己化である。主客二元論化、近代的自我化、近代合理主義・唯物科学化、近代的資本主義(言語機械・唯物論・交換価値の三位一体的資本主義)であり、その創造的解体であるトランス・モダン化である。

ここにおいて、メディア・ポイントがエッセンシャルなコアである。

より端的に言うと、何が、日本の自己否定をもたらしたのか。

思うに、東洋・日本的精神と西洋的精神の異同が要因だろう。

東洋・日本的精神(以下、ヤポネシアン知性)は、深く、超越性に傾斜していると思う。そして、西洋的精神は、鋭く、連続的同一性に傾斜していると思う。

この連続的同一性は、物質的合理主義である。

即ち、超越性と物質的合理主義との異同である。

ヤポネシアン知性は、西洋の物質的合理主義に、敗北せざるを得なかったのだろう。おそらく、物質的合理主義とは、人類が形成しなくてはならない、一文化であったのだろう。唯物科学・技術的資本主義でもある。

確かに、この物質的合理主義・唯物科学・技術的資本主義によって、自然における不利便性は克服されたと言えよう。だれが、前近代的生活に戻ることを欲しようか。井戸から誰が、つるで、水を汲み上げるだろうか。

つまり、物質的進歩である。これは、これで認めるべきことである。そう、反動が問題ではないのである。さらなる進展である。

現代日本の問題は、この唯物科学・技術的資本主義、伝統的東洋・日本的精神を喪失した亡国・売国的狂気の近代的自我的唯物科学・技術的資本主義にあると言えよう。

これまで、欧米や日本において、近代主義の克服への知的営為が為されてきた。哲学、芸術、等々においてなされてきた。ポスト・モダンの知的運動もその一つであった。

しかしながら、超近代(トランス・モダン)への知的、理論的行為はこれまで、不首尾に終わったのである。というか、これまで、諸天才たちの成果を統一的に理解できずにいたと言えよう。

一言で言えば、超越性、内在的超越性、イデア界・叡知界・理念界への理解が未熟であったと言えよう。

直観的には、超越性は感じ取れるが、これを合理化できずにいたのである。

確かに、言語化はできたが、数学化できずにいたのである。PS理論は、これを、i*(-i)⇒+1という数学的合理性化を形成したのである。ここに、超近代、トランス・モダンのブレークスルーがあると言えよう。

ここで、近代主義は、克服されたと考えられるのである。

このトランス・モダン合理主義から、これまでの無視・看過されてきた天才たちの成果が理解できるようになったのである。

それが、清沢満之の哲学であり、九鬼周造の天才的哲学であり、西田幾多郎の絶対無の哲学であり、鈴木大拙即非の論理学である。

日本哲学は既に発芽していたのである。東洋・日本的伝統的超越精神に基づいて、日本哲学は、戦前に、芽吹き、成長していたのである。

これを今や、統一理論的に理解・把握できるようになったのである。

東洋・日本哲学ルネサンスである。日本哲学は超越哲学であり、プラトン哲学や大乗仏教哲学の子孫なのである。

西洋が連続的同一性合理主義で喪失した超越性を、日本哲学が復活させるのである。

ヤポネシアン・ルネサンスである。日本再生復興である。

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社員に求める能力「主体性」「発見力」…経産省アンケ

3月12日20時7分配信 読売新聞

 企業の人事担当者の約3分の2が、社員に求める能力として「主体性」や、現状の課題を明らかにする「課題発見力」を挙げたことが12日、経済産業省の発表したアンケート調査で分かった。

 ただ、若手社員にこうした能力が不足しているとする回答も4割を超え、企業が欲しい人材と、実際の戦力にギャップがある実情も浮かび上がった。

 人事担当者が社員に求める能力は「実行力」(70・8%)が最も多く、「主体性」(68・7%)、「課題発見力」(65・8%)と続いた。

 一方、29歳までの若手社員に不足していると思う能力は「主体性」(48・2%)「課題発見力」(44・4%)、「創造力」(44・2%)が上位を占めた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070312-00000111-yom-bus_all

# 企業の「求める人材像」調査の結果について〜社会人基礎力との関係〜 - 経済産業省
# 主体的なキャリア形成の必要性と支援のあり方 - 経団連による検討でも、求められるのは「自律型人材」。日本経済団体連合会(2006年6月20日)

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その時、筆者は上田氏に「日本人のサラリーマンなら誰でもアルコール依存症の会に入っておかしくない、とドラッカーは発言していましたが、真意は何でしょう」とか、「ドラッカー本人は酒は飲んだのですか。日本酒党でしょうか」などと質問していた。ぶしつけな質問に対し、上田氏は笑顔で答えてくれていたが、控え室のモニターから流れてきた森岡氏の声を聞いて、顔つきが一変した。そして冒頭の発言である。筆者は森岡氏がなんと言ったか全く聞こえなかった。雑談をしていたにもかかわらず、上田氏は森岡氏の一言に激しく反応したのである。

 その一言は「自己目標管理」というものである。一人ひとりが組織や自分の目標を自分で考え、その目標を達成するために自分自身をマネジメントすることを意味する。ドラッカーは1954年に出版した『現代の経営』において、この考えを提唱した。上田氏によると、原文は「マネジメント・バイ・オブジェクティブズ・アンド・セルフコントロール」であり、ドラッカーは亡くなるまでずっとこう書いていた。

 直訳すると「自己管理による目標管理」となる。コントロールもマネジメントも管理になってしまうので、いささか分かりにくいし、そもそも長い。そこで「目標管理」と短くしたが、上司が目標を決めて部下に与え、部下の目標達成度合いについて目を光らせる、という正反対の意味に使われる危険が生じた。実際、ドラッカーの意図と逆の目標管理を実施している例は少なくない。1973年に出版した『マネジメント』の中でドラッカーは「哲学という言葉を安易に使いたくない。しかし自己管理による目標管理こそ、マネジメントの哲学たるべきものである」といった趣旨のことを述べている。その最重要語が、目標管理と訳したために誤解されてしまった。

 7日のセミナーにおいても、上田氏の講演の後、来場者から目標管理を巡る誤解について質問が出た。上田氏は「正反対にとらえている人がいるのは、マネジメント・バイ・オブジェクティブズ・アンド・セルフコントロールのセルフコントロールを忘れてしまうから。目標管理と訳すとそう誤解されかねない。といって自己管理による目標管理では日本語として、こなれていない。いい訳語がないかずっと考えているが思いつかない」と答えていた。

 この問題を考え続けてきただけに、控え室のモニターから流れてきた「自己目標管理」という森岡氏の一言を、上田氏は聞き逃さなかった。「自己目標管理」と訳せば、上司が目標を押しつけるという誤解は生じない。「自己目標」なのだから、自分で決めるのである。同時に「自己管理」でもあるわけで、達成するための創意工夫は自分でやることになる。マネジメント・バイ・オブジェクティブズ・アンド・セルフコントロールの訳語としてふさわしい。
ドラッカーの最重要語に“新訳”が誕生した瞬間

http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20070308/120599/