地霊spirit of placeについて:m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E

地霊spirit of placeについて:m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E


テーマ:プラトニック・シナジー理論


D.H.ロレンスが言う、一見非合理な観念、地霊(土地の精神)spirit of placeとは何か。古くは、genius lociと言われた。

E=mc^2=hν

の視点を取り入れたい。

あるいは、m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E

の視点である。

土地は、質量mをもつ。そして、物質エネルギーないし実数エネルギー+1・Eをもつ。

これでは、地霊の合理的説明はできない。しかし、虚数エネルギーに注目すれば、m(ic)*(-ic)の超越エネルギーないし振動ν=(ic)*(-ic)m/hがあるだろう。

これが、端的に、地霊ではないだろうか。

つまり、土地自体にも、メディア・ポイントがあり、そこにおいて、超越界が浸透していて、虚数エネルギーないし超越エネルギーが発動しているのではないだろうか。

そうすると、単に、光だけでなく、「物質」一般も、虚数エネルギー又は超越エネルギーを発していることになるだろう。

しかし、これは、公式から光に関わるエネルギー(エネルゲイア)である。

そう、「気」のエネルギーは、この一様相ではないだろうか。

聖地と呼ばれる場所は、地霊ないし超越エネルギー(超越光エネルギー)が強力な場所なのではないのか。

おそらく、これは、ある種の金属の分布とも関係するだろう。

空海が地質的知識をもっていたのは、地霊と金属との関係に拠るものではないだろうか。

参考:

《泰の始皇帝の命を受けた徐福は、錬丹術の専門家だった。日本には錬丹術、修験道陰陽道すべてに通じた一人の天才がいた。真言密教の開祖、弘法大師空海

 その空海も、このラインの中に見え隠れしている。

 吉野の近くには丹生川神社があるが、高野山からこの吉野のあたりは不老不死の妙薬の原料となる「丹」、水銀の鉱脈があり、やはり不老不死を求めていた空海は、この地に目をつけた。そして、その中心である高野山を丹生津姫命から借用するとして手に入れ、真言密教の中心地とする。

 錬丹術の「丹」はまさに水銀のことで、徐福も良質な水銀産地を探し求めていた。》

不老不死が繋ぐもの
http://www.ley-line.net/wakasa/wakasa04.html


《吉野の近くには丹生川神社があり、高野山からこの吉野のあたりは「丹」、水銀の鉱脈がありました。空海は、中国で密教以外に土木、建築等々をも勉強し、日本の土木工学に大きな影響を残したことでも有名で、彼が水脈や鉱物資源について学びとったことは想像できます。そのような知識をもった空海はこの地を見逃すないはずがないと思われます。やがて、その中心である高野山を朝廷から手に入れ、真言密教の中心地としたと考えても良いようです。

 熊野、吉野、明日香から平安京にかけて都や天皇陵が並んでいるいるには地理的な偶然かもしれないが、そのことよりも仏教にとって水銀の持つ意味が、重要になってくるのです。

 今は水銀は危険な薬品として使われなくなったが、古くから「赤チン」などや、農薬、水虫薬、遊女達の避妊薬・おしろいなど水銀物が用いられていました。仏教の世界においても、朱色のもとは硫化水銀であり、塗金の時には水銀を混ぜ塗装する要領で金装飾を可能としてきたのです。また、神仙界においては、不老不死の薬と考えられたとされています。

また、空海自身も後に東大寺別当を任じられたのです。

注:丹生明神   天照大神の妹神の稚日女尊(ワカヒルメノミコト)は「ミズカネ(水銀)の女神」です。その女神の下、この一族は(豪族というより移動し水銀を求め移動していた)、魏志倭人伝で有名な伊都国では八代や佐賀の嬉野の水銀を抑え、勢力を得ていた。そして、彼らは中央構造線にそって九州・四国・紀伊を縦断していったとされている。また、別の同じ先祖をもつ一派が日本海にそって北上したと考えられています。》

弘法大師空海の謎

http://www.geocities.jp/hntmb836/shingon.htm



さて、物質一般が以上のように仮説すると、超越的物質となるだろう。超物質的物質である。


例えば、芭蕉の有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」であるが、

http://www.bashouan.com/psBashouYD.htm

これも、岩の超越的物質としての超越エネルギーと芭蕉の精神が共振しているというように言えるように思うのである。


そう、芭蕉のコスモス的感覚はこの超越的エネルギーに共振する感覚・知覚・思考のことではないのか。これは、また、冒頭のD.H.ロレンスと共通のものと考えられるのである。


宮沢賢治も正にこのタイプではないか。


霊・スピリットも超越エネルギーのことではないだろうか。


PS理論からは、このエネルギーは、共振エネルギーである。


しかし、悪霊や悪魔と宗教・民俗文化で呼ばれるものがあるが、これは何か。


共振エネルギーは善である。だから、悪は、非共振的なものである。

唯物論/近代合理主義が非共振的である。

つまり、超越的現象ないし超越的物質である自然・宇宙・人間において、超越性を阻害する「もの」が悪霊・悪魔であると考えられるだろう。

換言すると、本来、開放系のメディア・ポイントを閉鎖する「もの」が悪霊・悪魔であると言えよう。

メディア・ポイントを閉鎖・隠蔽するのは、連続的同一性志向である。自我同一性志向である。そう、ここに自然と人間の異同があるだろう。おそらく、自然には、一般に、この自我同一性志向はないと思う。

つまり、自然とは、本来、超越的自然、超越的現象なのである。

しかし、人間の主観・認識において、反超越的な連続的同一性が発生すると考えられよう。

この問題については以前、たいへん悩んだが、思うに、身体の虚弱性と脳神経の発達との矛盾が新生児にはあり、そのため、内界知覚に対して、外界知覚に対して、人間は、虚弱性をもつと考えられよう。そのため、主観的知性は、外的他者を主観的同一性化するのではないだろうか。

つまり、外的他者は、主観的知覚にとり、恐怖や不安や苦の対象となるのである。それを克服するために、主観は他者を同一性化するのではないのか。

内面では、i*(-i)⇒+1が存するだろう。しかし、外面においては、
i*-(-i)⇒-1となるのではないのか。

即ち、他者を否定して、連続的に同一性化するのである。このための道具・ツールが、とりわけ、言語である。

「わたし」にとり、本来、特異的対象であるXが、言語化されて、一般的な言語、例えば、「蛇」となる。

しかし、本来、特異な対象Xは、「蛇」ではない。少なくとも、特異な「蛇」であり、一般的な「蛇」ではない。唯名論的X、即ち、haecceity(これ性)である。

人間の認識と身体との齟齬が、このような傾斜を生んで知性を生むようになったと言えよう。

しかし、ここでは正確になる必要がある。

内的認識は、i*(-i)⇒+1の自己認識である。これが、言わば、無意識として人間には本来あると思われる。

(今、思ったが、結局、人間の暴力・狂気・無明は、この身体の虚弱さの反動から生じるのだろう。近代主義がこの帰結である。)

無意識の叡知と外的意識の連続的同一性(連一性)の謬見の二重性が人間にはあるのである。

簡明にするために、潜在的叡知(自己)と顕在的連続知(自我・無知・無明)としよう。あるいは、潜在知と顕在知である。

人間の先天的差異から、後者へと傾斜する。しかしながら、物質主義は発達しない場合は、両者のバランスがとれている。というか。人間は、本来の潜在知に基づいて、叡知の生活・社会を形成すると思うのである。物質的には利便性が欠けてはいるが、叡知が社会を支配しているのである。これは、母権制社会(神話では、女神中心の神話)であると思えるのである。

さて、ここから、問題の悪霊・悪魔を考えると、これは、男性の心性に存するのではないかと思える。

何故なら、男児の方が、女児よりも、心性が連続的同一性(脳で言えば、左脳)に傾斜していると考えられるからである。女性は、左脳と右脳との連結が強いのである。右脳とは、端的に、潜在知であろう。よく、右脳は、イメージや感情の認識を司ると言われるが、これは、ヴィジョン認識を意味しているのではないのか。ヴィジョン認識とは、端的に、イデア認識だと思うのである。叡知認識である。想像力は、やはり、ここに存するだろう。

女性の方が本来、叡知的なのである。古代ギリシアアテネの守護神は、処女神アテナイ(アポロ神殿に関係する。つまり、汝自身を知れである。)

思うに、今日、女性が感情的と言われるのは、男性の連続的同一性意識の影響を被って、この叡知脳をうまく意識化できていないためではないだろうか。そう。トランス・モダンとは、女性の叡知の復活をも意味するだろう。

さて、そうすると、悪霊や悪魔の起源は、男性の心性にあるらしいことがわかる。男性の心の虚弱性が連続的同一性へと傾斜して、悪霊や悪魔を生むと言えよう。

ここで、イシス・オシリス神話を想起すると、イシスが叡知であり、オシリスが叡知認識であり、オシリスの弟のセトは悪霊・悪魔であろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%88

そう、イシスがi*(-i)であり、オシリスが⇒+1で、セトが⇒-1であろう。だから、イシスは元叡知であり、オシリスが叡知であろう。そして、セトが、無明である。

今の試論では、PS理論によると、自然とは、本来、超越的現象なのである。森羅万象、超越的現象となるのである。ただし、人間の虚弱な認識において、連続的同一性の無明が支配して、物質主義となり、人類や地球が危機に瀕すると言えよう。

そう、ここで、物質科学・技術都市文明の問題がある。

自然は、超越エネルギーを発動しているのである。また、確かに、物質も超越的エネルギーを発しているだろう。

しかし、自然的現象物と人工的現象物は違いがあるのではないだろうか。

単に物質的化合物は、非共振的視点から結合させているので、共振エネルギー、超越エネルギーが不足するのではないだろうか。

化成肥料と有機肥料の違いもこの辺にあるのではないだろうか。

また、食品も、ハイブリッドな食品は、「元気」が足りないのではないだろうか。

では、最後に光について再考しよう。

先に、光の特異性は、その超越性と同一性の併存にあると言ったが、以上の考察から、現象一般がそのようなものであることになったので、光の特異性はそのようなものであるとは言えなくなった。

では、光の特異性は何だろうか。

それは、目に見える超越的エネルギーということではないだろうか。確かに、岩から超越エネルギーは発しているだろう。しかし、それは、目には見えないのである。しかしながら、光は可視の超越エネルギーである。極言すると、光は、可視のイデア界である。

お天道様である。天照大神である。

では、ついでに言うと、物質と現象の違いの問題である。物質は、実エネルギー、Eを問題にするが、超越的物質としては、m(ic)*(-ic)の超越エネルギーをもつのである。

言い換えると、差異共振シナジー・エネルギーである

問題は、このエネルギーを物質的にのみ捉えているのではないだろうか。思うに、現象界における多様な、差異共振シナジー・エネルギーをさらに、共振連結すれば、新たな創造が生まれるだろう。

正に、シナジーである。

これは、単に、物質だけでなく、精神においてそうなのである。

そして、精神と物質の両面においてもそうなのである。

いわゆる奇跡とは、総合的な共振結合から生まれるだろう。

思うに、PS理論は、メディア・ポイントのもつ潜在的共振空間において、総合的に、連結する理論であると言えよう。

本当に、最後に、現代日本人の問題を言うと、父権的な虚弱性による近代主義唯物論・連続的同一性主義が全面に出て、つまり、悪霊・悪魔が主導的になり、超越性・差異共振シナジー・創造性を否定しているのである。

だから、亡国ではある。

戦後のつけである。

とまれ、メディア・ポイントを発見する必要があるのである。

教養(自己認識の叡知)とは本来そのためにあったと言えようが、それが、今や完全に瓦解した。

物質主義の虜になった人間には、何を言っているのか見当もつかないだろう。

内的身体にメディア・ポイントの種子があると言えよう。ここは、思うに、内在的超越界である。ここから、内在的光が発生するのではないだろうか。夢のヴィジョンは、ここから生まれると思うのである。

思うに、夢は、メディア・ポイントを介して、超越界に触れているので、超越界の叡知を触れることができるように思うのである。

また、睡眠において、超越界の超越エネルギーに触れるので、元気回復となるのではないだろうか。

言い換えると、根源的な自己意識ないし元意識に回帰するのではないのだろうか。

あるいは、神仏の様相に回帰しているのである。

そう、死後は、人間は、ここに回帰すると言えよう。

i*(-i)の様相に回帰すると思うのである。

問題は、この元自己意識が複数であるか否かである。

私は、不連続的差異論の検討の時期に、多者という言葉を夢で得た記憶がある。つまり、一者ではなく、多者があるということである。

i*(-i)をIとすると、I1/I2/I3/I4/I5・・・/Inがあるのではないのかということである。

これは、差異即非の共立様相である。

例えば、「わたし」は、Ipである。

「あなた」は、Iqである。

すると、I1*I2*I3*I4*I5*・・・*In

ではないだろうか。差異即非即非様相である。

今は、ここで留めたい。