問題は、どうして、欧米とりわけアメリカは、世界に対して攻撃的なの

問題は、どうして、欧米とりわけアメリカは、世界に対して攻撃的なのか。覇権主義の原因は何か。


テーマ:ポスト・アメリ


父権的意識、連続的同一性自我意識は、差異共振的知性を否定する。

問題は、どうして、欧米とりわけアメリカは、世界に対して攻撃的なのか。覇権主義の原因は何か。単に軍事・経済的支配のためだけとは思えない。

私は、プロテスタンティズム、とりわけ、アメリカ建国におけるピューリタニズム(清教主義)が観念的動因として重大だと考えている。

カルヴァンの予定説をピューリタニズムは引き継いでいると思う。それは、神に救済される人物は予め決定されているということであり、それは人知を超えたものとされているのである。

だから、救済は不可知なのである。そのために、ピューリタンは、救済の証を得ようとして、攻撃的に布教するようになる(宣教・ミッション)ということだと思うのである。

つまり、不可能の行為なのである。

つまり、常に不安がピューリタンにはあることになるのである。何かをして、救済を信じようとすると考えられるのである。

このような不可知論的決定論は、結局、超越的差異共振界であるイデア界を否定する観念から発していると考えられる。それは、当然、父権的な連続的同一性主義から発していると思う。本来、超越的意識が自身を否定するようにして、現象的に連続的同一性化するのである。

ここには、起源の差異共振性が隠蔽されているから、当然、不安・恐怖となるのである。

そして、これは、また、盲目の衝迫に取り憑かれることになるのである。

ピューリタニズムの予型論(タイポロジー)は、思うに、そのような不可知論的決定論を基礎とした聖書中心的適用主義(キリスト教原理主義)と思われるのである。

現前の世界に聖書を予型として適用するのである。聖書をプログラム・プランとして、現実に適用するのである。

ここには、不安に基づく善悪二元論がある。自我の影を他者に投影することになるのであり、他者を悪魔的敵として攻撃するようになるのである。

どうも、これが、欧米、とりわけ、アメリカの覇権主義の精神・観念的要因のように思えるのである。

父権主義によるイデア界の喪失による不安・恐怖が、無意識の影を生み、その反動として、覇権主義的になると思うのである。男性の精神の問題があると思うのである。

p.s. 父権的意識、すなわち、自我は、差異共振性を否定・排除・隠蔽するのであるが、その原因は、先天的身体の虚弱さにあると思う。この故に、他者を感覚・認識するときに、恐怖・不安・疑念を感じると考えられるのである。そのため反動として攻撃的姿勢をもつと考えられるのである。この父権的意識・自我・連続的同一性認識は、このように、虚弱ないし劣弱性(ニーチェなら賎民性)に基づいて、攻撃・暴力・支配覇権的性向をもつと考えられるのである。 
 
 とりわけ、差異共振性をもつ他者、母権・多神教的他者に対しては、残酷である。ちょうど、旧約聖書にあるように、ヤハウェは、多神教性を嫉み、憎悪し、殲滅せんとするのである。
 
 殲滅で思い出したが、コンラッドの小説『闇の奥』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E3%81%AE%E5%A5%A5
の最後の方で、主人公のクルツ大佐が、アフリカ人をなにとぞ殲滅せよと述べているのが、白人男性の潜在意識を象徴的に表象していると言えるだろう。
 
思うに、キリスト教の問題がここにある。一神教の枠組みに福音書の教えが取り込まれていることである。
  
ロレンスは、「父」と「子」の対極性を見ていたが、本当はどうだろうか。ロレンスの「父」は独特で、異教・多神教・母権宗教的なのである。女神ないし「母」と呼んでいいくらいである。

だから、ロレンスの場合は、「母」と「子」の対極性であるので、ここで、ヤハウェとイエスの対立として問題を見る必要がある。あるいは、「父」の分裂・二重性の問題である。

これをPS理論のメディア・ポイントMPから見ると、「父」とは、明らかに、i*-(-i)⇒-1である。正確に書くと、

i*(-i)⇒i*-(-i)⇒-1

である。メディア・ポイントにおいて、垂直性を保持しているが、同時に、他者-iを否定するようにして、水平次元として、連続的同一性へと捩れる、ないし、捩じ曲がるのである。

ここは、単純な連続的同一性というよりは、両義的である。即ち、メディア・ポイントを保持しつつ、他者否定の連続的同一性へと水平化することであるからである。これは、完全な連続的同一性ではなくて、メディア・ポイントにおける垂直性が開かれた様相であると考えられるのである。

つまり、ここには、矛盾があるのである。一つは、イデア界・超越界・叡知界へと開かれているのであり、一つは、他者を否定する連続的同一性化へと傾斜しているのであるから。

「分裂症」と言ってもいいだろう。前者は、母権・異教・多神教的なのであるのに対して、後者は、父権的・一神教的である。

だからこそ、旧約聖書において、神の名が2つあるのだろう。一つはエローヒーム(神の複数形)であり、一つはヤハウェである。

即ち、神々と神なのである。神々が、イデア界のことであり、神がそれを否定する連続的同一性傾斜であると言えるだろう。

メディア・ポイントにおいて開きつつ、同時に、閉じるという矛盾した「操作」がそこにあるのである。

だから、「母」となったり、「父」となったりするというように言い換えられよう。ロレンスが、「父」が「母」でもあると言ったは、根拠のないことではないと言えよう。

(今、私の直感は、ヤハウェとは、女性的ではないのかということである。嫉妬深いヤハウェは、女性的なのである、私に言わせると。ヒステリー的なのであるヤハウェは。)

とまれ、メディア・ポイントにおけるこの分裂的操作が一神教にあると思うのである。「母」と「父」との分裂である。

思うに、この分裂的操作とは、父権・男性的心性ではないのか。身体が虚弱・劣弱なために、身体的他者を否定するのである。しかしながら、逆に言うと、身体的他者を必要とするのである。要するに、甘えである。この主体撞着が、この分裂的操作の根因ではないだろうか。

そう、この必要とする身体的他者が、一神教的道徳・倫理(似非道徳・倫理)に転化するのではないだろうか。

超越性である「母」であるが、これが「父」とされるということは、正に「母」(エローヒーム)の一神教化(ヤハウェ化)であろう。本来は、超越界は「母」(女神:より根源的言えば、差異共振界であるが)であるが、男性の場合、-iの身体が虚弱なために、それを否定し、同時に必要とするのであり、この否定による連続的同一性化によって、一(いつ)が生起し、他者的身体を必要とする点において、「母」の超越次元を保持すると言えよう。つまり、「一」となった「母」が「父」、即ち、ヤハウェである。

そして、「母」の次元が保持されているので、エローヒーム(神の複数形、神々)が旧約聖書に残っていると推察できるのである。

ここで、興味深く想起するのは、19世紀アメリカの文豪ハーマン・メルヴィルの傑作『白鯨』である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%AF%A8
http://en.wikipedia.org/wiki/Moby-Dick
ここで、白鯨(モービー・ディック)を復讐鬼となり追求するエイハブ船長が、嵐の夜、マストで、セント・エルモの火を見て、独白するが、そのとき、「父」なる神を超えて根源的な「母」なる神を示唆していることである。ウパニシャッド哲学的に、これはブラフマンを示唆するようである。また、この場面は、ゾロアスター教的である(乗組員フェダラーは拝火教徒である)。

思うに、アメリカについて考えると、恐ろしい矛盾がアメリカ文化・社会にはあると考えられるのである。即ち、一方では、恐怖の一神教的父権文化があり、他方では、アメリカ・インディアンの多神教的霊的文化がある。

ロレンスは、アメリカの地霊として後者が存していると述べている。地霊とは、先にも述べたが、超越的差異共振性の内的身体性である。大地性である。あるいは、霊(精神)的大地性である。

そして、一神教は、当然ながら、アメリカの地霊を否定するのである。ここには、いわば、霊的戦争があるのである。

一神教vs霊的多神教である。

後者を前者は否定するのであり、この精神的戦争が実際の覇権主義となっていると思うのである。

このプロテスタンティズム/ピューリタニズム的一神教は、恐怖の専制主義であろう。つまり、連続的同一性中心主義であり、差異を絶滅・殲滅しようとするのである。

しかし、アメリカは、霊的多神教を潜在させているので、絶対的自己矛盾を犯しているのである。

簡単に言えば、アジア・東洋文化アメリカは潜在させているのである。

結局、キリスト教の問題に還元される。

上述した「父」と「子」の問題である。結局、「父」は「母」の倒錯である。では、「子」はどうなるのか。

「子」は先に女神論を展開したように、「母」の「子」なのである。女神、大女神の「子」なのである。

だから、「子」には、ペアが発生するのである。イシスとオシリスのペアのように、「子」イエス「母」・「妻」が必要なのである。

当然、聖母マリア他が浮かぶのである。あるいは、『ダ・ヴィンチ・コード』のようにマグダラのマリアである。

つまり、ヤハウェが大女神に転化する必要があるのである。

つまり、一神教の解体である。

多神教キリスト教である。

では、なぜ、大女神的宗教が多神教となるのか、である。

これは、単純に、差異即非・共振シナジー宗教であるから、ということになるだろう。

即ち、他者と共振する宗教だからである。他者は多者・複数である。

i*(-i)の-iが決定的である。

予測であるが、-iは複数なのだと思われるのである。

iは単数であろう。しかし、-iは複数・多者・多数なのだと思うのである。

身体的多者と言ってもいいと思う。

iが主語・主体・主観なら、-iは述語・客体・客観である。

コギト・エルゴ・スム、それは、i 故に、-i である。

「我」即ち、他者=多者である。

思うに、これが、根源的一即多ではないだろうか。あるいは、
即非多である。

今は、ここで留めよう。


参考1:

ピューリタニズムはルターの宗教改革から50年たったケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに発祥した。世はエリザベス女王時代。最初の中心人物はトーマス・カートライトである。
 当時、エリザベス女王カンタベリー大主教パーカーにアングリカニズム(英国国教会)による国民的礼拝様式の統一と強化を依頼していた。アングリカニズムはヘンリー8世のイギリス的宗教改革によって生まれたもので、カトリシズムがユニヴァーサリズム(普遍主義)だとすれば、ナショナリズム愛国主義)と結合した。いまもロンドンのウェストミンスター・アベイに入ると、そこがいかにイギリスの土着ナショナリズムで満たされているかが一目瞭然である。そこにはイギリスが生んだ神武天皇楠木正成の聖人像や記念碑が埋め尽くされている。
 ヘンリー8世がアングリカニズムを主張したのは、ルターのプロテスタンティズムによってカトリシズムが脅かされたことに対する反発が動機になっているのだが、一方では、このままローマ教皇庁によるカトリシズムを守るだけではイギリスの宗教政治はやっていけないという現実判断にももとづいていた。
 だからヘンリー8世のアングリカニズムは次の3つの柱でできていた。ナショナリズム、国王絶対主義、そして受動的服従主義である。
 これをエリザベス女王が引き継いだ。
 ところが、カートライトはこの3本柱をことごとく批判した。それはアングリカニズムが体制の思想であるとすれば、まさに反体制の思想であった。

 カートライトの反体制思想は、もともとはカルヴァンプロテスタントな宗教思想から出ている。
 カルヴィニズムとは一言でいえば「ソラ・スクリプトラ」、すなわち「聖書のみ主義」である。ピューリタニズムは聖書が適用できないような「間隙」をけっして認めない。どんな隙間も聖書に書いてあるとする。逆に、ヘンリー8世のアングリカニズムはこの「間隙」を生かした国教だった。
 これに対して同じプロテスタンティズムでも、ルターのばあいは「ソラ・フィデ」(信仰のみ主義)である。
 しかし、これらの差異はまだ思想上のことであって、社会的にはそこにアン女王時代(1550年代)に迫害されてジュネーブやオランダに逃れた「エミグレ」がイギリスから帰ってきた事情が直結していた。
 エミグレはもともと移住者とか亡命者を意味するが、ピューリタニズムの生きた本質があるとすれば、まさにこの「移住すること」にある。その後の歴史上のピューリタニズムが、ついに「移住しつづける者の思想」となったからである。なんといってもカートライト自身が大学から追放され、エミグレとなったのだ。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0620.html


参考2:


Thomas Cartwright (churchman)
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Thomas Cartwright (c. 1535 –December 27 , 1603 ) was an English Puritan churchman.

He was born in Hertfordshire , and studied divinity at St John's College, Cambridge . On the accession of Queen Mary I of England in 1553 , he was forced to leave the university, and found occupation as clerk to a counsellor-at-law. On the accession of Queen Elizabeth I , five years later, he resumed his theological studies, and was soon afterwards elected a fellow of St John's and later of Trinity College, Cambridge .

In 1564 he opposed John Preston in a theological disputation held on the occasion of Elizabeth's state visit, and in the following year brought attention to the Puritan attitude on church ceremonial and organization. He was popular in Ireland as chaplain to Adam Loftus , Archbishop of Armagh (1565 -1567 ). In 1569 , Cartwright was appointed Lady Margaret's Professor of Divinity at Cambridge; but John Whitgift , on becoming vice-chancellor, deprived him of the post in December 1570 , and--as master of Trinity--of his fellowship in September 1571 .

This was a result of the use which Cartwright had made of his position; he criticised the hierarchy and constitution of the Church of England , which he compared unfavourably with the primitive Christian organization. So keen was the struggle between him and Whitgift that the chancellor, William Cecil , had to intervene. After his deprivation by Whitgift, Cartwright visited Theodore Beza at Geneva . He returned to England in 1572, and might have become professor of Hebrew at Cambridge but for his expressed sympathy with the notorious "Admonition to the Parliament" by John Field and Thomas Wilcox . To escape arrest he again went abroad, and officiated as clergyman to the English residents at Antwerp and then at Middelburg .

In 1576 he visited and organized the Huguenot churches of the Channel Islands , and after revising the Rhenish version of the New Testament , again settled as pastor at Antwerp, declining the offer of a chair at the University of St Andrews . in 1585 he returned without permission to London, was imprisoned for a short time, and became master of the Earl of Leicester 's hospital at Warwick. In 1590 he was summoned before the court of high commission and imprisoned, and in 1591 he was once more committed to the Fleet prison . He was not treated harshly, and powerful influence soon secured his release. He visited Guernsey (1595-1598), and spent his closing years in honour and prosperity at Warwick, where he died in the same year as the queen.

Cartwright was a man of much culture and originality, but exceedingly impulsive. His views were distinctly Presbyterian , and he stoutly opposed the Brownists or Independents. He never conceived of a separation between church and state, and would probably have refused to tolerate any Non-conformity with his reformed national Presbyterian church. To him, however, the Puritanism of his day owed its systematization and much of its force.

This article incorporates text from the Encyclopædia Britannica Eleventh Edition , a publication now in the public domain .
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Categories : Wikipedia articles incorporating text from the 1911 Encyclopædia Britannica | 1535 births | 1603 deaths | Puritanism | Tudor clergy | People from Hertfordshire | Alumni of St John's College, Cambridge


参考3:


Puritan
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Calvinism
John Calvin







A Puritan of 16th and 17th century England was any person seeking "purity" of worship and doctrine , especially the parties that rejected the Laudian reform of the Church of England . Those who sought further reform of liturgy and theology away from that of the Roman Catholic Church and those who justified separation from the Church of England following the Elizabethan Religious Settlement are commonly called "Puritans" by historians and critics. Later groups are called "puritan", not necessarily favorably, by comparison to these low church Anglicans and Calvinistic Non-conformists .
http://en.wikipedia.org/wiki/Puritan




参考4:
ピルグリム・ファーザーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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ピルグリムファーザーズ (Pilgrim Fathers, Pilgrims、巡礼始祖の意) は、アメリカに渡ったイギリスの清教徒ピューリタン )である。

16世紀、イギリスのエリザベス1世イギリス国教会 を確立したが、17世紀 にかけて、教会の改革を主張する清教徒が勢力を持つようになり、特に国教会からの分離を求めるグループは分離派 と呼ばれ、弾圧を受けていた。信仰の自由を求め、亡命した清教徒を含む102人がメイフラワー号 に乗ってアメリカ に渡った。メイフラワー号船上での「メイフラワー誓約」は社会契約説 に基づくものとして知られる。1620年アメリカ大陸に到着したピルグリムは、理想的な社会を建設することをめざした。植民地をメイ・フラワー号の出航地プリマスに因み、ニュー・プリマスと名づけたとよく言われるが、1614頃の地図にその名が出ている。偶然、同名の地に到着したのである。

入植当初の状況は厳しく、半年で半数程が病死したが、先住民 ワンパノアグ族 の協力を得て、ニュー・プリマスはやがて、発展するニュー・イングランドの最初の植民地となった。

しかし後に、ピルグリムとインディアンとの間でトラブルが起きたりして、インディアンと戦闘なども起きた。ワンパノアグ族の酋長マサソイト は平和と友好を保つためにピルグリムと条約を結ぶが、ピルグリムはこの条約は彼らインディアンの土地を自分達が領有して入植してもよいと言う神の暗黙の許可であるとも解釈もしていた。そのため、ピルグリムは入植地を拡大しようと、まず1630年にマサチューセッツ族 が住む土地に進入し、ピルグリムの白人が持ち込んだ天然痘 により、天然痘に対して免疫 力があまりなかったマサチューセッツ族のほとんど多くの者は死んでしまった。1636年 には1人のピルグリムの白人がピクォート族 に殺された事が切っ掛けで起きたピクォート戦争 が翌年の1634年 に起きた。ピルグリムは殺した容疑者を差し渡せと要求したがピクォート族がそれに応じなかったため、ピクォート族の村を襲い、大勢のピクォート族を殺害し大集落を崩壊した。しかしピルグリムの白人殺しの犯人は実はピクォート族の者ではなくピルグリムの白人であった。さらに、平和の条約を結んでいたワンパノアグ族とも悪化していった。ピルグリムが「フィリップ王」と呼んでいた、マサソイトの息子でもあった、酋長メタコメット が父マサソイトが結んだあの条約は結局は部族にとって不正であり、ピルグリムは自分達、部族の土地を奪っているとし、1675年 にピルグリムプリマス入植地を攻撃してフィリップ王戦争 が勃発した。この戦争により周辺部族も巻き込み、1676年 に終結するまで、ピルグリムとインディアンの両方共に多くの犠牲者が出る悲劇をもたらした。


[編集 ] 関連

* プロテスタント
* ピューリタン
* メイフラワー号
* プリマス (マサチューセッツ州)
* w:Timeline of United States history (1600-1699)
* w:Pilgrim
* w:Pilgrimage

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%BA " より作成

カテゴリ : アメリカ合衆国の歴史 (-1776)

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Lessons of War
The fighting in Iraq enters its fifth year.

Sunday, March 18, 2007; Page B06

TOMORROW MARKS the fourth anniversary of the start of the Iraq war, as appropriate a moment as any to take stock. What matters most is finding the best policy now -- doing whatever can be done to help Iraq and safeguard U.S. interests in a vital region. But looking back also is essential, particularly for those of us who supported the war.

We will never know what might have happened had Saddam Hussein and his sons been left in power. Nor do we know how Iraq will evolve; history's judgment in five years or 10 may look very different than today's. But the picture today is dire, and very different from what we would have hoped or predicted four years ago. The cost in lives, injuries and dislocations, to Americans and Iraqis, has been tragic; the opportunity costs for U.S. leadership globally have been immense. So there is an obligation to reassess. What have we learned?
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/03/17/AR2007031700950.html