メディア・ポイントの実数軸の構造について:顕在的連続的超越点と潜
メディア・ポイントの実数軸の構造について:顕在的連続的超越点と潜在的差異点の複相性
テーマ:メディア・ポイントMedia Point
思うに、メディア・ポイント(以下、MePo)の底点の構造が、もっとも重要な点の一つだと思える。
先に、連続的極性と切断・不連続化という点で検討したが、さらに精緻化したい。
ここは、核心的であるから、複雑である。
思うに、MePo底点は、無意識ないし純粋意識ないし原意識と考えるといいかもしれない。あるいは、祖意識である。
現象化の原点でもある。
フッサール現象学で言えば、ノエマとゼロ度の外的対象の二重構造ではないだろうか。
内的対象としてのノエマがあり、外的対象であるが、まだ、個別化されていない、ゼロ度ないし空(くう)の外的対象がある領域ではないだろうか。
そう、やはり、実数軸のゼロ度と見た方がいいと思う。しかし、虚数軸のゼロ度との即非的に重なっていると言えると思う。
つまり、MePo上点は、主体としては、虚数軸のゼロ度で、志向性の終点としては、実数軸のゼロ度、即ち、MePo底点をもつだろう。
しかし、MePo底点は、主体は、実数軸のゼロ度であり、エネルゲイアとしては、MePo上点あるいは虚数軸を示唆ないし暗示していると思う。
この示唆ないし暗示が微妙であると思う。これをもっと明晰にする必要がある。デリダの用語で言えば、痕跡である。そう、ロマン主義的に言えば、憧憬のようなものではないのか。地上にあって、故知らず、漠然となにか遥かなものに憧れる心性である。
しかし、どうしてこのような心性が生起するのか。分かり易く言えば、「魂」である。思うに、この底点MePoは、揺れ動く、あるいは、いわば、点滅するような心性のポイントではないだろうか。
即ち、基本は、実数軸上のゼロ度の点であるが、同時に、そこに虚数軸のゼロ度のエネルゲイアが作用するのである。私がこれまで、内在的超越性という用語を用いてきたが、ちょうど、それに当たるようなポイントではないだろうか。
つまり、実数軸上のゼロ度とは、正に、現象内在性を意味するだろう。そして、これが、同時に、虚数軸のゼロ度であるというのは、超越性である。だから、内在的超越性である。
しかし、ここには問題がある。内在的超越性という観念では、虚数軸の超越性を正しく記述していない。端的に言えば、内在性という観念が基礎にあり、それは、あくまで、現象界が基盤であり、超越界は、正確には、記述されていない。
だから、ここで、内在的超越性という用語をこれまで使ったことは誤りであったので訂正したい。内在的超越性とは、実は、ドゥルーズやデリダの思想に当てはまる考え方だと思う。あるいは、ハイデガーの思想にである。
これは、端的に言えば、構造主義である。即ち、内在的超越性=構造主義の構造性である。
ここでのポイントは何かと言えば、連続性である。
即ち、実数軸上の現象界における内在性から、現象界と超越界を連続化してしまうのである。つまり、超越性を正しく超越性ではなく、現象界内部の事象として捉えてしまうのである。ドゥルーズがいう超越論性や内在性とは正にこのことであり、ハイデガーの存在も同じだと考えられるのである。
言い換えると、実数軸上のゼロ度は、連続性の傾斜をもつので、超越性を内在的に連続化してしまうということである。
実存主義も結局、同じである。フッサールの切り開いた画期的な地平を現象内在的に閉ざしてしまったのである。内在的超越性という現象内在的構造観念が、結局、ポスト・モダンまで影響しているのである。実存主義も構造主義も現象内在性という点では等価である。
ということで、まとめると、底点MePoとは、内在的超越性の点、即ち、内在的超越点である。それは、また、言わば、現象内在的連続的構造点である。
確かに、超越性のエネルゲイアは顕現するが、それが、連続性へと偏向されるのである。超越性の連続化という歪曲がそこにはあるのである。だから、現象界から見れば、本来、不連続である超越性を連続化しているので、そこには、不合理・非合理な様相がある。だから、超越的エネルゲイアは、不合理・非合理なエネルゲイアになると考えられる。
そして、この不合理なエネルゲイアが、連続的同一性(近代主義)に結合することになるのである。これが、ブッシュのようなネオコン路線であろう。そして、それに対して、ポスト・モダンとは、連続的同一性を否定するが、それは、内在的超越点のエネルゲイアから発現したものであり、当然、不合理・非合理なものなのである。
両者はアイロニカルな没入となる。
結局、底点MePoは、内在的超越点、連続的超越点、現象連続的構造点、又は、連続内在的超越構造点である。
西洋哲学史から見ると、退行しているのである。19世紀、キルケゴール、シェリング、ニーチェ、そして、20世紀初頭、フッサール、そして、ウスペンスキーと、超越性を指摘した哲学・思想が出現しながら、それを埋没させて、連続内在的超越構造点に退行したからである。(しかし、東洋、日本では、超越性の哲学が創造されたのであった。)
思うに、哲学者が西洋において、劣化・退化したと言えるのだろう。また、日本においては、戦後、西洋かぶれの研究者が多いので、特異で普遍的な思考をできる者がいなくなったということであろう。知的隷属があるのである。(私見であるが、やはり、太平洋戦争で、日本の優れた若者が多く戦死したことが響いていると思うのである。戦争は才能を枯渇させもするのである。戦後日本がアメリカに隷属したのは、単に、アメリカの支配力だけでなく、日本自体の知的劣化・退化も要因ではないかと思う。)
さて、もう少し展開すると、メディア・ポイントは、確かに、連続化へ傾斜しているが、しかしながら、同時に、⇒+1への地平も開かれているのである。
端的に、言えば、底点MePoは、連続化への傾斜と同時に、差異化への潜在性ないし可能性もあるのである。もっとも、明らかに、連続性へと傾斜しているのであり、差異へとは傾斜していない。
この差異化への潜在性・可能性を発展させることができるのである。それは、フッサール現象学等の目指すものであるが。
だから、底点MePoをより十全に解明するならば、それは、連続的超越点であるが、同時に、差異的潜在性をもつと言わなくてはならない。
言い換えると、底点MePoは、連続的超越点が顕在化しているが、差異化への潜在性をもっている。即ち、 顕在的連続的超越点且つ潜在的差異点であるということになる。このような複雑性、複相性をもっていると考えられる。
フッサールは現象学的還元、スピノザは能動的観念によって、潜在的差異を志向したと言えよう。(フッサールは内省がそのための指導的な心的作用と述べているが、内省で正しいのであるが、意味が伝わりにくいので、私は、内照・内的照明と呼びたい。)
とまれ、以上で本件を終了したとしたい。
p.s. 思うに、底点MePoの構造をより明快に言うならば、顕在的連続的差異点と潜在的超越的差異点の複相性ではないだろうか。
より整合的に言うならば、内在的超越点に於ける連続化される超越的エネルギーとは、本来、潜在的差異点に存しているだろう。
言い換えると、底点MePoには、差異の連続化への傾斜(⇒-1)と差異の共振化への潜在性(⇒+1)の二重性があるのであり、超越的エネルギーは、両者に存すると言えると思う。
しかしながら、さらに複雑なのは、連続性への傾斜があるので、即ち、連続性への顕在性をもつので、底点MePoは、連続的空間に傾斜しているということであり、そのために、形成される連続的同一性に対抗する差異の志向性が、純粋に共振化ないし超越化せずに、連続化への傾斜をもつということである。
つまり、潜在している差異共振性(⇒+1)が、純粋に発現できずに、連続的差異化する傾斜があるということである。
換言すると、底点MePoにおける連続的傾斜のために、潜在的差異=差異共振性=特異性が、連続化される傾斜をもつということである。
だから、とても複雑である。
さらに言い換えると、底点MePoには、超越的エネルギーが発現するが、それは、実数軸上なので、差異は現象化=同一性化する。それは、連続性と不連続性の二重性をもつ。しかし、連続性に傾斜しているので、差異は連続的同一性(⇒-1)へ傾斜する。
しかしながら、差異の現象化=同一性化における不連続性(差異の共振性)が潜在している。これは、⇒+1である。これは、差異の不連続的同一性を意味する。しかし、これは、あくまで、潜在性として存する。
ここまで整理すると、底点MePoにおいて、超越的エネルギーは、差異の連続的同一性傾斜と差異の不連続的同一性潜在性に分化する。
しかし、底点MePoは、連続性に傾斜している。だから、連続傾斜点と呼べる。
そして、差異の連続的同一性が形成されるが、それに対して、差異の不連続的同一性潜在性は、いわば、違和感を覚え、反抗・抵抗・反逆する。つまり、否定しようとするのである。
しかしながら、問題は、不連続的同一性潜在性は、自身の特異性・異質性を理解せずに、否定的に反動化するのである。
連続的同一性への否定であるが、それは、同時に連続的な反動性である。
ここでは、相剋様態があるのである。そして、この相剋様態の極限が、末期近代事象であり、そこでは、連続的同一性の近代主義と反連続的同一性のポスト・モダンが相剋するのである。ともに、連続的空間にあるのである。
ドゥルーズやデリダの思想は、この後者である。それは、本来は、不連続的同一性であるものを反動的に連続化しているのである。
底点MePoにおいて、不連続的同一性を連続化させて、対抗しているのである。
底点MePoは、構造と言っていいだろう。だから、構造主義的反動なのである。
しかしながら、現象化である連続的同一性を否定するので、それは、現象化自体を否定して、それ自身無力・無能となるのである。ポスト・モダンの自壊・自滅である。
このポスト・モダンの自壊・自滅が、90年代に生起したと言えよう。そして、過剰な連続的同一性がネオコンとして発動したと言えよう。
そして、イラク戦争である。
そして、今や、トランス・モダンの潮流が発現しているのである。
それは、潜在的であった不連続的同一性が顕在化してきたことである。そして、これを正当に理論化するのが、この潮流から生まれたプラトニック・シナジー理論であると断言する。
未だ、無意識的に、不連続的同一性(⇒+1)が発現していると考えられるが、これをPS理論によって自覚的に認識することで、エネルギーが爆発的発動すると言える。
さて、試行錯誤したが、結局、底点MePoは、構造主義の構造であり、それは、連続的同一性の現象化(⇒-1)と不連続的同一性の潜在化(⇒+1)を併存させているが、連続性の傾斜のために、両者は連続的空間を形成して、両者が反動的に相剋様態となる。しかし、ここで、この連続的空間を切断することで、不連続的同一性が顕在化し、トランス・モダンが進展的に発動することになる。
だから、ポイントは、底点MePoの構造連続空間にあるのである。これを、切断することで、近代主義は乗り越えられ、トランス・モダンへと転換するのである。
p.p.s.
底点MePoであるが、ここにおいて、また、神剣が生起するのである。これをどう考えたらいいのか。
以上の考えでは、底点は、構造連続空間である。しかし、神剣は、直観的に、超越的である。これは、矛盾する。
端的に言えば、神剣は、超越界のシンボルである。
しかし、底点メディア・ポイントでは、超越性が連続性によって隠蔽されるのである。この齟齬をどう見るのか。
ここで、潜在的不連続的同一性のことを考えたい。これは、連続構造空間ないし連続構造点においては、確かに、潜在したままであるり、反動化したりする。
しかし、なんらかの状態において、潜在性が賦活されるときが考えられる。
禅や瞑想は、そのような心的状態をもたら方法であろう。
また、自然に単独的に触れるのもそのような状態をもたらすことがあるかもしれないし、また、優れた書物や芸術に触れてそのようになるだろう。
だから、底点メディア・ポイントにあっても、超越性の「訪れ」はあるのである。
思うに、神剣は、連続性の切断の意味もあると思う。
イエスの剣も本来、そうではなかったのか。連続的共同体を切断する剣ではなかったのか。
直観的に考えよう。
端的に、神剣は、超越界の現象界への介入の証・徴だろう。(P.K.ディックの『聖なる侵入』)
これは、一神教的だと思う。
多神教は本来、差異共振性をもつ。しかし、これが、底点メディア・ポイントを介して、連続化し、堕落する傾向はあるだろう。
どうもこれが一神教的革新の意味ではないだろうか。
多神教の連続的堕落化があり、それに対して、一神教的革新が発現したと思うのである。結局、過程的に宗教を見る必要があるだろう。
一神教は、連続的同一性化への傾斜をもつが、起源は超越界である。
一神教的超越界の現象界への介入のシンボルが神剣ではないだろうか。
これは、また、結界的な意味もあるだろう。
私は、以前、天皇教に批判的であったが、しかし、天皇教的一神教は意味があったと考えられる。それは、多神教的古日本を震撼させたと思う。
そして、多神教が活性化されたと思うのである。
それが、古代日本の悲劇的歴史の意味するものではなかったのか。
また、そこへ、仏教等が導入されて、さらに活性化されたと思うのである。
飛躍するが、アメリカの力は一神教の力でもある。折口信夫は日本の神がアメリカの神に敗れたと考えた。
結局、明治近代で、いわば、天皇制的一神教的革新を日本は行ったが、それは、思うに、多神教を活性化するようには向かわなかった。日本の多神教的魂が眠ったままだったと言えるか。
もし、多神教が活性化していたなら、太平洋戦争はあり得なかったであろう。
そして、現代、安倍内閣は、戦前的な一神教的日本を復古させようとしている傾向が見られる。
反動的である。
やはり、端的な超越界の介入・侵入・参入が必要である。プラトニック・シナジー理論はそういうものである。
新たな超越界の介入としてのプラトニック・シナジー理論である。
新たな神剣として。
結局、底点メディア・ポイントは、連続性傾斜空間であり、堕落するポイントでもあるのである。新たな結界、新たな神剣が、求められるようになるのである。