主体的”光”と客体的”光”:MPの二重光:超越光のコスモスと物質光

主体的”光”と客体的”光”:MPの二重光:超越光のコスモスと物質光の現象形態


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


タイトルの”光”とは、メディア・ポイントにおける光、即ち、超越的光と物質的光の二重光を指している。以下、光は、この二重光を指すことにする。
 先に、内部の主体的な光を考えたが、外部の客体的な光については、考察しなかった。端的に、主体的光(以下、主体光)と客体的光(以下、客体光)との関係はどういうものか。主体光と客体光とが交差して、現象的視覚が生まれるだろう。しかしながら、夢にあるように、主体光自体は内的視覚をもっているように思える。
 とまれ、主体光と客体光との交差によって、現象視覚が発生するとしよう。主体光にある超越光と物質光と客体光におけるそれらとがどう関係するのか。
 主体光における超越光とは、簡単に記述すると、ic*(-ic)であろう。そして、客体光におけるそれも、同一である。だから、両者は、融合するのではないだろうか。主体的超越光と客体的超越光とが融合するということである。
 この融合とは、思うに、経験的には、納得できるように思えるのである。山間の空に感じた白光に、一体感を感じることがあるし、外界の光に対して融合体験は、多くあるだろう。だから、主体的超越光と客体的超越光との共振的融合は考えられるだろう。
 では、物質光と物質光、あるいは、物質光と超越光との関係はどうだろうか。物質光と物質光もやはり、共振して融合するのではないだろうか。そして、現象形態を形成するのではないだろうか。外観の形成である。
 では、物質光と超越光との関係はどうか。主体的物質光と客体的超越光、ないし、主体的超越光と客体的物質光との関係がある。思うに、両者、接点がないので、結像しないのではないだろうか。
 そうすると、結局、物質像と全体的融合像があるだろう。思うに、コスモスの「感覚」とは、後者を指しているのではないだろうか。そして、これは、同一性共振であるから、一種、連続性をもつのではないだろうか。しかし、それは違うだろう。これは、超越光であるから、物質光とは、本来、不連続であるからである。ただ、問題は、物質像との関係である。
 物質光とは、連続的同一性自我と関わり、連続性を帯びるのである。仏教で言えば、色(しき)である。この色(物質色と言えよう)が、超越光と関わる時に、超越光/コスモスが連続化されると言えよう。やはり、この問題は、切断・不連続性の有無の問題なのである。PS理論の根本問題と同じなのである。
 さて、ここで、作家D.H.ロレンスのコスモス論を取りあげて考えよう。超越性をもった作家(ダンテ、シェイクスピアボードレールマラルメホイットマンメルヴィルトルストイ等々。日本では、芭蕉宮沢賢治、等。私の直観では、大江健三郎は、初期・中期には、もっていた。)は、なんらかコスモスに言及しているが、ロレンスがとりわけ意識的なので、とりあげるのである。
 ロレンスのコスモスとは、晩年の『黙示録論』において、明快である。「われわれとコスモスとは一体である。」と述べている。この一体をどうとるのか、問題である。連続性ととるのか、不連続性ととるのか。私見では、ロレンスは、晩年において、不連続性に達しているのである。不連続的差異の共立ないし共振性に達しているのである。(おそらく、作家で、不連続的差異論ないしPS理論的思想をもっているのは、ロレンスをあげることができる。その他、折口信夫をあげることができると思う。)
 その視点から見ると、ロレンスの言うコスモスとの一体性とは不連続性と見るべきなのである。超越光的一体性であるからである。このような視野をもつと、『チャタレイ夫人の恋人』の性愛が、実に、プラトン的なエロースであることがわかるだろうし、また、『黙示録論』の意味も解明されるだろう。
 では、そこでは何が意味されているのか。そこで、ロレンスは、誰でもわかるように、ヨハネ的なキリスト教、つまり、ニーチェが否定したルサンチマンキリスト教ではなく、コスモス的な宗教を説いている。しかし、これは、超越光の不連続なコスモスの宗教である。つまり、イデア界的な、あるいは、端的に言えば、メディア・ポイント的なコスモスの宗教を説いているのである。
 否、超越的なメディア・ポイント的コスモスの宗教と言うべきだろう。『神だ男』で表出された宇宙の暗い薔薇とは、この超越的コスモスの表現と見るべきだろう。ロレンスは、ほぼ、プラトンのコーラを表現していたと思われるのである。後で再検討したい。


p.s. 書きそびれたが、ロレンスの超越的コスモス宗教とキリスト教との関係はどうなるのか。思うに、キリスト教の進展が考えられると思うのである。父権的一神教キリスト教から、差異共振的コスモス的キリスト教は考えられるだろう。ヤハウェが、破壊的ではなく、差異共振的になるのである。私は、今、ふと、弥勒という言葉が浮かんだのである。そう、父が弥勒仏になるのかもしれない。超越的差異共振性へと父が進展するのである。つまり、イデアへと父が進展するのである。キリスト教の創造的変容である。


p.p.s. 以下、ミスラの説明で、ソグド語では、ミールとあるが、ミールとは、ロシア語で、平和のことである。《ミール(Мир, Mir, ロシア語で「平和」または「世界」の意》http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB
弥勒仏と平和は関係するだろうし、世界は、コスモスと関係する。後で検討したい。



参考:
弥勒菩薩
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

弥勒菩薩(みろくぼさつ)は仏教 の仏 菩薩 の一人である。慈氏、慈尊などともいい、サンスクリット ではマイトレーヤ (maitreya)。
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ミスラ神との関係

弥勒菩薩は、古代アーリア人 の神話に登場する神ミスラ が仏教に入り、菩薩として信仰されたものと考えられる。ミスラはミトラとも呼ばれ、古代のイラン ・インド において信仰されていた神であり(『アヴェスター 』や『リグ・ヴェーダ 』に登場する)、ゾロアスター教 においても、太陽神として重要な役割を持つ。

弥勒サンスクリット語 では、「マイトレーヤ」というが、マイトレーヤは、「ミトラある」という意味で、ミスラの転用あるいは変形と考えられる。メソポタミア 、イラン 、インド 等において、紀元前にあって、ミトラ神に対する広範囲な信仰があった証拠があるが、ミトラを主神とする固有の宗教があったかは明らかでない。(固有の宗教としては、ローマ帝国 治下の地中海世界で信仰されたミトラス教 が存在するが、これはイラン等のミスラ信仰の系譜にあるが、また別の宗教である)。

[編集 ] 布袋
布袋
布袋

日本は七福神 の一人として知られる布袋 和尚は、中国 では、弥勒の化身とされ、下生した弥勒如来として仏堂の正面にその破顔と太鼓腹で膝を崩した風姿のまま祀られている。

[編集 ] ミルク神

沖縄では、「ミルク神」、「ミルクさん」と呼び、弥勒信仰が盛んである。 祭りでは、笑顔のミルク仮面をつけたミルク神が歩き回る。 布袋 との関係が指摘されている。

[編集 ] 仏像
弥勒菩薩を表わす梵字 『ヤ』と読む
弥勒菩薩を表わす梵字 『ヤ』と読む

弥勒菩薩像はよく制作された。インドでは、水瓶を手にする像として造形されたが、中国・朝鮮半島においては、半跏思惟像として造像が行なわれた。椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬づえを付く姿である。京都 の広隆寺弥勒菩薩像(木像)は特によく知られており、国宝 第一号に指定されている。大阪・野中寺 の金銅像(重文)なども古例に属する。平安時代鎌倉時代 には、半跏像は見られなくなり、立像や坐像として表されるようになる。京都・醍醐寺 の快慶 作の木像などがその作例である。

弥勒如来像としては、前述の奈良 の東大寺の「試みの大仏」(重文)や、当麻寺弥勒如来塑像、興福寺 北円堂 の運慶 作の木像(ともに国宝)などが知られる。

[編集 ] 関連項目
Wikimedia Commons
ウィキメディア・コモンズ に、弥勒菩薩 に関連するカテゴリがあります。

* 菩薩
* ミスラ
* ニューエイジにおけるマイトレーヤ
* 仏ゾーン

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ミスラ
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ミスラ (Miθra)とはイラン神話 に登場する神 で、インド神話 では、ミトラ (मित्र)と呼ばれるインド・イラン共通時代にまで遡る古い神格である。その名は本来「契約」を意味する。

[編集 ] インド神話のミトラ

インド神話 では、契約によって結ばれた「盟友」をも意味し、友情・友愛の守護神とされるようになった。また、インドラ 神など他の神格の役割も併せ持った。ヴァルナ とは表裏一体を成す。ミトラが契約を祝福し、ヴァルナが契約の履行を監視し、背いた者には罰を与えるという。

後世のインド神話ではあまり活躍しない。アディティ の産んだ十二人の太陽神(アーディティヤ )の一人で、毎年6月の一カ月間、太陽戦車に乗って天空を駆けるという。

[編集 ] 西アジアゾロアスター教のミスラ
ミスラ(右側)
ミスラ(右側)

ミスラは、司法神であり、光明神であり、闇を打ち払う戦士・軍神であり、牧畜の守護神としても崇められた。「ミスラ」という語形はアヴェスター語 形で、パフラヴィー語 ではミフル (Mihr)、ソグド語 ではミール (Mīr)という。古くはアフラ・マズダー と表裏一体を成す天則の神だったが、ゾロアスター教 に於いてアフラ・マズダー絶対神の地位に高められると、ミスラは格下の中級神ヤザタ の地位に落とされた。中世の神学では特に司法神としての性格が強調され、千の耳と万の目を以て世界を監視するとされる。また、死後の裁判を司るという。

このようにゾロアスター教の正統神学では軽視されがちだが、民間での信仰は盛んで、ミスラを主神とする教団すら有った。

また、マニ教 においては光明神としての性格が強調され、太陽と同一視された結果、ソグド語で日曜日 の事もミールと呼ぶようになった。

この曜日名としての「ミール」は宿曜道 とともに平安時代 の日本にも伝えられ、当時の具註暦 では、日曜日に「密」「みつ」「みち」(いずれもミールの漢字での音写)などと朱書きされていた。

ミスラ信仰はギリシャ やローマ にも取り入れられた。ギリシャ語 形・ラテン語 形でミトラス (ミトラース Μίθρας Mithras)と呼ばれ、太陽神 、英雄神として崇められた。

その信仰はミトラス教 と呼ばれる密儀宗教となって、1世紀 後半から4世紀 中葉まで隆盛を極めたが、キリスト教 の普及とともに衰退した。
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