オイラーの定理と微分と1/4回転:明日野氏の発見

オイラーの定理微分と1/4回転:明日野氏の発見


テーマ:プラトニック・シナジー理論


明日野(あけひの)氏の「オイラーの定理(e^ix=cosx+i・sinx)に於いて微分は4分の1回転である。」
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=580590
は、決定的に重要な発見であると思える。
 私流に解釈すると、微分は現象化である。つまり、眼に見える世界を創る「宇宙」=「神」の方法と考えられる。より正確に言うと、現象世界の同一性のエッセンスの形成の方法であると思われる。
 そして、それが、時計と反対回りの1/4回転(90度回転)を意味するということがたいへん意味深長であると思える。イデア界から、1/4回転して、現象界(物質界)が発生することがここでは示唆されているように思えるのである。
 また、「 オイラーの定理(e^ix=cosx+i・sinx)に於いて微分は4分の1回転である。

このことから、微分は一定方向の回転を意味することになり、宇宙構造が一定の方向を志向していることが分かる。これは、宇宙構造が「向きに対して非対称である」ことを示している。」
http://theory.platonicsynergy.org/?day=20070627
と述べられていることも重要である。この非対称性、推測するに、不可逆性が、現象界からイデア界を感知・認識することの極度の困難さを意味しているように思える。
 私は以前、1/4回転のさらに、1/4回転が現象界を創るのではないかとずいぶん悩んだことがある。つまり、四次元空間になるのである。とまれ、虚数軸からの1/4回転が現象界を創るとは、おおまかには言えそうである。
 では、現象界からイデア界を知る方法は何だろうか。それは、構造に虚数軸・虚数界を創ることではないか。言い換えると、構造をメディア・ポイントMPに変換することであろう。相対性理論は、ほとんど、イデア界の理論ではないだろうか。光は、イデアの光ではないのか。イデアの光が、現象界において計測すると、光速度一定となるということではないのか。現象界は、同一性=時空間の世界であるから、有限である。イデアの光も、現象界において、有限化されるといういうことではないのか。
 ところで、太陽系においては、太陽がある意味で、イデア界にもっとも近いのかもしれない。それは、一つのメディア・ポイントMPを内包しているのではないのか。思うに、メディア・ポイントの強度があるのではないのか。それが、恒星と惑星を決定するのではないのか。
 そう、SF作家アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』(キューブリックの映画で有名)であるが、スターゲートという、星やスターチャイルドの生まれるポイントがある。スターゲートは、メディア・ポイントであろう。この点では、クラークは、キューブリックを超えていると思う。
 そう、現象光とは、端的に、イデアの光ではないのか。ただし、イデアの光は、陰陽を帯びている。ゲーテの色彩論の相補2元性は、正しいだろう。
 近代人は、ある意味で、光の見方を喪失しているのである。前近代人の方が、直感的に認識していたと言えよう。
 思うに、美術は、本来、イデアの光を表現するものだろうが、今日の美術は、光を喪失しているのである。
 今日、近代人の見る光とは何か。それは、イデア性を喪失した光である。つまり、物質的光である。というか、近代主義から光を見ているのである。物質主義から光を見ているので、光のイデア性を認識できないのである。
 話がとりとめなくなったが、ここで留めたい。

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トランス・モダンの知と高度情報差異共振資本経済


テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築


なにか書こうという思いがあるが、それが、まとまらない。こういう状態は珍しい。普通、私は、イメージが浮かぶとそれに即して書くのであるが。
 下手な考え休むに似たりか。
私は、トランス・モダンの知のあり方を述べたいのであるが、それが、まとまらないのである。
 直観で言えば、トランス・モダンの知とは、差異共振性が作用した合理的な知性である。モダンの知とは、物質的合理主義で、排他的であった。
 差異共振性が作用した合理的知性とは、異質なものと異質なものをつなげる知である。差異と差異の共振的合理性を追求するのである。ここでは、イデア界が作用していると思うのである。イデア界こそ、差異共振界であるからだ。つまり、イデアの変容としての合理的知性である。
 当然、これは、高度情報的であるが、同時に、美的である。また、倫理的である。プラトン的知性が、全開する世界である。
 これは、いわゆる、資本主義を超越するだろう。もっとも、高度情報資本が主体とはなるのだろう。資本は、他者から略奪するものから、他者との共振へと向かうだろう。以前に述べたように思うが、差異共振資本主義である。
 アーサー・C・クラークの古典に『幼年期の終り』という作品があったが、それは、精神化へと向かう世界を描いていたと思う。私は、読んだとき、違和感をもったが、精神化を差異共振化と見れば、いいのだろう。
 今は、ここで留めたい。