構造主義再考:構造と現象学とポスト・モダン

構造主義再考:構造と現象学とポスト・モダン


テーマ:哲学


bloghiro-dive氏が構造主義について明快丁寧に解説されていて、いろいろ考えさせられる。

* レヴィ・ストロース文化人類学構造主義の挑戦
* 続ソシュール言語学…その問題とデリダの批判
* 言葉とはサークルである…ソシュール言語学

構造について、私なりに徹底させて理論化したいので、今一度、構造について考えたい。
 先に私は、構造とは、同一性的二項対立であると言った。言い換えると、同一性的二項対立の超越論的形式ということになる。後者ではわかりにくい。ここでは、より具体的に考えよう。先にもあげたソシュールシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の「差異」で考えよう。
 シニフィアンとは、簡単に言えば、「花」という言葉で例をあげれば、hanaという音声がシニフィアンである。(もっとも、ソシュール言語化される以前の音像をシニフィアンと言っているが、ここでは便宜上、簡単化する。)そして、「花」という言葉が観念像がシニフィエである。(思うに、この観念像には、対象性も入っているのではないだろうか。参照:「シニフィアンシニフィエhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8

だから、hanaと花という観念像との「差異」が恣意的に結合して、「花」という言語を形成しているということになる。シニフィアン(hana)と花の観念シニフィエ(花の観念像)の「差異」(簡単に言えば、「違い」)とは何だろうか。
 とまれ、この「差異」の体系が構造というものであり、これが、言語(共時的言語・ラング)を支配しているということになる。この「差異」は、同一性Aと同一性Bとの「差異」であり、「花」という言語において、統一、乃至は、結合しているものである。
 先に私は、この同一性と同一性との「差異」を、同一性的二項対立と把捉して、それが構造であり、ポスト・モダンの差異とは異なることを述べたのであった。【確かに、同一性と同一性との「差異」をそう捉えるのは、間違っていないだろう。同一性と同一性との二項対立とは、この場合、シニフィアンシニフィエの二項対立ということであり、シニフィアンが優位、シニフィエが劣位になるとき、あるいは、逆のときが考えられる。前者は例えば、感動して「花」と言ったときに当たるだろう。発話者の感情(シニフィアン)が花という観念(シニフィエ)よりも優位にあると言えるだろうから。後者の場合は、通常の会話においてはそうだろう。音声としての「花」は、単なる記号であり、意味されていること(シニフィエ)である「花」の観念が重要であろう。】
 ここでは、別の観点から考えてみたい。つまり、超越論的形式とこの同一性の「差異」はどう関係するのかということである。というのは、私は先に超越論的形式は構造であるといったからである。
 超越論的形式とは、PS理論から見ると、Media Pointの実軸性である。つまり、連続性や同一性である。言い換えると、連続・同一性的Media Pointということである。Media Pointは、エネルゲイアであり、いわば、超越点Transcendental Pointである。実軸のMedia Pointは、±の極性を発生する力動性をもっていると考えられる。そして、この±の極性が、同一性の「差異」であると考えられるだろう。(p.s. 補足すると、この実軸のMedia Pointには、確かに、主観性や自我が生起するが、それは、実軸のMedia Pointの±の極性内部にある主観性や自我ということで、超越論的形式の構造性が言えるだろう。)
 ということで、以上で証明できたことになるだろう。即ち、超越論的形式は構造であるという命題が証明できたということである。(p.s.  以上では、動的構造主義の説明であり、静的構造主義の説明にはなっていない。では、静的構造主義はどう説明できるだろうか。それは難しくない。 Media Pointの力動性による動的極性を固定化すれば、いいのである。では、固定化はどういうことで生じるだろうか。それは、エネルゲイアの消費された状態を考えればいいだろう。つまり、エンテレケイアになった状態である。エネルゲイアの帰結としてのエンテレケイアという固定の極性とすればいいのではないだろうか。動態の帰結としての静態である。)
 次に、構造と現象学について再考しよう。フッサールの場合、超越論的主観性と通常の主観性が重なる面があるので、混乱しやすいのであるが、しかしながら、超越論的主観性は単に主観性だけではなくて、超越性における主観性なのである。即ち、超越論的形式=構造(実軸のMedia Point)を超えた主観性なのであるから、脱構造主義的でもあるのである。
 だから、整理すると、フッサールの超越論的主観性とは、自己認識方程式i*(-i)⇒+1の⇒と+1との接点と⇒との混合ではないだろうか。とまれ、基本的には脱構造主義と言えるだろう。やはり、現象学構造主義を既に乗り越えているのである。
 では、ハイデガー現象学について簡単に考えよう。『存在と時間』について、端的に言えば、それは、⇒+1の現象学だと思われる。存在や時間は⇒、即ち、Media Pointを指していると思われる。
 そして、思うに、後期ハイデガーは、⇒以前のi*(-i)の領域、乃至は、i*(-i)と⇒との接点の領域、即ち、イデア界・虚界あるいはそれとMedia Pointとの接点を探求したと考えられるのである。
 最後に、先に述べたポスト・モダンの差異論に関連させて、本稿を閉じたい。ポスト・モダン哲学の差異論は、連続的差異論であると私はこれまで主張している。では、連続的差異とは何かと再確認しよう。
 これまで述べことを反復するが、同一性と連続的な差異ことである。換言すると、同一性を形成する差異のことである。では、この差異とは何か。この差異は構造主義の「差異」のように静的ではなく、動的である。生成性をもつのである。だから、エネルゲイアをもつのである。ということで、ポスト・モダンの差異とは、Media Pointのエネルゲイアと関係した差異である。だから、単純に、Media Pointと考えていいのかもしれない。当然、本来のMedia Pointである。虚軸を含めてのMedia Pointである。
 このことは、ドゥルーズ(&ガタリ)の差異の場合については述べたことである。そして、初期デリダの差異(差延)に関しては、実軸のMedia Pointの差異に限定したのである。何故なら、初期デリダは、フッサールの超越性を否定していると考えられたからである。
 今、思うに、デリダの差異(差延)の場合はかなり曖昧なのではないだろうか。考えられるのは、デリダは、純粋な超越性を否定しているが、同一性と連続な差異を肯定しているので、この連続的差異は、可能性としては、超越的な差異を含む可能性があるということである。つまり、連続化された超越性ならば認めている可能性があるのである。そうすると、やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)の場合とまったく等しくなるだろう。
 結局、現象学とポスト・モダン哲学を比較するとどうなるだろうか。フッサールハイデガー現象学において、意識化されていなかった差異が、ポスト・モダン哲学では明確になったと言えよう。しかしながら、不連続的差異ないしは純粋なMedia Pointに関しては、現象学の方が進んでいたと考えられるのである。だから、先に述べたように、現象学/ポスト・モダン哲学=トランス・モダン哲学である。
 だから、不連続的差異論は、無意識の内に、現象学の到達点を、差異論的に取り戻したのである。そして、PS理論は、現象学とポスト・モダン哲学を、創造的に統一した理論であると考えられるのである。もっとも、ここには、鈴木大拙即非の論理がキー・コンセプトになっているのであるが。