『存在と時間』の他者としての「良心としての呼び声」

存在と時間』の他者としての「良心としての呼び声」

存在と時間』には、他者が不在であると言ったが、どうやら、それは訂正しなくてはならない。他者は、「良心としての呼び声」であると考えられる。
 しかしながら、この点に関しては、先の批判が適用される。「良心としての呼び声」は、いわば、内的他者である。しかしながら、もし、内的他者ならば、それは、外的他者を認めるはずである。世界の他者を見つけるはずである。しかしながら、世界は、道具主義の世界に過ぎないのである。

p.s. 私は、内的、外的と区別しているが、思うに、ハイデガー現象学存在論ないしは現存在論とは、その区別以前の「現象」・事象を問題にしているとも考えることができる。そうすると、内的/外的の区別は適用できないことになる。そうすると、現存在ないしは存在とは、PS理論から見ると、やはり、 Media Pointに相当するのではという、最初に私が考えたことが適切であることになるだろう。
 そうであるなら、「良心の呼び声」とは、Media Pointにおける共振性である。垂直的共振性である。まだ、水平化する以前の共振性である。だから、「良心の呼び声」とは、垂直的共振性のことであり、それが、水平的共振性へと転化すると考えられるのである。
 しかし、問題は、「良心の呼び声」は本来的現存在の単独の不気味さ、乃至は、世界の無に直面させるとしている点である。つまり、ニヒリズムを説いている点である。しかし、PS理論は、差異共振性を積極的に説いている。それは、物質的現象性から見ると、無ではあるが、それは、積極的には、無ではなく、超越性をもっているのである。超越的差異共振性である。超越界・叡知界(イデア界という用語は誤解を生みやすい)である。
 ハイデガーの無は、否定的であるが、PS理論の「無」は肯定的である。

参照: 「第五十七節 気遣いの呼び声としての良心」。尚、翻訳は、細谷貞雄氏のものが明瞭で読みやすい。ただ、術語の訳が、今では、古い感じがある。原佑&渡邊二郎氏のものは、確かに、格調が高いが、堅く、読みにくい。しかし、めりはりのある日本語だと思う。思うに、術語の訳であるが、両者から取捨選択するといいだろう。

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感情とは何か:感情理論に向けて:試論1

感情を理論化したい。意外に感情理論は、乏しいのではないだろうか。知性や悟性や理性や論理やロゴス等については、たくさんの理論がある。一般に感情は貶められているようだ。感情は低く見られている。そうであっても、感情理論は提起する価値がある。

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存在と時間』の「世界の無」

現存在は、自己存在の「不気味さ」から、世間的自己へと逃走する。この「不気味さ」は、世界の無に自己をさらす。この世界の無とは何だろうか。世界の無とは、外界の無ということになるのではないだろうか。しかし、それは、自己の無ではないのか。自己の無と世界の無とは異なる。自己の無はありえるが、世界の無はありえるだろうか。
 人間の根源的存在は、普遍的であり、思うに、「わたし」という個人が無になっても、それは、不滅である。だから、「わたし」の無はあっても、世界の無はありえないのではないだろうか。
 「わたし」の無とは何か。それは、涅槃に返ることだろう。眠りである。ハムレットではないが、夢を見るのだろうか。私の想像では、それは、心地よい眠りである。後で、考察を深めたい。