ポスト・モダン期における近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争

ポスト・モダン期における近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争闘


テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義


余裕がないので、簡単に言うと、近代的自我/近代合理主義は、同一性中心主義の知しかない。有り体に言えば、自己中心主義の知しかない。
 しかし、ポスト・モダンの現代において、差異が回帰するが、近代的自我はどうなるのか。それは、非合理衝動に駆られることになる。
 どうしてか。近代的自我は、i→-iの同一性志向性をもつ。ここでは、同一性観念を形成する。つまり、単純に考えると、ここでは、差異である-iが否定されているのであるから、他者(差異)への共感性(倫理)はないのである。ただ、優越的な道徳は志向するだろう。パターナリズムである。
 つまり、近代的自我/近代合理性には、他者がなく、共感性がなく、倫理・社会性がないということである。端的に、共感知がないと言えよう。言い換えると、精神的知性がないということである。
 この様態において、ポスト・モダン期となると、否定された差異-iが回帰するのであるが、近代的自我は、差異-iの受皿がないのである。-i→iにおいて、それは、いわば闇の衝動となって襲うと考えられるのである。これが、精神病の原因である。見知らぬ衝動=狂気が近代的自我を襲うのである。今日、うつ病、あるいは、凶悪凶暴な犯罪が多い内因はここにあるのではないだろうか。また、新興宗教、カルト、原理主義が発生する内因もこれだろう。
 問題は、差異が回帰しても、単なる非合理な衝動にしかならず、近代的自我/近代合理主義=同一性構造はそのままであることである。いわば、狂気の近代的自我/近代合理主義である。これが、ブッシュ/ネオコンを説明するし、グローバル巨大資本主義を説明するだろう。
 簡単に言えば、共感知がないのである。また、素朴な共感性があっても、近代的自我=利己主義の環境によって、攻撃されるだろう。(ここで、スピノザの能動的観念の智慧が生きるのであるが。)
 もし、近代的自我/近代合理主義とは別に、共感性があれば、差異の回帰するポスト・モダン期においても、差異を意識化して、差異知性、共感意識、共感知(共感智)を形成しうるだろう。
 そして、これが、Media Pointの芯になるものなのである。それは、Media Point共感心と言ってもいいだろう。
 問題は、近代的自我/近代合理主義を形成した近代的知識層は、ポスト・モダン期においては、非合理主義・狂気的になることである。一般に、資本家・官僚・役人・政治家・教員等々は、そのようなタイプなので、今日、異常なのであり、端的に、悪人となるのである。ブッシュ/ネオコンはそのような最たるものである。
 そして、あまり高い知識のない層は、共感性をもっているので、非合理主義・狂気化せずに、共感意識ないしは真正な信仰心を形成するのである。
 そう、ポスト・モダンの末世において、後者のような人びとが、導くべきである。前者は自己保身、私利私欲主義なので、世の中は、腐敗・頽廃する一方であり、亡国となる。
 ここで、私の経験から共感知の形成について簡単に触れたい。思うに、シュタイナーが霊的能力を形成するには、知的能力が前提であると言ったのを想起する。思えば、共感能力とは感情性が強いものであるから、知が影響されやすいと言えよう。合理的知性を維持しつつ、共感知性を形成することは難しい。
 そう、端的に、共感性をイデア・理念化する必要があるのである。言い換えると、共感性の霊化である。(スピノザの能動的観念とは、このことを意味していると思う。)共感性を理念化しないと、合理的知性と齟齬を来すだろう。
 合理的知性はクールなものであり、共感性は情感的であるからである。共感性を知的に理念化すれば、合理的知性と共存・共立・併存するものとなる。ここにおいて、Media Pointの萌芽があるのである。
 結局、差異回帰のポスト・モダン期とは、近代的自我/近代合理主義にとっては、非合理主義/狂気衝動をもたらし、共感的自我にとっては、共感知性、共感的理念を形成し、トランス・モダン的自己への転換をもたらすと言えるだろう。
 今日、狂気と叡知との争闘があると言えよう。近代主義狂気とトランス・モダン叡知との争闘である。闇と光の戦いである。かつては、近代主義が光であったが、今日は反動的なのである。そして、共感的イデアをもつトランス・モダン叡知が光なのである。
 それにしても、共感智をもたらすものとは何なのだろう。それは、端的に、自己を見つめることであろう。自己を測深内省することであろう。簡単に言えば、孤独の時間をもつことである。群れから離れることである。脱群化、脱集団化である。思えば、私は原始仏典の「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉を信じた時期があった。
 いろいろ教養があるが、それよりは、基本はただ独りになり、沈思黙考することであろう。

It makes you a wise person to be alone and contemplate deeply.

But it makes you an idiot to belong to the throng and talk loud.
 

参考:

あらゆる生き物に、暴力を加えず、
いかなる生き物にも、苦悩を与えず、
子女を求めることなく、朋友を求めず、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

交わりをなせば、愛情が生まれる。
愛情が生まれれば、苦悩が生まれる。
愛情から、苦悩が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

朋友や親友などと、時間を共にし、
心が絆されると、己の利が損われる。
親交から、浪費が生まれるのを、見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妻子への愛著は、竹林が茂るが如し。
竹の子が、他に絡むことがないように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

鹿が食を求め、欲する処に赴くよう、
聡明な人は、自立自由を目指している。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

仲間と共にいれば、常に呼ばれる。
休む時も、行く時も、旅をする時も。
他人に従属しない、自立自由を目指し、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

仲間の中には、遊戯と歓楽がある。
また、子に対する愛情は甚大である。
愛しきものと、別れることを厭いつつ、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

害心と恐怖を捨て、何処にでも赴き、
得た恩恵に足りて、得た苦難に堪える。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

出家しても、不満を抱くものがいる。
在家にいても、不満を抱くものがいる。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

葉の落ちた樹の如く、在家の印を捨て、
在家の柵を断ち、犀の角の如く独り歩め。

法友を得たなら、危難に悉く打ち勝ち、
心から喜び、落ち着いて、彼と共に歩め。

法友を得ないなら、戦争に勝った王が、
征服した国を捨てる如く、ただ独り歩め。

法友を得る幸せを、褒め称える。
己より優れた者、また、等しい者。
彼らとは、親しみ近づくべきである。
法友が居なければ、罪科なき行を修め、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

見事に輝ける、二つの黄金の腕輪を、
片腕に嵌めるなら、ぶつかるのを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

二人で居れば、饒舌と口論が起こる。
必ず未来に、このようになるのを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

欲望は甘美であるが、心を撹乱する。
欲望の喜びの裏に、撹乱の憂いを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

欲望は、災害であり、禍患であると、
欲望の喜びの裏に、恐怖の憂いを見て、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

寒と暑、飢と渇、風と熱、虻と蛇と、
これらすべて、ことごとく打ち勝って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

蓮華のように、見事な肩をした象は、
群れを離れ、欲するままに森林を歩く。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

群れる者が、解脱に至る道理はない。
太陽の末裔、ゴータマの言葉を聞いて、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

矛盾する観念を超え、悟る者は言う。
智慧を得た、誰にも教わる要がない」
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

貪ることがなく、偽ることがなく、
渇望することなく、偽ることもなく、
迷妄を除いて、妄執のないものとなり、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

不義なる者を見て、悪い友を避けよ。
貪欲に耽り怠る者と、進んで親しむな。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

真理を弁える、聡明な法友と交われ。
有益な事柄を学び、疑念を拭い去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

遊戯や娯楽や快楽に、喜びを感じず、
心惹かれず、着飾らず、真実のみ語り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妻子、父母、財宝、穀物も、親族も、
そのほか、あらゆる欲望を捨て去って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

「これは、執着であり、魚を釣る針。
ここは、楽しみが寡く、苦しみが多い」
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

水の中の魚が、網を破り出るよう、
既に焼けた処に、火が戻らないよう、
諸々の煩悩の結び目を、悉く破り去り、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

常に下を向き、うろつくことなく、
諸感官を塞いで、煩悩から心を護り、
流されることなく、焼かれることなく、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

葉の散る樹の如く、在家の印を除き、
出家を果たし、袈裟の衣を身に付ける。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

味を貪ることなく、選り好みをせず、
戸ごとに食を乞い、家々に囚われない。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

五蓋を断ち切り、随煩悩を取り除き、
誰にも頼ることなく、愛情を乗り越え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

以前に味わった、味著と禍患を捨て、
喜びと憂いを捨て、寂静と平安を得る。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

最高の目的を果す為、慇懃精進し、
心が怯む事なく、行を怠る事もなく、
堅固な活動をなし、体力と智力を備え、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

独坐と禅定を、打ち捨てる事なく、
諸々の事柄について、理法に従がい、
諸々の生存には、憂いがあると知って、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

妄執の消滅を求め、怠惰にならず、
明敏に、学ぶこと深く、心を止める。
理法を明らかに悟り、自制し努力する。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

音や声に驚かない、獅子のように、
網に捕まることがない、風のように、
水に汚されることのない、蓮のように、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

歯牙が強く、獣の王である獅子が、
他の獣を制圧して、振る舞うように、
他の人から離れた処の、坐臥に親しめ。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

慈愛と悲哀と平静と解脱と歓喜とを、
時に応じて修め、世間に叛くことなく、
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

貪欲と瞋恚と愚癡の、三毒を捨てて、
結び目を破り、命を失うのを恐れない。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

今の人々は、自分の利益のため、
交わりを結び、或は、人に仕える。
今日、利益を求めない友は得がたい。
己の利益のみ求めるものは、汚らしい。
修行者たるもの、犀の角の如く独り歩め。

スッタニパータ 第一章 第三節

http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/suttanipata13.htm