小沢一郎が考えている大連立とは、差異共振的自由主義を基礎としてい

小沢一郎が考えている大連立とは、差異共振的自由主義を基礎としている可能性があるだろう


テーマ:小沢一郎民主党と日本の政治


以下の考察は、小沢一郎共同体主義(アソシエーショニズム)という発想が新鮮であった。しかし、小沢の政治理念が新自由主義に近いというのは違うのではないだろうか。小沢一郎の二面性は、差異主義(これが共同体主義になるだろう。つまり、差異共振主義である。)と大資本自由主義である。つまり、共同体主義新自由主義が矛盾同一化しているのである。思うに、これは、私が言う差異共振的自由主義に近いと言えないだろうか。
 そう考えると、小沢一郎が考えている大連立とは、差異共振的自由主義(Kaisetsu氏の市場化された場における共同体主義)を基礎としている可能性もあるだろう。
 アメリカ経済は、単純な金融資本の同一性中心主義でバブル崩壊状態である。日本を建て直すには、差異共振的自由経済しかないだろう。小沢一郎は明確に理念をもつべきであろう。自由共同党を作るべきである。
 

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米国にとって危険に映るアソシエーショニズム


しかし、「普通の国」になるといい、日米同盟至上主義に対しては、公然と国連中心主義を唱える小沢一郎は、米国にとっては極めて危険な存在と映るだろう。小泉純一郎のように靖国神社を参拝して、中国や韓国などと摩擦を起こしてくれた方が、米国としてはよほど安心して見ていられたはずだ。日中や日韓でナショナリズムがぶつかり合う覇権主義的な状況は、米国が前提としている世界観の内側に存在することであり、その内側で多少の摩擦が生じようと米国の覇権構造そのものは変わることがない。むしろ彼らが嫌うのは、世界がアソシエーショニズム(共同体主義)を志向することだ。

小沢一郎という政治家の政治行動は振幅が大きく、何をやるかわからない人物だといわれる。しかし、小沢の政治家としての本質は、単純で、一言でいえば、リベラリストであり国家主義者ではないということと考えている。


普通の国」のもうひとつのメッセージ


小沢のいう「ふつうの国」とは、他の先進諸国と同様に安全保障も含め自立した国家になることを意味すると受け止められているが、この言葉には、実は「覇権国家にはならない」という、もうひとつのメッセージが含まれている。その帰結として、安全保障の問題を、国連という「共同体」に委ねるという考え方も生まれてくるのだが、それは、国家の主権を何よりも重視する「真正保守主義者」や米国にとっては受け容れがたいものだろう。小沢本人は一度も資本と国家の関係について述べたことはないが、資本が国家を凌駕する、あるいは、グローバル化によって覇権的国家主義が溶解する時代が意識されている。別の言い方をすれば、米国による覇権が終わったあとの多極化した世界の中で、この国のありかたをどう考えるかという問題意識が前提にある。国家に対して資本、覇権主義に対して共同体主義(アソシエーショニズム)を対峙させる小沢一郎の政治理念と問題意識は、新自由主義に最も近いといえるだろう。
かつて小沢一郎が属した経世会は、田中角栄の薫陶をうけた「金権政治屋」集団と見られているが、そこから昇華された理念があるとすれば、金(経済・資本)の力は、必ず国家という枠組みを凌駕することになるという新自由主義的な現実認識かもしれない。


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