+iと-iの意味について:差異共振性=Media Pointによるトランス・モ

+iと-iの意味について:差異共振性=Media Pointによるトランス・モダン的虚界顕現


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


私の作業仮説では、+iはますます同一性の志向性を意味するようになっている。問題は、-iである。私は身体と作業仮説的に考えている。
 思うに、+iの志向性は、言語を形成して、差異を否定して、それを喪失する。自我ないしは近代的自我の形成を意味する。
 ここでも直感で考えよう。知覚において、少なくとも二つの極がある。同一性の知覚であり、差異の知覚である。すると、前者を+i、後者を-iと考えていいのだろうか。
 問題は、一般に同一性の知覚において、差異は不連続化せずに、連続化していることである。つまり、同一性と連続化した差異が生じることである。これは、同一性が主であり、差異が従であると言ってもいいだろう。
 また、問題は、そのような連続的差異も肯定せずに、単に同一性を肯定して、差異を否定する自我の有りようである。この場合は、明らかに、+i→-iである。(とりあえず、→を同一性志向性の記号とする)これは、(+i)*[-(-i)]である。即非を否定(-)する関係する同一性の志向性である。そして、これが徹底したのが、近代的自我である。そして、ポスト・モダンの現代において、否定・排除された差異が賦活(励起)されているので、それが、同一性自我へ反作用して、狂気作用を起していると私は想定している。現代の日本人はこのタイプであると考えている。
 この問題は復習であるが、続けよう。この近代的自我(近代合理主義)は、資本主義経済社会が形成する自己/魂の様態である。同一性中心的自己/魂である。本来の自己/魂が阻害されているのである。
 しかしながら、この近代的自我(近代合理主義)の様態に反発して、自己の内面の差異を志向した場合、上述したように、それは、連続化された差異になるのである。ポスト・モダン的差異である。
 しかし、この連続化された差異であるが、それは、単に連続化された差異というよりは、そこには、不連続な差異も含まれていると考えることができるだろう。
 換言すると、差異即非様相(+i)*(-i)がそこには発動していると考えられるのである。しかしながら、同一性の知覚(自我)は、その差異即非様相を連続的差異として捉えてしまうことになるのである。さらに、差異即非様相(差異共振相)を否定・排除することにもなるのである(ポスト・モダン:ドゥルーズデリダ)。これが、ポスト・モダンの袋小路である。思うに、最初は駆動していた差異即非様相が帰結的には、排除されてしまうのである。だから、ここでは理論より、直感・経験の方が正しい水先案内人である。
 現代をポスト・モダンと捉えているが、本当は、トランス・モダンなのである。しかしながら、近代主義の縛りが強いために、ポスト・モダンへ転化してしまうと言えよう(参照:アイロニカルな没入)。
 ここで少し視点を変えて、-iについて考えたい。+iの同一性志向性に対して、-iの差異の志向性が有りえるだろう。その場合、+iが否定されることになるだろう。即ち、[-(+i)]*(-i)⇒-1となるだろう。以前、これを神秘主義や身体中心主義と考えた。それは正しいだろう。
 ここでは、同一性は否定されて差異が中心化されるが、同一性がないために、個別・個体化が否定されることになる。(今、思ったのであるが、シャガールの絵画にある空間は、この同一性否定差異融合空間ではないだろう。)これは、反近代主義ロマン主義、オカルト主義等の方向である。
 この-i中心主義であるが、これは、連続的差異とは異なる。連続的差異とは、同一性から独立できない差異の様態であるからだ。
 とまれ、事態は複雑である。少し整理しよう。


1)+i→-i(同一性):近代的自我、近代合理主義
2)-i→+i(反同一性的差異中心主義):神秘主義ロマン主義
3)差異共振性の賦活:Media Pointの活性化(トランス・モダン)
4)連続的差異の段階(ポスト・モダン)
5)脱連続的差異の段階(不連続的差異論)
6)差異即非・共振性へのらせん的回帰(プラトニック・シナジー理論


1と2は、作用・反作用であろう。近代は同時に反近代を生起させたと言えよう。これは、与党と野党の関係に似ているだろう。相補性である。相互補完である。あるいは、人類の精神生活は、基本的には、この二重性をもつと言えるのではないだろうか。
 とまれ、問題は、差異共振性が賦活されたとき、そのとき、2の反近代主義の要素も入ってくるということである。ファンタジーとはこの様相であるのかもしれない。それよりも、端的に、宗教の再活性化がこれを意味するだろう。新興宗教の勃興である。当然、反動的である。
 しかしながら、誠実であれば、同一性と差異との中間態に自己が存することになるのがわかる。1と2との中間態である。ここで誠実であるとは、差異共振性、Media Pointに忠実であるということである。つまり、差異共振性、Media Pointが意識されていなくても、その意識的発現様態が同一性と差異との中間態であるということからそう言えるのである。
 問題は意識が連続的同一性であるために、差異が無意識に連続化されていることである。ここでも直感で考えよう。私がコスモスと言ったとき、それは何だろうか。それは、肚で、身体で感じられるある世界である。それは、一体的な世界である。思うに、シャガールの絵画の融合空間とはコスモスと言えよう。これは、ある意味で、現象的個別性を無視するだろう。というか、超越するのである。ただし、肚、身体中心で捉えられる限りでは、それは、2の要素を帯びるので、神秘主義的様態を帯びていると言えよう。つまり、反動性を帯びるのである。反同一性を帯びるのである。(だから、シャガールの絵画の個別性は簡略化されているし、輪郭が消失する部分があるのだろう。また、思うに、やはり、ドゥルーズデリダの違いもここら辺にあるだろう。ドゥルーズはコスモスを肯定するが、デリダはそれを否定するだろう。だから、知識人には、デリダの方が、受け入れやすかったと言えよう。)
 結局、Media Point、差異共振性が活性化するとき(トランス・モダン・プレゼンス)、差異(-i)への志向性でもあるので、そのとき、2の要素が入ると言えよう。そのために、コスモス化が生起すると考えられる。しかしながら、真相・真実・真理は、差異の即非共振(+i)*(-i)である。問題は、同一性主義i^2 と差異主義(-i)^2の中間に潜在している差異共振性(+i)*(-i)を理解することである。そして、コスモスという概念は、差異共振性から駆動されている反動様態であると言えよう。
 ここで、不連続的差異論が生まれる直前における私の意識様態について考えるのが適切であろう。私は根源的自然と交流・交信しているという直感をもった。しかし、根源的自然はコスモスではないのである。なぜなら、私の同一性意識は否定されてはいずに、ただ、別に置かれていたからである。同一性は排除されていなかったのである。
 つまり、差異共振性(ないしはその原型)をその時点で、無意識のうちに形成していたと言えよう。とまれ、コスモスを積極的に評価すべきであろう。反動的様態であるとは言え、そこには積極的な差異共振性が潜在生動しているからである。(だから、シャガールの絵画も、その融合空間=コスモスに、差異共振性= Media Pointの潜在生動性を感得すべきなのだろう。これがシャガール絵画のトランス・モダン的評価である。)コスモスは差異共振性への始点であると言えよう。差異共振性への進展への方法は、コスモスにおいて、同一性的発想を放棄しないことがポイントであろう。同一性の極を保持しつつ、コスモスを内的に意識すると、コスモスが純粋差異共振性=Media Pointへと発展すると思われるのである。(コスモスから差異共振性=Media Pointへの進展において、哲学が重要な役割を果たすであろう。哲学的知的鍛練は、同一性と差異とを明快に区別するだろうからである。もっとも、ドゥルーズ哲学の問題は、差異共振性のエネルギーがいわゆるコスモスの作家よりも弱かったことにあるように思われる。コスモスと言っても、D.H.ロレンスドゥルーズでは、正に、強度が違うのである。前者のコスモスの強度は熾烈・激烈・壮烈・苛烈であり、正に、差異共振的エネルギー、垂直・超越・虚/高次元的エネルギーをもっていたと考えられるのである。それに比べて、ドゥルーズの場合は、樫村晴香氏がニーチェ哲学と対比して指摘したように微温的である。http://www.k-hosaka.com/kashimura/jiru.html
 以上から、トランス・モダン転換期(転相期とでも呼びたい)において、神秘主義のコスモス様態が初期に入ること(例えば、モームの『月と六ペンス』における身体的霊性がそのようなものであろう)が明快になり、それを乗り越えるためには、同一性の極の保持が必要であることが判明した。同一性の極(知の極)と差異の極(身体の極)の中間において、差異共振相=Media Pointが啓けてくるのである(因みに、D.H.ロレンスの王冠論であるが、獅子が同一性の極、一角獣が差異の極、そして、聖霊が両極の中間の差異共振性に大局的には相当すると言えよう)。再確認すると、ポスト・モダンとは、同一性の極が差異の極よりも優位にある西洋文明における、差異共振性の賦活における特殊な発現様態であったようにも思われるのである。もっとも、世界一般において、西欧近代主義の影響を受けているので、単純に西洋文明の特殊性で済ますことはできない。つまり、この特殊性が一般化しているのである。
 ここで結論を簡単に言うと、同一性+iと差異-iとの争闘の深層において、差異共振性=Media Pointが蠢いているのである。そして、深層とは、虚次元・高次元・超越次元なのである。虚界からのエネルギーが今や全世界に作用しているのである。「聖なる侵入」である。
 そして、世界は、途方もない、言葉を絶した産みの苦しみを経て、差異共振融合社会(差異共振共同体)へと進展することになるだろう。耳の有る者は聴くがいい。