三島文学と差異共振性:トランス・モダンへの萌芽

三島文学と差異共振性:トランス・モダンへの萌芽


テーマ:ニッポン独立宣言


三島由紀夫文学であるが、彼の文学は、基本的には、-i→+iの文学である。そして、その反近代主義、身体・神秘主義には、差異共振性=Media Pointが内包されていたというのが私の考えである。ハイデガーを超えていたのである。大江健三郎は三島を批判するが、それは狭量である。大江自身に本来差異共振性があったが、それが、戦後民主主義や近代合理主義で、弱化されてしまい、枯渇してしまったと思っている。ほとんどの日本人は、三島文学のもっているトランス・モダン性が理解できていないのである。


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昨日は三島由紀夫没後37周年と言う事で、豊島公会堂で開かれた憂国忌に行って来ました。37年も経つと中年以上の人しか三島由紀夫の生前の姿を知らない。私は三島由紀夫の講演会などで生の姿を知っていますが、まさに文化人のスーパースターであり女性ファンも多かった。

私もミーハー的なファンであり小説には読んでもなじめなかったが、政治的なエッセイなどは読みあさった。戦後の日本は文化人と言えばリベラル左翼の代名詞であり、右翼とか民族派というと暴力団的なイメージが付けられてしまっていた。その中で三島由紀夫石原慎太郎は異彩を放っていたのですが、現在には彼らのような若手の文化人のスーパースターがいない。

70年安保ぐらいまでは大学でも学生運動が盛んでしたが、現在の大学は政治的学生運動はほとんど無いといっていい。それくらい現代の若者はすっかりノンポリ化してしまって政治的講演会があっても若い学生を見かけることはまれだ。それくらい政治思想には無関心であり、戦後マスコミと教育ですっかりノンポリに洗脳されてしまったのだ。

「株式日記」はその名のごとく経済ブログなのですが、最近では政治ブログ化している。三島由紀夫が生きていたらどんなブログを書いただろうか? 自分で言うのもなんですが三島由紀夫の魂が乗り移って書いているのだろうか? 檄文などを読んでもらえば分かるとおり、60年以上たった現在も実質的にアメリカ軍に占領された状態は続いている。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20071126
式日記と経済展望