検討問題:社会と同一性(同一性共同体と差異共振共同体)etc.

検討問題:社会と同一性(同一性共同体と差異共振共同体)etc.


テーマ:検討問題


1)先にもあげたが、同一性の構造の問題を再考したい。


2)社会のもつ閉鎖性について:共同体とは何か:同一性共同体と差異共振性共同体:


同一性共同体が世間というものである。ここでは、同一性が支配していて、それに対して、差異は否定・排除・隠蔽される。端的に、差別されるのである。それに対して、差異共振社会が考えられる。これも共同体ではあるが、同一性共同体と区別されなくてはならない。
 同一性共同体(世間)は、二元論・二項対立が中心化されている。つまり、上下差別的社会なのである。民主主義社会は、このようなものとなるのである。
 そう、結局、同一性=二元論・二項対立とは、なんらかの「超越性」が基盤にあるのであり、それで、上下優劣が発生するのである。同一性の基盤の「超越性」とは、虚軸上の+iに拠るのではないだろうか。この虚軸的超越性があるので、同一性は優越性をもって、差異・他者を同一性化させて、支配すると考えられる。
 この虚軸的超越性の同一性が権力と世間の基盤となると考えられる。結局、差異共振性、Media Pointの様相を取りだすことが重要なのである。
 単に超越性だけでは、同一性も噛んでいるのである。そう、今ふと思ったのであるが、デイヴィッド・アイク氏が、爬虫類人と呼ぶものであるが、それは、この超越的同一性(虚軸的超越性の同一性志向性)によって説明できるのではないのか、ということである。
http://www.asyura.com/07/revival2/msg/134.html
http://slicer93.real-sound.net/0-ig-space-8480.html
 そう、さらに今浮かんだことは、シュタイナーの悪魔論である。
http://blog.mag2.com/m/log/0000219955/108382429.html
アーリマンがこの爬虫類人であり、ルシファーとは虚軸的超越性のもう一つの極の-iではないだろうか。
 つまり、超越的同一性=爬虫類人=アーリマンではないだろうか。もっとも、超越的同一性と説明した方が、より学理的であると言えよう。そう、シュタイナーの発想を借りると、アーリマンとルシファーの協働によって、生命体が作用していることになるだろう。しかしながら、それは、物質的身体・心身としての生命体であり、精神・霊・智的生命体としてではない。
 とまれ、アーリマンとルシファーは相互補完的になり、近代合理主義を形成するのである。そして、差異共振性であるMedia Pointが否定・排除・隠蔽されるのである。平和の美徳ではなく、戦争の悪徳が肯定されるのである。
 シュタイナーの霊学では、アーリマン/キリスト/ルシファーの三相共振性が説かれるのであるが、これは、古事記/易=PS理論で言うと、三柱の神の三相共振相である。そして、これが、太古からの叡知であったと思うのである。この三相共振叡智を神道を継いでいるのである。しかしながら、先にも述べたように、父権的一神教の発生によって、三相共振様相が崩れたのである。超越的同一性(父権的一神教)が中心化されたのである。(そう、ユダヤキリスト教の神とは、悪魔であろう。つまり、アーリマン、爬虫類人であろう。)
 この超越的同一性の中心化は、二元論を生みだしたのである。例えば、天と地との二元論である。いわゆる、大地母神とは、この二元論によって、天の父との対極になるように発生したと考えられるのである。大地母神の考えは、かなり普及しているが、私は、女神、大女神、大母神は、本来、差異共振性・Media Pointではなかったのかと考えているのである。(この点は後で再考したい。p.s. 大女神ないしは母権制文化とは、三相を大女神としたのではないのか。三女神としての大女神ではないのか。)だから、聖母マリアという考えは、キリスト教の父中心主義の二元論によって、発生する大地母神に相当するのではないだろうか。
 とまれ、超越的同一性志向性ないしは超越的同一性エネルギーによって、太古の人類の叡知、三相・三元的叡知(三つ巴、天川の五十鈴http://www.tenkawa-jinja.or.jp/ )は、破壊されて、二元論的知性が中心化したのである。西洋文明・文化の発生である。二元論・二項対立文化による幽閉・牢獄・地獄が生起したのである。
 とまれ、今日、求められているのは、根源的三相的叡知を復活させることである。神道の叡知を復活させることである。陽である同一性から、陰である差異へと転換するときにおいて、実は、陽である同一性に囚われたままなのである。そして、それが、ポスト・モダン様態なのである。だから、太極の考えは、二元論的になりやすく、不十分なものとなるのかもしれない。もっとも、正しい太極の考えならば、三相になるのであるが。つまり、太極という第三の核心があるのである。
 思うに、スピリチュアル系の問題は、この二元論に囚われやすいことではないかと思う。これは、ポスト・モダン哲学と同様である。同一性を否定するので、反対の差異を肯定して、反動となるのである。問題は、同一性と差異との間にある差異共振性・Media Pointを肯定することなのである。これが、心の本体である。
 ずいぶん、話が飛躍したが、高次元差異共振共同体の構築であるが、それは、同一性を乗り越えたものである。そして、差異の反動も乗り越えたものである(アイロニカルな没入)。
 最後に一言いうと、超越的同一性であるが、それは、+iと-iの両方がそうではないだろうか。形相における同一性と質料における同一性があるのではないか。後で検討したい。


p.s. Media Pointを介して、虚軸的超越性は、±1に転換・変換する。現象化である。しかしながら、このときにおいても、Media Pointは生動していると思われるのである。⇒+1を+1としてのみ取るのが、超越的同一性中心主義-1である。しかしながら、⇒+1を正しく⇒+1として感じるのが、差異共振性・Media Pointの直感・心感性である。換言すると、X⇒+1であり、Xを漠然と感じるものである。
 今、思ったが、-iの中心化とは、無へと向かうのではないのか。神秘主義的無である。三島由紀夫の無である。しかし、ここには微妙な問題がある。ハイデガーの無は、+iと-iの両極の結合点であろう。それには、差異共振性・Media Pointが欠落しているのである。しかるに、三島の無には、共振性への志向が感じられるのである。ハイデガー哲学の闇は深いのである。恐ろしく深い闇があるのである。ハイデガーナチスに関与したのは、その闇の心性からだろう。
 超越神(唯一神)とは、差異共振性をもたない、さらには、差異共振性を否定するものである。それは、同一性に帰結する。
 問題は複雑で、+iの同一性と-iの同一性があるだろう。前者が光の同一性であり、後者が闇の同一性であろう。アーリマンの光とルシファーの闇である。この光と闇の合間にある差異共振性・Media Pointを取り戻さないといけないのである。シュタイナーはそれをキリストと呼んだが、それは、西欧文化の文脈においてである。それは、日本文化では、天之御中主神天照大神大日如来、空である。
 さて、今ふと、プラトンのコーラのことが浮かんだ。イデアとコーラの関係は興味深い。コーラは端的に、差異共振性・Media Pointのことではないのか。それは、形相と質料の共振様相ではないのか。そして、それが、イデアではないのか。私はかつて、深山の山を見て、山のイデアを直観した。また、フェルメールの絵画を見て、イデアないしは特異性を感じた。
 +iと-iの共振様相としてのコーラであり、イデアではないのか。即ち、コーラ・イデアである。そして、西洋哲学は、そこから、同一性を引きだして来たと言えよう。思うに、遺伝子も正しくは、Media Pointではないだろうか。それが、物質化したのが、DNAということではないのか。つまり、Media Pointの物質面があり、それが、DNAではないのか。それは、Media Pointの実軸様相であろう。
 そう、今啓(ひら)めいたが、実相の世界とは、Media Point世界(Media Point World or Media Point Cosmos)なのではないか。現象世界とは、Media Pointが実軸化した世界である。連続化・同一性化した世界である。三次元ないしは四次元時空間である。そして、それは、虚軸世界にいわば、覆いを覆っているので、実相世界が知覚・認識されないのである。つまり、四次元時空間における連続・同一性感覚知覚現象しか認識していないのである。連続・同一性が +1である。⇒+1の⇒を捉えられないのである。
 実相は、差異共振性であり、超越的対極共振振動(太極振動・太極波動)である。そして、根源は三相であり、連続・同一性は四元(四大)となるのではないのか。そして、三相とは、空であり、四大に加えて、五大(地水火風空)になる。思うに、中世キリスト教において、占星術的観点から、四人の福音書家(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ:牡牛、獅子、鷹、天使:順番は怪しい)とキリストを合わせた五元性があったのである。キリストは、空になるだろう。そう、思うに、西洋文化においても、キリストを空と捉える発想があったように思えるのである。仏教的思想が西洋中世に入っていたのではないだろうか。あるいは、ケルト文化的発想がキリスト教に入ったのではないのか。(とまれ、数字で言うと、根源の3と現象の4で7となる。)
 さて、実相世界をMedia Pointと考えたが、そこでは、五次元と四次元の交差する世界であり、通常は、後者の現象世界に閉じこめられている。グノーシス主義のように現象世界を悪と捉えるのは、単純化である。なぜなら、Media Pointから必然的に発生するのが現象世界であるからである。いわば、同一性による衣装・衣服・ファッションとしての現象世界なのである。
 そう、私が言いたいのは、魂、霊魂、霊のことである。結局、それは、Media Pointであろう。では、何故、多数の魂が生起するのかということになるだろう。思うに、多数の魂とは幻ではないだろうか。思うに、根源的には、一つの魂the Soul/the Spiritがあるだけではないだろうか。一つの魂の時間的多様化が、個別の多数の魂ではないのか。ユダヤ神秘学では、アダム・カドモンという原人間を想定しているが、それが、一つの魂ではないのか。
 そのように考えると、唯一神の考え方も変わってくる。問題は、超越的同一性の唯一神と、Media Pointの唯一神の二種類の唯一神である。
 ヤハウェ(エホバ)は前者で、エローヒームは後者ではないのか。つまり、聖書においても、Media Pointがあったのであり、それが、エローヒームではないのか。
 そう、とにかく、Media Pointとの唯一神は、実は、多神である。八百万の神である。一即多である。(宮崎駿の神学がこれである。p.s. D. H. ロレンスが、『黙示録論補遺』で、聖書は多神教的であると述べていた。記憶が正しければ、やはり、一即多の神を説いていたように思う。また、新しい神が誕生するとも言っていた。確かに、Media Pointは、永遠回帰の場であるから、古い神々は滅びて、新しい神々が誕生するように思えるのである。では、新しい神々とは何だろうか。新しい装いの神々かもしれない。神の仮面である。)思うに、イスラーム教のアッラーとは、これではないだろうか。つまり、一神教とは言え、ユダヤキリスト教唯一神イスラーム教の唯一神は別物ではないのか。ただし、前者においては、二重になっているのであり、そして、超越的同一性が主になり、Media Pointが従になり、さらには、否定されていったと考えられるのである。
 アメリカの神話学者、ジョセフ・キャンベルの主著・傑作『神の仮面』にあるように、正に、神とは、一即多であり、仮面をもっているのだろう。
 結局、宗教・神話の根本的問題は、Media Pointに様態にあると言えよう。一即多が根本であるが、ある出来事によって、一が強大化して、多を否定する事態になったのである。父権的唯一神化である。Media Pointの傾きと言えるのではないだろうか。思うに、単に、陽への傾斜だけでなく、陽への極限化である。そのために、陰が否定されたのである。太陽となり、陰が無化されたのではないか。とまれ、陽中心化が発現したのであり、ユダヤキリスト教文明が生起したのである。同一性中心主義(ロゴス中心主義)の文明である。そして、その帰結が西欧近代主義/西欧近代合理主義/西欧唯物科学・技術・資本主義である。
 当然ながら、陽への極限化は、陰へと回帰するのである。これが、ポスト・モダンであった。しかしながら、陽の極限化による同一性中心主義が強く、太極=Media Pointを捉えられなかったのである。陰陽の連続体に留まったのである。
 結局、不連続的差異論を発展させたプラトニック・シナジー理論が、太極・即非様態であるMedia Pointを捉えることとなったのである。(p.s. 陽の極限化としての超越的同一性の発現としたが、それは、正に、1/4回転のことではないのか。虚軸から左へ1/4回転する事態、これが、陽の極限化=ヤハウェ化ではないのか。そして、さらに回転すると、ふたたび、虚軸化する。それが、太極ではないのか。そして、さらに1/4回転すると、陰の極限化を迎えるだろう。そして、さらに1/4回転すなわち、4/4回転で回帰するのである。おそらく、1/4回転と1/4回転の間には、中間期がないしは、転換期があるだろう。正に、複素数的段階ではないだろうか。
 とまれ、最初の1/4回転が、ヤハウェ化であり、西洋文明化であったが、それが、さらに1/4回転して、トランス・モダンになるということではないだろうか。
 思うに、時間的にはどうなのだろうか。1/4回転はどれくらいかかるのか。占星術的歴史を考えると、約2160年ではないだろうか。そして、今や、西暦2007年も終りで、2008年にならんとしている。一つの文化サイクルの終焉に近づいているということになる。次は、水瓶座文化期である。新しい1/4回転である。
http://www.aqast.net/21his_ari.html
http://homepage2.nifty.com/SON/uranai/Aquariusage001.htm
http://blog.livedoor.jp/renshi1900/archives/15662125.html


p.p.s. 今、ふと思ったが、『指輪物語』のロスロリアンとは、差異共振性から想像的に表現したものではないのか。
 

 
3)四大としての水とは何か:火と水の共振創造について:あるいは、水の心感性とは何か:心感受性の問題


4)フェルメールの絵画について:イデアと特異性


5)キリスト教会ないしは西洋植民地主義/資本主義のもつ狡知について:支配するための現地調査力と民衆支配のための方法の考察力について:キリスト教会は、民衆の支持(信仰)を得るために、異教的なものを活用してきた。わかりやすい例は、クリスマスである。これは、もともとは、異教である太陽宗教を取り込んで、つまり、イエスの誕生日にして、利用したものである。この狡知と超越的同一性との関係を考察する。マーケッティングとは、キリスト教会の狡知から来ていると思う。


p.s. 端的に言えば、それは、悪魔の狡知である。アーリマンの狡知である。西洋文明とアーリマンと資本主義。思うに、聖母マリアとは、やはり、カトリック教会が、民衆支配を行なうために、異教から取り入れた要素であろう。端的に、女神宗教である。地中海の女神・母権宗教である。
 ところで、思うに、EUとは、矛盾を抱えているだろう。差異共振性を志向するが、ユーロは、統一通貨なので、同一性主義なのである。イギリスのようにポンドを維持した方がいいのではないのか。複数通貨制がいいのではないのか。 


6)創世記の天の上の水について


7)芸術とは、心的差異共振エネルギーを表現したものではないのか。そして、心的差異共振エネルギーこそが、真の存在ではないのか。ハイデガー存在論の誤りは、それが、超越的同一性の形而上学であることだと思う。完全に差異共振性が欠落しているのである。悪魔主義である。現象学の鬼っ子であり、フッサール現象学を破壊してしまった悪弟子である。おそらく、悪魔が憑依していたのである。


8)現段階における核心的問題は、超越的同一性の問題である。+iと-iのことである。ここで、父権神話を考えてみるのである。バビロン神話の場合、マルクトが、本来母神であるティアマトを殺害して、二分化して、天地創造する。これは、哲学的に、何を意味しているのか。
 それは、端的に、超越的同一性+iが超越的差異-iを同一性化して、差異共振性・Media Pointを破壊して、二分化してしまったことではないのか。ティアマトの死体から、天地創造をするのである。つまり、差異共振性を破壊して、二元論・二項対立を形成するのである。超越的同一性の優位項と超越的同一性の劣位項である。
 ここで、天を形相、地を質料とすると、ここに、西洋哲学の基盤が既にあると考えられる。唯物論の原型がここにあるのである。
 思うに、連続的同一性が否定するのは、差異ということだが、実は、差異共振性である。差異共振性を否定して、主客二元論を形成するのではないのか。初めに、Media Pointありき、ではないのか。そして、超越的同一性が差異共振性を否定して、主客分離を行なうのではないのか。父権神話とは、これを意味していると思われる。
 言い換えると、父権神話とは、構造主義の元祖である。原構造主義である。西洋形而上学の原点である。結局、超越的同一性+iは自乗して、-1となり、超越的差異-iも自乗して、-1になるのではないのか。そして、これが、+1ということである。 
 超越的同一性の盲点とは、差異共振性を否定するということを認識できないことにあるだろう。つまり、本質的に、差異共振性が欠落しているので、差異共振性を理解できないのである。差異共振性の「文盲」である。冷血無惨と言える。
 そして、この同一性(連続的同一性)が支配的であるので、ポスト・モダン哲学においても、差異自体が、同一性から脱却できずに、連続化しているのである。言い換えると、差異-iを見つけたが、それを同一性+iと連続化して捉えたのである。つまり、-(-i)であり、+iである。差異の同一性化なのである。
 構造主義が、+iの中心化とすれば、ポスト・モダン(ポスト構造主義)は、-iを同一性+iからの確認したのであり、-iが-(-i)=+iとなり、元の木阿弥になったのである。差異-iをそれ自体として、認識する方法が欠落していたのである。それは、結局、差異共振性、即非性に拠るしかなかったのである。東洋・日本の思想に拠るしかなかったのである。もっとも、例外は、ウスペンスキーの思想である。あるいは、詩人・作家である。
 思うに、カントが物自体は認識できないと言ったが、それは、西洋哲学の正直な告白である。超越的同一性中心主義(ロゴス中心主義・同一性中心主義)に拠る限り、不可能である。もっとも、カントは、実践的には、道徳・倫理を直感していたのである。カント哲学には、即非の概念が欠落していたので、理論化ができなかったと思われるのである。そう、『判断力批判』において、構想力(想像力)によって、理性と倫理との分裂を解決しようとしたのであるが、もしカントが構想力に即非性・差異共振性を確認できたならば、トランス・モダン哲学を構築できたであろう。
 美と崇高をカントは問題にした。美は同一性に関係し、崇高は差異ないしは差異共振性に関係するだろう。前者は古典主義であり、後者はロマン主義とは言えよう。しかし、カントは、これらを統合できなかったのである。やはり、ここでも、同一性に囚われていたので、崇高美学が、超越・無限的であり、把捉できなかったのである。崇高性が、超越的差異共振性から発することを理解できたならば、カント哲学は、トランス・モダン哲学となったのである。また、美にしても、古典美学は、同一性が基盤とは言え、根源には、差異共振性は必要であろう。先に問題提起したが、芸術とは、心的差異共振エネルギーの表現であり、そのとき、同一性も包摂すると考えられる。カントが、あと一歩進むことができていたならば、世界は変わったであろう。超コペルニクス的転回が起こっていたであろう。
 ちなみに言えば、フッサールはカントより進んで、超越性(フッサールは超越論性と言っている)に到達したのであるが、それを、超越的同一性志向性(ノエシスノエマ)に限定してしまったと言えよう。この系譜から言うと、プラトニック・シナジー理論は、カント/フッサールウスペンスキーの延長にある。もっとも、即非という鈴木大拙の東洋・日本的理論の進展にあるのであるし、ポスト・モダン哲学の超克でもあるのである。だから、明らかに、プラトニック・シナジー理論は、西洋哲学と東洋・日本思想の創造的合流点に位置していると考えられるのである。根井康之氏の「東西思想の超克」
http://renshi.ameblo.jp/renshi/entry-10003249686.html
の理念であるが、それは、プラトニック・シナジー理論が実現したと言えよう。それは、また、科学をも包摂しているのである。