プラトニック・シナジー理論から、イエス・キリスト問題を考察する:

プラトニック・シナジー理論から、イエス・キリスト問題を考察する:PS理論のコアのMedia Pointの即非様態から、イエス・キリストを見る


先に、スロー人ロハス氏から、イエス・キリストに関して、グノーシス主義説(仮現説)とキリスト教正統説(受肉説)が提起されていた。この問題は、思うに、キリスト教の本質のコアの問題である。これに関しては、私は以前、宗教の多元化に関する本を少し読んだので、これがコア問題であることがわかるのである。
 キリストが神霊の仮の姿なのか、それとも、神霊が受肉した人体なのか、これは、キリスト教と他の宗教を分ける分水嶺である。この問題は、シャーマニズムの問題とも関係する。いわば、神懸かりの問題である。また、プラトニズム、すなわち、イデア論の問題とも関係するのである。また、秘儀・密儀、そして、叡知の問題に関係するのである。そして、さらには、オカルティズムの問題と関係するのである。そして、また、天皇の問題となるのである。人類文化の根本的問題である。
 キリスト教の形成に関しては、異端説を退けて、正統な教理、三位一体論、いわば、セントラル・ドグマが形成されたことはよく知られている。ここでは、その問題には入らない。
 プラトニック・シナジー理論の見地から検討する前に、簡単に、私なりに、グノーシス主義の考え方とキリスト教的考え方を比較してみたい。グノーシス主義とは、簡単に言えば、霊と肉との二元論であり、霊の世界が本体であり、肉の世界は仮象であり、また、悪の世界である。だから、一種霊肉平行論である。この考え方から見ると、イエス・キリストとは、肉の世界における神霊の出現であるが、神霊と肉体であるイエス・キリストとは、本来、別々であるという解釈が成り立つのである。神人という考えも成り立たないのである。単に、人間に過ぎず、いわば、神霊の代理人のようなものであり、イスラーム教的に言えば、預言者の一人である。
 それに対して、キリスト教教理から見ると、イエス・キリストは、ロゴスの受肉、すなわち、神の受肉である。神霊が肉になったのである。ここでは、グノーシス主義的な二元論はなく、いわば、霊肉一元論である。そして、これは、イエス・キリストだけに適用できる考えである。つまり、イエス・キリストは、特異な事象なのである。この霊肉一致という特異な存在であるイエス・キリストこそ、他の宗教からキリスト教を別格優位にするものである。正確に言えば、神霊と肉体との一致としてのイエス・キリスト存在である。
 これは何を意味しているのだろうか。それは、もし、神霊が普遍的なものであるなら、普遍的な霊が個物・個体化されたということである。これは、普遍性が、イエス・キリストという個体に凝集収束したということである。言い換えると、イエス・キリストが普遍性を独占したのである。そして、それ以後、宗教・思想は、イエス・キリストを介する必要があるという考え(ドグマ)が生まれたのである。ここで一点確認しておくと、イエス・キリストにおいて、霊即肉、霊=肉という等式が成立したことである。言い換えると、差異を同一性に転化したという事実がここにあるということである。以上、ざっとであるが、これが、キリスト教教義の核心にある思想であろう。
 簡単に整理すると、グノーシス主義では、霊肉二元論・平行論があり、キリスト教教理では、霊肉一元論・一致論があり、差異が同一性へと転化されたということである。
 さて、いよいよ、プラトニック・シナジー理論から、イエス・キリストを「透視」考察してみよう。
 結局、問題は、Media Pointにある。ここは、超越性・差異と連続性・同一性が即非様態にあるのである。(思うに、Media Pointを即非点、Sokuhi Pointと呼ぶことができよう。現代天文学特異点は、即非点と見ることができる。)そして、これは、多様な森羅万象のすべてに存していると考えられる。一粒の砂粒にも、Media Point=即非点は存するし、また、当然、太陽にも存するし、万有個々に存している。普遍的存在ないし普遍的実存である。言い換えると、多即一としての存在・実存としてのMedia Point=即非点である。(


To see a world in a grain of sand,
And a heaven in a wild flower,
Hold infinity in the palm of your hand,
And eternity in an hour.


Auguries of Innocence by William Blake
http://kajuga.wordpress.com/2006/12/08/william-blake-auguries-of-innocence/
)結局、Media Point=即非点とは、差異と同一性の即非点であり、また、多即一の即非点とも言えよう。即ち、二重の即非様態(二重即非態又は二重即非相)があるのである。
 さて、このような観点から、イエス・キリストを考えると、当然ながら、Media Pointを体現した人物であると考えられるのである。私は、ここで、大乗仏教を同時に考えるのである。キリスト教大乗仏教の勃興はほぼ同時期・同時代であり、私は両者には共通の根源があると考えている。共通の根源とは、共通のエネルギーである。そして、それは、必然的に、Media Pointのエネルギーであるということになるだろう。つまり、イエス・キリスト大乗仏教の時代において、Media Pointエネルギーが賦活・活性化されていたと考えられるのである。それは、単に、個々の人物においてというよりは、全体的に、言い換えると、コスモス(宇宙)的に、Media Pointエネルギーが発動していたと思われるのである。言い換えると、Cosmic Media Pointエネルギーの発動があったと考えられるのである。コスモス(宇宙)的事象ということである。
 だから、イエス・キリストとは、Cosmic Media Pointエネルギーを体現した人物と考えられるのである。言い換えると、イエス・キリストとは、Cosmic Media Pointエネルギーと共振した人物であるということである。これは、超越エネルギーである。しかしながら、イエス・キリストとは、人間であり、物質的身体をもっているのである。結局、超越性・差異と連続性・同一性とは即非であり、イエス・キリストとは、Cosmic Media Pointエネルギーと物質的エネルギーの即非態である。
 思うに、Cosmic Media Pointとイエス・キリストのMedia Pointが共振したということではないだろうか。このMedia共鳴がイエス・キリストの本質ではないだろうか。すると、いわば、大霊と個霊との共振であり、霊肉の一致ではないはずである。すると、イエス・キリストは神霊の受肉ではなく、神霊との共振を意味すると考えられるのである。だから、グノーシス主義の仮現説の方が正しいことになる。
 もう少し説明しよう。イエス・キリストという個体において、心(霊)と身体(物質的身体)がある。そして、イエス・キリストの心において、Media Pointが啓いていたと考えられる。そして、また、その時代は、Cosmic Media Pointが賦活・活性化されていたと考えられる(思うに、これは、一種の励起状態と言えるのではないだろうか。何故ならば、ポテンシャル状態にあった Media Pointが、超越エネルギーを付与されて、活性化すると考えられるからである。この超越エネルギーは外部との共振によって注入されると考えることができよう。)。即ち、イエス・キリストの心(霊)=Media Pointは、Comic Media Pointと共振して(Media Resonance:メディア共鳴)、後者の超越エネルギーを負荷されることになったと考えられる。このCosmic Media Pointの超越エネルギーが、イエス・キリストの心(霊)に注がれたということである。
 もっとも、これは、メディア共鳴であるから、やはり、即非相なのである。Cosmic Media Pointエネルギーが神霊エネルギーであるが、それと共振したイエス・キリストの心(霊)のエネルギーは、同質であるとは言え、神霊とイエス・キリストの心(霊)とは別々のものであり、結局、即非様相であったと言えよう。そうすると、イエス・キリストは、神霊であり、同時に、神霊ではなく人間であるという即非態にあるということになるのではないだろうか。
 少し整理しよう。Cosmic Media Pointが神霊であり、それに対して、イエス・キリストの心(霊)のMedia Pointがある。そして、前者は当時、啓いていて、活性化されていた。即ち、エネルギーを放出していたと考えられるのである。つまり、神霊即神霊エネルギーである。そして、神霊エネルギーがイエスの心(霊)と共振する。そして、イエスの心(霊)は神霊エネルギーに満たされる。
 問題は、このイエスの心(霊)の共振様態とは何かということである。これは、先に述べた、一即多の即非態を意味すると考えられる。この場合、神霊が一であり、イエスが多である。言い換えると、神霊・即非・イエスである。ということは、先にグノーシス主義の仮現説が正しいと述べたが、それは訂正して、言わば、即非説がここに成立すると考えられるのである。簡潔に言えば、神・即非・イエスである。これが意味することは、イエスは神であり、且つ、神ではないということである。すると、これは、グノーシス主義の仮現説でもなく、キリスト教教理の受肉説でもない。新説になるのである。
 とまれ、この即非説によって、キリスト教教理は崩壊することになる。とまれ、即非説から見ると、イエス・キリストとは、Comic Media Pointの超越エネルギー(神霊エネルギー)を共振的に受容した人物であり、神霊エネルギーを人々に、いわば、デモンストレーションした人物と言えよう。
 ここで、太古の秘儀・密儀(たとえば、古代ギリシアのエレウシスの秘儀)を考えると、それは、秘儀参入において、参加者に神霊を感得させたと考えられる。神霊の感得とは何だろうか。それは、参加者の心(霊)に神霊エネルギーを共振させることであったろう。秘儀参入者がイエス・キリストと異なる点は、思うに、Cosmic Media Pointの賦活化の有無ではなかったかと思う。プラトンの時代とイエス・キリストの時代とは違いはそこにあるように思える。言い換えると、超越エネルギーの強度の違いがあったと思われるのである。
 ということで、イエス・キリストとは、Cosmic Media Pointのエネルギーの即非共振化した人物であるということになる。だから、プラトニック・シナジー理論から言うと、大プラトニストであるということである。
 さて、最後に、三位一体説に関連して言うと、イエス・キリストはCosmic Media Pointの「子」と考えられるが、Cosmic Media Pointとは太母であるから、太母の子である。では、父とは何か。あるいは、ヤハウェとは何か。
 この問題も難しいが、用語の混乱が生じるので整理しておきたい。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+iを陽、-iを陰、そして、左辺を Media Point=太極とする。そして、父を+i=陽とし、母を-i=陰とし、そして、Media Point=太極を太母とする。キリスト教における混乱は、太母と父との混同にある。創造神を父としたのであるが、本義的には、創造神とは、太母である。そして、両側面に父と母が存して、三相性(三つ巴)となっているのである。
 そして、父=ヤハウェ(エホバ)とは、端的に、陽である。だから、キリスト教は、陰=母と太母を欠落させているのである。思うに、創世記の水が陰=母である。そして、それが、海の怪獣になったと考えられるのである。陽が火ならば、陰は水である。そして、太母=Media Pointは、水火=太極である。
 そして、火が同一性ならば、水は差異である。キリスト教的西洋は、火中心で、水を否定し、排除してきたのである。つまり、同一性理性(同一性ロゴス)主義なのである。そして、父中心主義=同一性中心主義が、イエス・キリストの様態までも決定したと言えよう。つまり、イエス・キリストの神霊エネルギーは、本来、差異共振エネルギーであるが、それが、父の下に置かれたので、それが、歪曲されたと考えられるのである。つまり、差異共振エネルギーが、同一化されたと考えられるのである。それが、イエスの愛の思想だと思う。「汝自身を愛するように、隣人を愛せよ。」これは、自我愛を基礎とした、隣人愛の思想である。
 ここで何が問題になっているのかと考えると、本来太母の子であるイエスは、ユダヤ教的文脈によって、同一性化されているということである。つまり、 Media Pointにおいて、実軸化が進展しているということである。言い換えると、純粋なMedia Pointではなく、連続性・同一性が進展した状態にあるということである。だから、この点では、父の子というのは正しいのである。超越的同一性の子としてのイエスであるからである。
 そのように見ると、伝承で、二人のイエスがいたということが説得力をもつようになるだろう。一人は太母の子であり、一人は父の子である。平和の子と戦争の子である。あるいは、両面をもっているイエスということになる。つまり、差異と同一性の矛盾する両面をもつイエスである。とりあえず、両面をもつイエスを考えよう。
 とまれ、結局、イエスは分裂しているのである。差異と同一性の分裂であり、それは、新約聖書を読むと感じられるものである。平和の君と戦争の君である。
天使と悪魔である。仏と鬼である。そう、イエスアブラクサスということになる。
 結局、イエス・キリストはMedia Pointにおける同一性の志向性を体現していたといえよう。これは、Media Pointの陽化と呼ぼう。そう、ある意味で三位一体は成立するだろう。父と子と聖霊は、すべて、Media Pointの陽化の事象であると考えることができるからである。
 ならば、Media Pointの太極回帰が必要である。また、必然である。私はイスラーム教教とは、Media Pointの太極回帰の一つであると思う。また、イタリア・ルネサンスもその一つだと思う。しかしながら、太極回帰は、不徹底に終わる。何故ならば、太極回帰も、同一性の罠にはまるからである。人間の意識は自我同一性的であり、太極回帰も自我同一性へと連続化されると考えられるのである。これは、いわば、光の闇である。同一性の闇である。
 そして、その後、ポスト・モダンによって、差異が取り上げられるが、これも、同一性の罠にはまったままで、頓挫することになったのである。結局、真の Media Pointの太極回帰とは、即非概念によってもたらされると言えるのである。それは、プラトニック・シナジー理論によって明確化されたのである。思うに、今日現代、ふたたび、Cosmic Media Pointが啓いていて、活性化されているのである。神霊エネルギーが発動しているのである。今日は、イエス・キリストの時代とは異なり、同一性の志向性は衰退していると考えられる。結局、Media Pointの太極回帰へのエネルギーが純粋に作用しているように思われるのである。思うに、Media Pointの陽化に対して、陰化が発生していて、陽と陰との共振化が生じているように思えるのである。陰中心だとオカルティズム、神秘主義になるが、陽(父)と陰(母)との共振化によって、Media Pointの太極回帰が生じるのである。 
 さて、以上ながながと論じてきたが、まとめると、イエス・キリストは、神・即非・人ということで、即非説が生まれ、結局、キリスト教教理が崩壊したのである。次に、三位一体説に関して考察したが、結局、イエス・キリストをMedia Pointの同一性化=陽化とすると、同一性において、三位一体説は成り立つことになった。そして、Media Pointの太極回帰が発生するが、それは、これまで、同一性意識(自我)によって、反転してしまったことを述べた。そして、陽化(同一性化)に対して、今や、陰化(差異化)が生起して、差異共振化が生じて、純粋なMedia Pointの太極回帰が発生してると考えられるのである。当然、ポスト・キリスト教西洋文明の新エポックを迎えているのである。差異と同一性の連続体である双魚宮魚座)の時代から、脱同一性化して、差異共振する宝瓶宮水瓶座)の時代へと移行しつつあるように思えるのである。