同一性主義の視覚と差異共振視覚が混淆している近代文化

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同一性主義の視覚と差異共振視覚が混淆している近代文化:トランス・モダンと魂



簡明化するため、前者を同一性視覚、後者を差異視覚と呼ぼう。この二種類の異質な視覚が混淆し、分裂しているのである。思うに、芸術上のモダニズムとは、この混淆様態にあったが、主導的であったのは、同一性視覚である。そのために、近代主義に囚われたままであった。
 思うに、シュタイナーのオカルティズムも、この面があると思う。モダンの同一性主義に囚われて、差異共振エネルギーを把握しようとしたのである。彼の説く霊・スピリットとは、同一性から見た差異共振エネルギーであり、構造化されたそれである。だから、いわば、霊的唯物論なのである。同一性の枠・フレームから差異共振エネルギー(超越エネルギー)を捉えようとしたのである。しかしながら、それでは、近代主義のままである。霊・スピリットではなく、イデアなのである。エイドス・テオーリアを捉えなくてはならないのである。
 ところで、プラトン哲学の魂とはどうなるだろうか。そう、世界霊魂という発想がプラトンにあった。それもどうなるのか。一つの魂も結局、世界霊魂だと思う。一即全である。ウィリアム・ブレイクが説くような神秘思想は正しいのである。(思うに、神秘学とオカルティズムは異なるだろう。前者は、心で感じた思想であり、直截的なのであるが、後者は頭で創った霊的思想である。モダニズムである。)
 結局、「わたし」の「魂」とは、世界・宇宙霊魂anima mundiである(漫画『風の谷のナウシカ』にもこの思想はある)。それは、Media Point である。思うに、Media Point は一(いつ)であり、全であり、また、多である。ただし、即非様相である。つまり、「わたし」という物質的個体は多様性の一つである。自我的個体である。これは否定できない。物質的個体としての自我としての「わたし」である。しかしながら、「わたし」は個・差異・自己・魂としては全であり、多である。永遠である。アダム・カダモンである。この物質的個体と心的一との即非態があるのである。
 では、問題は、物質的個体としての自我の「わたし」の記憶はどうなるのかである。たとえば、オフィスの窓から見える桜の樹の知覚・記憶はどうなるのか。記憶もエネルギーである。つまり、同一性の記憶とはどうなるのか、ということである。ここは、微妙・霊妙なポイントである。思うに、魂の同一性の感受性があり、それが、記憶しているのではないだろうか。つまり、Media Pointにおいて、記憶されるのではないだろうか。これが、プラトンの言う想起に通じるだろう。あるいは、前世の記憶に通じるだろう。
 そう、魂は一であり、同時に、多なのである。私の魂は、特異性である。私以外の何者のものではないのである。この魂がいわば永遠の記憶をもつのである。物質的身体が消滅するとき、魂はMedia Point に還元されるのである。これがあの世・イデア界・彼岸である。そこで、叡知を学び、この世での学習の清算をするのである。そして、不合格ならば、再び、この世に生まれ変わるのである。魂の永遠の旅である。魂の永遠回帰である。そう、来世では、また、生まれ変わった人たちに出会うのであろう。
 
 ところで、同一性主義の視覚と差異共振主義の視覚の混淆の問題にもどって、さらに精緻に考えたい。つまり、この混淆様態はどうなっているのか、ということである。前者は後者を排除するので、パラドクシカルである。前者は後者を排除しようとする。相互否定、絶対矛盾である。
 しかしながら、両者は併存しているのである。もっとも、二元論的になっているが。問題は同一性である。差異共振主義は同一性を包摂するのである。だから、同一性という点では、両者は共通性をもつのである。つまり、矛盾する両者の共通点として、同一性があるのである。


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A

同一性主義

四次元・現象次元
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B

同一性

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C

差異共振主義

五次元・高次元

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以上の図から、AとCは、矛盾するが、Bにおいて共通すると言える。では、視覚においてどうなるのだろうか。
 ここは実に微妙である。同一性自体にも違いがあると思う。先に、仮象について論じたとき分けたように、アポロの美があるのである。それは、同一性ではあっても、超越性をもっているのである。だから、上図は不十分である。


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A

同一性主義

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B

構造的同一性

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C

超越的同一性

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D

差異共振性

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(注意:先にヤハウェを超越的同一性と言ったが、Cの超越的同一性はそれとは意味が異なる。ヤハウェは、CからBへの志向性であると思う。だから、構造的同一性と呼ぶのが適切ではないだろうか。)


アポロの美とは、Cのこととなる。そして、物質的同一性はBとなるのであり、近代主義における表面性を意味する。
 では、本件の問題に戻るとどうなるだろうか。つまり、同一性主義と差異共振主義の混淆である。思うに、混淆という概念は、間違ってはいないが、不十分でである。同一性主義は、AとBであり、CとDを抑圧しているのである。端的に、二項対立構造である。つまり、分裂である。だから、分裂的混淆様態というのが正しいことになる。
 もっと精緻に言うと、同一性主義視覚は、同一性において、BとCを混同しているのではないのか。そう、これは、実に微妙であるが、そのように思えるのである。近代主義は、CとDとを抑圧するが、同一性の点で、CとBと混同して知覚認識しているのではないだろうか。構造とイデアの混同と言ってもいいだろう。一種錯視である。(思うに、フッサールは、Cを捉えたが、それを、Bのように記述しているのではないのか。ハイデガーは、Cを看過して、Bを存在としたのではないだろうか。)
 先に問題として、美と奇麗さであるが、Bが奇麗さであり、Cが美であるが、近代主義では混同しているので、美と奇麗さを混同するのである。美人と麗人を混同するのである。だから、本来、アポロ的な美も、奇麗さと混同されているのである。錯誤があるのである。【思うに、ウィリアム・ブレイクも、この点を指摘していたように思う。ヴァラValaとエマネーション(流出:emanation)の違いである。】
 また、差異共振性を否定しているので、同一性主義は、当然、心の美(魂の美)を感識することができないのである。たとえば、ご来光も、同一性の範疇で捉えるので、それが、差異共振性をもっていることを視識できないのである。
(ここで、先の考察を訂正する必要がある。アポロの美を超越的同一性に限定したが、超越光は単にアポロ的美だけでなく、ディオニュソス的な光の美をもたらすのではないか。ご来光に見るのは、単にアポロ的美だけでなく、ディオニュソス的美でもないのか。つまり、古典主義的美だけでなく、ロマン主義的美でもあるということではないのか。そう、アポロとディオニュソスとは一つであろう。イシスとオシリスは一つであろう。聖母子である。超越光とは、ディオニュソスであり、且つ、アポロである。
 ここで、今想起していることを記すと、Media Pointにおいて、超越的エネルギー(超越的エネルゲイア)があり、それが、ディオニュソス/アポロである。ディオニュソスは、思うに、総体であり、アポロはその原形である。あるいは、原同一性である。
 そして、それが、実軸化すると、同一性構造になるのである。この超越性から同一性構造への志向性がヤハウェないしはヤハウェ衝動であろう。(この同一性構造を存在にしたのが、ハイデガーである。フッサールは、超越性を超越論的主観性という用語において捉えたと考えられるのである。ハイデガーは、フッサールのブレークスルーを完全に看過した。いわば、邪悪な弟子である。)
 とまれ、超越的エネルギーに戻ると、総体がディオニュソスと言ったが、振動がディオニュソスと言うほうが的確であるようだ。そして、その振動のもつ「形相」・エイドス・イデア・テオーリアがアポロと考えられるのである。
 そして、それの実軸点が構造点である。この構造点は、構造であり、かつ、ポスト・モダンの差異の点である。丁寧に説明すると、虚軸性を喪失した実軸だけの点が構造点であり、構造である。しかし、この原点において、なんらか虚軸性が関わるのが、ポスト・モダンである。しかしながら、デリダは、原点(Media Point・特異点)に痕跡=差延を見るだけであり、超越性を否定し、ドゥルーズは、原点を連続性=同一性の側から捉えてしまい、微分=連続的差異にしてしまったのである。
 今は、ここで留めたい。


p.s. 本件の問題について、まとめると、同一性視覚と差異視覚の混淆についてであるが、結局、簡単に言えば、両者を連続化しているということになるだろう。だから、差異・超越性が、同一性化されているのである。二番目の図から言うと、BとCとを混同しているのである。本当は、BとCとは、即非関係にあるのである。


p.p.s. ここで、プラトンの『ティマイオス』を考えると、有名な、あらゆるを受容した形をとるコーラとは、ディオニュソス=振動のことではないだろうか。そして、デミウルゴス(創造神)が創る宇宙であるが、彼は、構造的同一性から作るように思えるのである。つまり、既に、実軸化したところから構築するのである。
 とまれ、プラトンはまったく正しく観ていたと思う。イデアとは、Media Pointの超越性である。そして、現象はMedia Pointを介して、実軸化された影像である。『国家』の有名な洞窟の比喩で言うと、洞窟の外部の太陽がイデア(善のイデア)であり、洞窟の開口部がMedia Pointであり、影絵の実物が構造(Media Pointの実軸)であり、スクリーンの映像が現象であろう。