同一性と差異と差異共振性との関係について:言葉三元論と言語二元論

同一性と差異と差異共振性との関係について:言葉三元論と言語二元論:トランス・モダン・サイエンスへ


テーマ:差異と同一性


先に、差異と同一性について検討したが、不整合が生じたので、ここで再検討したい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10066558387.html
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自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+iを同一性、-iを差異、そして、左辺の(+i)*(-i)を差異共振性と先に考えたが、考察において、不整合が生じたので、ここで再検討したい。
 問題は、最初、言葉において、+iを知=同一性とし、-iを心魂性として、両者の差異共振性が、知心言(知魂言)になると説いたことから発している。その後、+iを近代合理主義、-iを非合理主義(狂気情動)とし、両者の二元論・二項対立によって否定・排除・隠蔽されたものとして、差異共振性が第三項であるが、それこそ、エネルギーの根源・源泉であり、その抑圧は、心的病気、うつ病統合失調症を生むだろうというようなことを述べたのである。
 不整合は、心魂性とは、端的に言えば、差異共振性であり、最初に言ったように、-iではないのであり、心魂性の様相について生じているのである。つまり、最初に-iが心魂性であり、次に(+i)*(-i)の差異共振性を心魂性と言ったのである。
 最初は言語の問題についてである。知心言ないしは知魂言としての言語において、同一性(知)と差異(心魂性)との差異共振性が発現していると考えたのである。そのときの私の勘違いは、差異を心魂性としたことである。そして、先ず、言葉を同一性と差異との共振性にあると見たことである。
 さて、ここで言葉について考察すると、言語と言葉では意味が違うだろう。言語と言ったとき、言葉から発話的具体性を捨象しているように思える。端的に言えば、言葉から心魂性、心魂的波動、精神性を捨象しているのである。だから、言語学とは別に、言葉学が必要であると考えられる。例えば、音声学で言えば、言葉の声のもつ心的波動を捨象して、言葉の声(言声と造語しようか)の同一性の形式の対立、つまり、構造対立だけを扱っているのである。声の差異共振性である心魂性・精神性を捨象して、声の同一性形式・同一性対立構造を扱っている構造主義になっていると考えられるのである。これは、明らかに、近代合理主義の狂気の一環である。狂気の学問である。つまり、声という差異を抽象して、同一性である音声を取り出すのである。そして、音声の二項対立・対立構造を取り出して、体系化しているのである。
 今、論考の不整合について、整理するといいだろう。私は今、声を差異と言い、音声学の音声を同一性と言った。そして、私が言う差異共振性である心魂性とは、声(言声)=差異に存し得るものである。
 言葉(声言)は、観念的知(同一性)と言声(差異)の結合であり、言声=差異には、差異共振性=心魂性を存在し得るのである。
 ということで、試論の不整合を修正すると、先に言った知心言・知魂言としての言葉・声言とは、同一性(知)と差異(声)との結合であるが、両者の結合において、特に、差異(声)に存し得る差異共振性=心魂性が発現した言葉であるということになるだろう。これで、不整合は取り除かれたと言えよう。
 では、ついでに、音声学の同一性主義についてさらに触れたい。これは、差異である声を同一性化して、音声(ないしは音韻)という抽象形式を取り出しているのである。差異=声の同一性化がここにはあるのであり、差異=声を捨象した同一性主義、近代合理主義、近代科学になっているのである。
 この視点から、ソシュール言語学デリダ哲学を考えると興味深いだろう。言葉を同一性(知)と差異(声)との結合であると上述したが、ソシュールは、原観念と原音声との一体化として言語を考えていた。そして、言語における意味するものをシニフィアン、そして、意味されるものをシニフィエと呼んだのは、よく知られていることである。ソシュール構造主義言語学の問題は、シニフィアンを同一性に限定したことである。ソシュールは同一性に基礎をもつ差異をとり出して、その差異の構造を共時性の体系と見たのであるが、基礎は同一性なのであり、その差異とは、同一性の対立・極性なのである。例えば、petとbet におけるpと bとの音韻の相違である。pとbが同形の無声子音と有声子音ということで対立しているのである。この場合、同形が同一性であり、無声と有声が対立であり、この二項対立が構造になっているのである。つまり、同一性における肯定と否定との極性・二元論が構造を形成しているのである。ここでは、pやbの声・言声のもつ心魂性が捨象されているのである。思うに、破裂音であるpやbは、常識的に見て、なにか吐き出す志向性があると言えよう。そして、pの方が軽く、b の方が重いと考えられよう(日本語でも、英語、また、その他の言語でもおそらくそうだろう)。言い換えると、声の心象性が捨象されると言えよう。
 ということで、簡単ではあるが、ソシュール構造主義言語学とは、声を同一性化し、同一性の対立性・二元性を体系化した言語であり、声の差異ないしは心象性が捨象されているのである。
 次に、『声と現象』において、フッサール現象学を批判したデリダを見てみよう。デリダは、声を形而上学の現前が存するものとして批判し、エクリチュールを擁護する。確かに、ソシュールにおける同一性化された声を見る限り、その批判は正しい。つまり、同一性主義(デリダのいうロゴス中心主義)批判として正しい。しかしながら、声に差異ないしは差異共振性を見るならば、途端にデリダの批判は成立しなくなるのである。デリダ哲学の破綻が生じるのである。当然、フッサール現象学批判も成り立たなくなるのである。(これで、簡単ながら、ポスト・モダン批判となる。)エクリチュール擁護論も成り立たなくなるのである。声に同一性主義を見るというのは、確かに、ソシュール言語学に基づくならば正しいが、それは、一面的な、抽象主義的な考えに過ぎないのである。
 では、デリダの痕跡=差延とは何だろうか。それは、簡単に言えば、同一性(声)の表現には、記号という「差異」が必要であるが、その「差異」が痕跡=差延であると言えるのではないだろうか。これは、どういうことかと言えば、観念的同一性に付随する記号表現である感覚的差異の必然性を意味しているのである。これは、プラトニック・シナジー理論(不連続的差異共振論)から言えば、デリダのいう観念的同一性、つまり、同一性主義とは、同一性志向性であり、当然、同一性表現を伴うのである。思うに、同一性主義を+1とするなら、同一性表現は-1であろう。あるいは、逆に、同一性主義を-1とするなら、同一性表現は+1であろう。後者の方がよさそうである。だから、デリダの痕跡=差延とは、実軸上の極性のことであると言えよう。
 これまで、デリダ哲学は、Media Pointの虚軸性=超越性を否定したと述べてきたが、正に、その通りなのである。差延とは、±1の揺らぎに過ぎないのである。それは、ハイデガー哲学の本来的存在と等価であると思われるのである。だから、デリダ哲学の独創性はかなり疑わしいと思われる。ここで、本稿を終える。