差異共振性(双子)と同一性(自我・片割れ):エネルギーのエンテレ

差異共振性(双子)と同一性(自我・片割れ):エネルギーのエンテレケイア(終点)としての父権暴力


テーマ:差異と同一性


先に、民主主義に関して、同一性における差異・特異性の必要を述べたが、それは正しいのであろうか。認識の問題であり、根本的である。
 認識するとき、対象(差異)を初め同一性化(言語化)するように思われる。知覚において、ある対象が存するが、それは、判然としていない。それを同一性化=言語化して把握するのである。そして、言語化とは一種の物質化であると思う。
 しかし、微妙な問題は、差異の排除の問題である。初期知覚(原知覚)において、差異をなんらか捉えていると思われるのである。つまり、認識主体の Media Pointから対象を「知覚」しているのある。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の様相である。差異共振相である。しかしながら、認識主体は、同一性化=言語化へと進展するのである。このとき、差異が排除されるのである。しかしながら、認識主体は、最初は、差異が同一性から切り離されるのを知っていると思われるのである。つまり、認識主体は、自己が、いわば、双子であるのを知っているの思うのである。【自己認識方程式(+i)*(-i) ⇒+1の左辺は双子を意味しているように思えるのである。】
 つまり、初めに、差異共振(双子)ありき、である。その後、言葉が発生するのである。言葉への意志が⇒で、言葉が+1であろう。そして、これが、自我でもあり、また、同一性認識でもある。これは、また、物質でもあろう。【ヨハネ福音書では、初めにロゴス(言葉)ありき、になっているが、それは、ミスリーディングないしは誤りであると考えられる。しかし、ロゴスを理性とするならば、それは、正しいだろう。私は、真の理性は、Media Pointに存すると言っているのである。】
 同一性認識が形成されるとき、自我は、最初は排除した片割れを知っていると思うのであるが、その後、自我が進展すると、それを忘却すると思われるのである。双子であった自己を忘却して、単体の自我であると思い込むのである。自己盲目・無明の発生である。この事態が双子の神話や兄弟殺しの神話に表現されていると思うのである。海幸・山幸、カインのアベル殺し等々である。
 そして、この問題に鏡像が関係してくるのである。ここに哲学的根本問題があると言っても過言ではないだろう。(メルロ・ポンティがこの問題を探求したが、後一歩及ばなかったのではないかと推測される。)思うに、双子は賢者・知者なのである。あるいは、ソフィア(叡知・知恵)である。しかし、それが同一性化=言語化へと向かうとき、双子を否定して、自我知を形成するのである。双子は、無意識となるが、自我知を認識しているのである。つまり、ここでは、自我とは、第三者であろう。ということは、三つ子となるのではないだろうか。それとも、双子を一人と考えて、二人と数えるのか。この問題はおいておこう。
 とまれ、自我中心主義が発生する以前は、差異共振の双子と同一性の自我が存しているのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺の状態が「知覚」されているのである。そして、この自己認識の光学は実に不思議である。本当は、双子が根源的光(超越光)であり、自我が派生した物質的光(ほぼ現象光)であり、いわば、前者が光であり、後者が闇であるが、それが反転して、前者が闇、後者が光となるのである。おそらく、前者が無、後者が有と認識されるのである。(ヤコブベーメ等の神秘主義者が、根源を闇と表現したのは、この反転した様態においてと見るべきであろう。あるいは、三島由紀夫が無と見たものも同様である。仏教の絶対無も同様であろう。)思うに、ニーチェが自身の哲学の光学についてよく述べたいたが、それもこの意味で解すべきであろう。ニーチェの初期のディオニュソスとアポロという概念も同様であると考えられる。
 ここで宗教・神話について触れると、太母神話は、自己認識方程式の両辺を肯定的に残しているのであるが、父権神話は、左辺を否定して、右辺を肯定する力学になっているのである。言い換えると、光学の反転・逆転が生じているのである。価値観の逆転があるのである。
 さて、冒頭で述べた、私説の民主主義批判における、同一性における差異・特異性の問題であるが、これは、結局、これまで述べてきた、超越性と同一性との即非性の問題に帰結することがわかるのである。対象は同一性であると同時に、差異(差異共振性)であるということである。これを、比喩的に、双子認識と言ってもいいだろう。それに対して、同一性・自我の認識を片割れ認識と言ってもいいだろう。とまれ、同一性における差異・特異性の問題はこれで解明されたこととしたい。
 結局、民主主義は片割れ認識しかなく、不幸な認識の状態であると言えよう。それは、自己認識・双子認識していないのである。
 最後に、太母神話と父権神話の力学について、また、検討したい。これは、これまで、百回くらいは論じた問題である。
 結局、どうして、自我は差異共振性を否定するような力学を帯びるのかということである。太母神話・多神教の場合は、同一性(エジプト神話で言えば、オシリスギリシア神話では、アポロ、神道では日御子)が生じても、差異共振性(イシス、ディオニュソス天之御中主神)が顕在しているのに対して、父権神話では、たとえば、バビロニア神話のように、英雄マルクトが、母なる怪獣ティアマトを殺戮して、そこから天地を創造するのである。(聖書では、太母神は、無になっているだろう。)
 いったい、この力学はどこから発生したものなのか。差異共振性(双子)を否定する力はどこから生まれたのかである。父権暴力の発生である。
 私はこれまで、太極原理から説明したが、それでも、判然としていないのである。つまり、理屈にはなるが、解明ではないのである。あるいは、同一性への根源的な傾斜ということで説明したが、それでも、釈然としないのである。
 ここで少し迂回しよう。直感では、父権暴力は、弱さをもっているのである。自己を見つめられないという弱さをもっているのである。だから、ある刺激に対して、反動的に反応するのである。自我同一性をもって反応するのである。つまり、認識主体が、内観が欠落して、外界観察のみなのである。
 ここで、先に述べた、+1が(+i)*(-i)を否定するということを想起して考察しよう。+1とは、自我認識・同一性認識・物質認識・外界認識である。この認識は、(+i)*(-i)を認識できないのである。(ここは、ほとんどカントの純粋理性批判である。カントの理性は、混乱しているのではないだろうか。同一性と差異が混淆しているのではないだろうか。つまり、差異共振知と同一性知が混淆していると考えれる。そこで、アンチノミーが発生すると考えられるのである。もっとも、カントは、Media Pointを同一性論理で捉えようとしたとは言えるのではないだろうか。カントには、即非の論理の発想が全くなかったのである。とまれ、後で検討したい。)+1が優位になったとき、(+i)*(-i)が排除されることになるのである。
 問題は、+1が優位になる力学である。言い換えると、近代主義の力学である。デカルト哲学である。これは、意外に簡単なことなのではないのか。つまり、エネルギーの進展の問題である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、エネルギーの方向性を示しているのではないのか。つまり、左辺から右辺へとエネルギーが流れて、右辺へと帰結するということではないのか。換言すると、エネルゲイア(活動態)がエンテレケイア(終局態)になるということではないのか、ということである。
 そう考えると、父権暴力とは、エネルギーの帰結として発生するということになるだろう。物質暴力と言ってもいいだろう。同一性暴力でもいい。だから、当然、エネルギー様態は左辺から右辺へと傾斜しているということであり、当然、自我同一性は、差異共振性を否定することになると言えるのである。これで説明できた。
 では、父権的自己(自我主義)の弱さとは何か。それは、源泉である差異共振性、即ち、Media Pointを継続して排除せざるをえない状態にあることにあるのではないだろうか。つまり、差異共振性の否定を反復しないといけないと考えられるのである。本源に実存するものを反復的に否定しなくてはいけないである。つまり、一種病理的な状態にあるのである。このために、父権的自己(自我主義)は、仮想敵を必要とするのである。内的な否定・シャドウを投影するのである。(この内的な否定が、ニーチェの言うルサンチマンである。あるいは、ユダヤキリスト教的な憎悪である。キリスト教の愛とは、ニーチェがいみじくも説いたように、憎悪と一如であろう。自我愛=隣人愛とは、差異共振性という共感性を否定しているのである。)
 永遠のエネルギーの源泉であるMedia Point(差異共振性)を否定する父権暴力のユダヤキリスト教西洋文明がようやく終焉しつつあるのであるが、これは、東洋で言えば、儒教的父権文明の終焉であろう。
 新しい太母文明が生まれることになるが、夜明け前の闇は深く、超激震が起こるのである。