同一性中心主義の末路:超越神の真空化と差異共響エネルギーの反動化

同一性中心主義の末路:超越神の真空化と差異共響エネルギーの反動化:差異共響価値創造資本主義:Ver3


超越神の穴について考えて、はやくも行き詰まってしまったので、方便の意味も含めて、視点を変えて考えよう。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、同一性志向性が発生した後の、左辺の状態について考えよう。これまで述べたことを繰り返すと、多神教的意識においては、Media Pointが開放の状態で、両辺がそれなりに知覚されているが、一神教ユダヤキリスト教)的意識においては、Media Pointが閉鎖されて、かつ、それが分化して、左辺が超越神となり、右辺が父権的自我となるということであった。言い換えると、一神教的意識(父権的意識)においては、Media Pointが否定・排除・隠蔽される(抑圧)されるということである。
 後者は、父権的自我ないしは近代的自我の様態であると考えられる。これは、同一性志向性の帰結として、考えられるだろう(あるいは、そのように仮説する)。
 後者の初期においては、超越神・「父」・「天」が、価値として存していた。それは、いわば、超越的価値であり、道徳になったと言えよう。儒教の価値観の根源もここにあるだろう。【思うに、フロイトが言った超自我の根源はこれであろう。】父権的価値である。
 ここにあるのは、二項対立的な、同一性中心主義である。デリダのいうロゴス中心主義である。そして、これが、今日の資本主義を動かしている形而上学的原理である。構造主義的原理である。そう、結局、ポスト・モダン理論は、このロゴス中心主義を解体できなかったのである。デリダ脱構築主義は、実質的には、ロゴス中心主義、すなわち、同一性中心主義、同一性自我中心主義(同一性自己中心主義の方がより正確かもしれない)を脱構築・解体できなかったのである。【私見では、結局のところ、資本主義自体が解体、乃至は、自壊し始めているのである。同一性中心主義が過剰になり、たとえば、サブプライムローン問題を引き起こしたのである。これは、同一性中心主義狂気と考えられる。】
 この同一性中心主義が自壊するというのは、どういうことなのだろうか。超越神・一神教的二項対立(この用語は実は、不正確である。優劣絶対的二元論とでも言った方がいいかもしれない)価値観が支配している。超越神・超越的価値が同一性価値を保障しているのである。つまり、資本主義経済で言うならば、同一性価値である貨幣価値を保障しているのは、超越神・超越的価値なのである。言い換えると、超越神価値がある限り、同一性価値=貨幣価値=交換価値は絶対的に保障されることになるのである。ユダヤキリスト教的価値観が資本主義経済を保障しているのである。【もっとも、ユダヤキリスト教的価値観の世俗・物質的帰結が資本主義経済であると言う方が、論理的であろう。】
 さて、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における一神教ユダヤキリスト教)的力学は、以上述べたように、左辺(超越神)と右辺(同一性)とに絶対的に分離するというものである。そして、Media Pointがそこでは、抑圧されて、隠蔽されているということである(Split Media )。【思うに、西洋文化とは、このユダヤキリスト教文明の表看板とは別に、Media Point的文化を取り戻そうとする志向性をもっていると言えよう。ルネサンスがそうであるし、また、芸術、哲学、神秘学等もそうである。つまり、人類の大根本・根元である東洋文化を取り戻そうとしているのである。双魚宮魚座)文化としての西洋文明である。p.s. トランス・モダン=差異共振文化は、宝瓶宮水瓶座)文化である。新東洋文化期である。】
 ここで多神教的力学を見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を共存させているのであり、Media Pointを中心的価値観としてもっているのである。だから、例えば、神道では、三柱の神(三つ巴)という根本原理が生まれるのである。【つまり、三柱の神(三つ巴)とは、左辺の差異共振・共鳴・共響性を意味するということである。p.s. 因みに、ケルトの渦巻文様には、三つ巴のポリフォニーが見事に見られる。】
 多神教文化とは、ConMedia文化であると言えよう。それに対して、一神教文化とは、いわば、DisMedia文化であろう。問題は、この相違の原因である。母権文化(太母文化)と父権文化の発生力学は何かである。母権力学と父権力学である。
 これまでの考え方では、同一性志向性の最終段階が父権文化であり、いわば、その過程が母権文化(多神教文化)である。言い換えれば、エネルゲイア文化が母権(太母)・多神教文化であり、エンテレケイア文化が父権・一神教文化ということになる。【エネルゲイアとは、エネルギーであり、活動態であり、エンテレケイアとは終局態であり、帰結である。つまり、同一性・物質である。】
 だから、母権(太母)・多神教文化の進展として父権・一神教文化があるということであり、それは、一つのサイクルと考えられるだろう。つまり、あるエネルゲイア(エネルギー)の放出の過程としてのサイクルであり、父権・一神教文化において、終焉するということであり、また、新たなエネルゲイア(エネルギー)の発生・発出・放出が考えられるということである。つまり、新たな母権(太母)・多神教文化が誕生するということである。
 この母権/父権文化のプロセス・サイクルであるが、これまで、私は、太極原理が根本にあると考えてきたのであり、太極原理のもつ螺旋的回帰性を考えているのである。【ここで少し言うと、占星術・占星知は、この太極原理と関係していると推測しているのである。これは、これで、また、大研究を必要とするのである。】とりあえず、以上で、母権文化と父権文化の力学を統一的に説明できるのである。
 そのように統一的に、即ち、太極原理の視点から見ると、当然、父権文化は解体することがわかるのである。正に、自然(じねん)である。これを自然(しぜん)と見ることは、完全な誤りである。これは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。無為自然(むいじねん)の自然である。
 ここで、所期のテーマにもどると、超越神の穴・空虚・影・闇はどういう力学をもつのか、という問題である。太極原理から見ると、明らかに、それは、エネルギーを喪失したのであり、もはや、そのあり方、即ち、父権・一神教文化の様式からは、新しいエネルギーは生まれないということを意味する。父権・一神教文化のエネルギーの枯渇が生じているのである。そして、この真空は何を意味するのかということなのである。真空はどういう力学をもつのか、ということである。それは、価値観の根拠の喪失である。つまり、既成価値の無価値化である。つまり、同一性価値の無価値化である。同一性価値・貨幣交換価値の無価値化である。【p.s.  同一性価値の無価値化と言ったが、手段としての同一性価値は当然残るであろう。差異共響価値資本における量的計算は同一性価値=貨幣に拠るだろう。】
 また、恐怖の情動が生起するだろう。そして、内なる闇(シャドウ)を外界へと投影して、仮想敵を作るだろう。たとえば、悪魔としてのイスラム過激派(アルカイダ)である。
 問題は、真空自体の力学である。それは何か。思うに、同一性価値を固持するための衝動・情動が起きると思われるのである。もはや、超越的次元からは、創造的エネルギーが発生しないから、同一性価値固持・維持のための「力」をどこからか必要とするのである。いったい、どこから、その「力」を得るのだろうか。その衝動・情動の発生はどこからなのだろうか。
 推察するに、それは、永遠のエネルギーの源泉であるMedia Pointから発する差異共響エネルギー(差異共振・共鳴・共感・共心エネルギー)の突き上げからではないだろうか。当然、反動エネルギーとなっているのである。【差異共響エネルギーを純粋に取り込むには、同一性価値自体が解体する必要があるのである。つまり、自我(近代的自我)自体が解体して、差異を受容する自己(自己身体)へと変質する必要があると考えられるのである。差異共鳴身体へと変容させる必要があるのである。しかしながら、同一性は同一性であり、それは、必然的なものなので、同一性を包摂する差異共響性が必要である。(この点は既述済みなのでここでは説明しない。)p.s. 同一性自己を差異共鳴身体へと変質させる仕組みについては後で説明したい。同一性と差異共鳴身体との融合である。】
 Media Pointから発するエネルギーを自己同一性主義は、いわば塞止めているのであるが、しかし、それ自身は枯渇しているので、その他者の差異共響エネルギーに突き上げられ、衝動・情動に突き動かされるのである。つまり、非合理主義化がそこにはあるのである。これが狂気なのである。
 自我はもともと優越感をもっているので、狂気と傲慢さが混合した複合的な病理状態になるのである。うつ病パラノイア、「分裂症」等の複合的な病理症状となるのである。端的に、自我の精神病化である。
 とまれ、超越神の空虚化とは、結局、Media Pointの差異共響エネルギーを反動化させた非合理主義・狂気衝動を近代的自我にもたらすものであるということになった。これがある意味でポスト・モダンの様態である。自我の精神病化である。
 Media Pointのエネルギーが活火山の如く、「どっどど、どどうど、どどうど、どうど」と活動しているのであるが、それを自己同一性は塞止め、その反動エネルギーで狂気化しているのである。言い換えると、同一性価値への非合理主義的衝動・情動が生起するということである。つまり、貨幣交換価値への見境のない衝動が生じるのである。狂気の貨幣交換価値への衝動が生まれるのである。それが、マネー・ゲームでありサブプライムローンである。狂気の同一性中心主義である。
 狂気の同一性中心主義(金融資本自由主義)は、社会・自然・文化を破壊する。それは、いわば、人類・地球世界のガン細胞である。
 結局、Media Pointの純粋差異共響エネルギーを肯定することになるのではあるが、それ以前に、倒錯同一性中心主義はどうなるのだろうか。過度の冷酷無残凄惨陰惨な格差・狂気・犯罪・戦争等々をもたらすだろう。しかし、ポスト・モダン資本主義自体にどのような影響を与えるのであろうか。
 簡単に言うと、差異価値から同一性価値を引きだしている資本主義システムであるが、「狂気」の同一性中心主義は自身の母体である差異価値を破壊して、自壊することになると考えられるのである。正に、ガン細胞さながらである。エントロピー増大である。
 結局、過剰な同一性価値から差異価値へと還流させる差異共響価値経済が必然であることになると考えられるのである。差異共響価値投資が中心化されると考えられるのである。これは、差異共同体価値投資ということである。
 そう、同一性資本主義から差異共振資本主義への転換である。トランス・モダン・キャピタリズムである。


p.s. 差異価値から同一性価値へと変換するのが資本主義ならば、同一性価値を差異価値へとフィードバックする差異共振経済とは、資本主義を乗り越えたものと考えられるので、トランス・キャピタリズムである。超越資本主義である。