「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義)

「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義


テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築


グローバリゼーションによって、独立(sovereign)国民国家に取って代わって、「市場国家」が出現しているという考えをフィリップ・ボビット(米国英語なら、バビット)が述べているということであるが、どうだろうか。
 自由主義的発想であるが、これは、私見では、巨大資本主義的自由主義であり、大資本・中小資本は、淘汰される可能性が強いものである。私は、民主主義的自由主義ないしは共同体主義自由主義を唱える。しかも、トランス・モダン民主主義的自由主義、トランス・モダン共同体的自由主義である。
 だいたい、イラク占領を肯定しているというのが、間違いだと思う。いかにもアメリカ主義的巨大資本主義的自由主義である。
 問題は、民主主義の理念にある。それを、近代主義のままにすると、形式主義を免れない。普通選挙を行い、代議制を敷くのである。これは、形式的な民主主義的法制を意味するのであり、民主主義の実質が巨大資本的自由主義に破壊されるのである。だから、トランス・モダン民主主義的自由主義である。
 トランス・モダン民主自由主義(共同体自由主義)とは、個・差異・特異性の立場に立って、自由な共同体を創造・構築することを目指している。だから、巨大資本的自由主義に対しては、政治的規制を設けることになるだろう。そして、自由共同体資本への転換を促すものである。だから、政治の独立機能が重視されるのである。
 このためには、哲学が必要である。近代主義を乗り越えた哲学である。それを基本にしたトランス・モダン政治が一つのセンターとなると考えられる。
 自由主義経済中心主義から、自由共同体政治経済主義へと転換するのである。簡単に言えば、経済中心主義から政治経済主義への転換である。近代経済主義からトランス・モダン政治経済への転換である。
 
War Plans

By NIALL FERGUSON
Published: April 13, 2008

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In his last book, “The Shield of Achilles” (2002), Bobbitt advanced a bold argument about the history of international relations since the time of the Treaty of Westphalia (1648). His central argument was that, in the aftermath of the cold war, the traditional post-Westphalian ideal of the sovereign nation-state had become obsolescent. In the increasingly borderless world we associate with globalization, something new was emerging, which Bobbitt called (and continues to call) the “market-state.” This state’s relationship to its citizens resembles that between a corporation and consumers. Its counterpart ― and enemy ― is the terrorist network. The central problem raised in “The Shield of Achilles” was how far the market-state could and should go to defeat such networks, particularly when they were in some measure sponsored by traditional nation-states.
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http://www.nytimes.com/2008/04/13/books/review/Ferguson-t.html?_r=1&8bu&emc=bua1&oref=slogin


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検討問題:諸テーマ

テーマ:検討問題

1)人法という発想:自然法に近いと思うが、単純に言えば、言葉に文法があるように、人間においても、人法があると考えられる。思うに、人法を、これまで、人類はさまざまに解釈してきたのではないだろうか。宗教であれ、神話であれ、掟であれ、哲学であれ、芸術であれ、道徳であれ、倫理であれ、叡知であれ、法典・法律であれ、科学であれ。
 問題は、カントの純粋理性と実践理性の乖離にあるだろう。PS理論の差異共振理性(差異共振合理性、差異共振知性)は、理性を統一するので、純粋理性も実践理性も、それに包摂されることになると思われる。
 思えば、カント哲学は、自我主義と自己主義に分裂しているのである。本来は、自己を基盤とする自我を構築するべきなのである。とまれ、近代主義がはっきりそこには見られると言うべきであろう。

p.s. 先ほど、人理という言葉が浮かんだ。考えたら、どうして、これまで、人法もそうだが、この言葉がなかったのか不思議である。仁義、人道、人徳、人情等では、今日では、いかにも古風である。人文科学とは、人理学ないしは人法学となるべきである。これに基づいて、諸宗教、政治理念等を批評できるようになるだろう。例えば、イラク戦争は、イラク民主化という大義があるが、しかし、人理・人法の見地から見たら、それは、明々白々に邪道・邪悪である。
 
2)同一性の原形ないしは基盤とは何か:同一性の鏡像とは何か:競争とは何か。つまり、自己同一性主義=自我主義の同一性の基盤となる同一性構造があるが、同一性鏡像とは何か。
 
p.s. 問題は、差異を劣位を置く同一性主義の優越主義の力学を再考したい。

3)宗教と差異共振理性の関係について:「神」・「仏」とは、人法なしいは、生命法、魂法の、連続的表現に近いのではないのか。

4)Media Pointと身体との関係について

5)トランス・モダン・キャピタリズム:差異共振的資本主義とは何か。同一性金融資本と差異共振金融資本。差異共振価値のための金融資本。

6)-1の問題。

7)近代教育からトランス・モダン教育へ:同一性主義教育から差異共振教育へ:個としての魂や精神の導入

8)近代主義的細分化・専門分化とトランス・モダン的総合:前者は何がもたらしたのか。これは愚問だろう。近代主義のもつ経験現象世界のもつ客体性がもつ多様性において、知を精緻にするために、起ったと考えられる。
 ここにおいて、フッサールの『危機』が重要な論考である。つまり、連続的同一性化された対象、すなわち、同一性=物質=数量=客観性を基礎として、諸科学が構築されたのであり、差異=精神=質=主観性への探求が忘却されたと言えよう。
 ポスト・モダンは、その延長にあると言えよう。フッサール現象学であるが、以前指摘したが、二重性をもっているのである。思うに、差異共振性を直感していたが、それを同一性の概念で説明しているように思われるのである。生活世界がその直感の概念化だと思うが。
 換言すると、フッサールは、Media Pointの作用を直感していたが、それを理論的には、十全には捉えていなかったと思う。ついでに、ハイデガー哲学について言うと、存在は、メルロ=ポンティが明らかにしたように、身体存在と見るのが正しいように思える。
 どうも、-1が身体存在ではないのか、という思いつきが浮かぶ。+1が自己同一性=自我である。Media Pointが自己=個=差異=魂=精神である。だから、身体ないしは存在は、-1ではないだろうかと思えるのである。また、無意識も-1ではないだろうか。
 先に試行錯誤したように、+1が光ならば、-1は闇である。西洋哲学は、前者中心であり、19世紀後半からようやく、闇の存在を対象とするようになったのではないのか。
 しかし、-1を身体存在としたとき、物質身体との関係はどうなるのか、ということがあるだろう。しかしながら、それは同じではないだろうか。
 さて、フッサールハイデガーに戻ると、前者は、合理性の根拠を追求したのであり、根源的合理性を超越論的主観性に求めたと言えよう。しかしながら、超越論的主観性とは、Media Pointにおける同一性志向性であり、Media Pointの超越性には達していない。しかし、微妙なことは、繰り返しになるが、フッサールの直感においては、Media Pointは開いていたと思われるのである。だから、間主観性や生活世界の発想が生まれた思われるのである。
 ハイデガー存在論は、西洋哲学の合理主義的志向性によって看過されてきた「存在」を提唱したこととなっているが、ハイデガー哲学の暗さは、やはり、-1の闇から来ているのではないだろうか。
 そうだとしても、ハイデガーは、フッサールが直感したと思われるMedia Pointを外していると思う。そして、想像では、後期ハイデガーは、今度は、実軸を否定した虚軸だけの存在性を説いているように思えるのである。いわば、前期が水平軸のマイナスを説き、後期が水平軸を無視した垂直軸の様相を説いているのではないのか。【p.s. 思うに、後期ハイデガーは、-1の存在(身体)の闇からMedia Pointの開きを垣間みたのかもしれない。】

p.s. あるいは、-1において、神秘主義、オカルト主義のように「光」を考えているのかもしれない。闇の中の光である。それは、実は、Media Pointのことである。身体的霊性である。
 
9)死について:イデア(=「魂」)を考えると、死とは、純粋イデアないしはデュナミスとしてのイデアに復帰・回帰・再帰することと考えられる。言い換えると、生とは、イデア(=「魂」)の現象相なのであり、死とはイデア(=「魂」)の純粋相であると考えられる。プラトンが説いたように、魂は不死である。つまり、魂の純粋相(原形相)と現象相の二相の循環があり、それが螺旋的回帰していると思われるのである。そう、ニーチェ永劫回帰である。ただし、ニーチェの反復は、現象相に傾斜していると考えられる。
 イデア界=「魂」界と仮象界としての現象界の複合体としての総合界があると言えよう。
 そうならば、問題は、知や認識や感覚・知覚等のことである。知や感覚の主体とは何か。PS理論は、イデア的主客論であり、イデアには、認識作用があると考えている。原ノエシス/原ノエマである。すると、差異だけでなく、同一性の認識もイデアが行っている可能性はあるだろう。
 例えば、「わたし」の認識であるが、それは、イデアに基盤があるのではないだろうか。そうならば、現象での認識も永遠である。

10)自由主義経済とは、グローバル経済では、詰まるところ、巨大資本主義的自由主義であり、大資本、中小資本にとっては、淘汰される自由主義である。結局、資本の多寡が権力となっているのである。もっとも、単に量的なものだけでなく、巨大資本とは、質的な価値においても、大資本・中小資本を凌駕しているのである。この点をどう見るのか、である。