ハイデガーの本来的存在について:+1と-1とゼロとMedia Point:トラ

ハイデガーの本来的存在について:+1と-1とゼロとMedia Point:トランス・モダン


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


今は余裕がないので、簡単に触れると、ハイデガーの現存在は、+1の共一性における同一性を意味するのではないだろうか。問題は、本来的存在(以下、本存在)である。それは、Media Pointと+1の境界に位置するように思える。Media Pointにおいて、超越性から同一性への展開するが、そのとき、Media Point の超越性の扉が閉じていて、その閉じた扉から同一性(現存在)が発現すると考えられるので、本存在とは、その閉じた扉である。いわば、原同一性である。⇒ の先端ではないだろうか。やはり、ゼロなのではないだろうか。このゼロ、±ゼロが本存在ではないだろうか。超越性・虚数なきゼロ、±ゼロ。簡単にするため、ゼロで考えよう。
 ゼロから+1が生起するのではないのか。しかし、私は、先に、+1は共一性であると言った。自己=他者=同一性ではないだろうか。そして、これが、現存在ではないだろうか。そうすると、先に述べたように、ハイデガー存在論は、ゼロ(本存在)⇒+1(現存在)となるだろう。今は、ここで留める。
 
(続き)
 『存在と時間』では、ハイデガーは時間性を、現存在を超越するものと捉えている。だから、本存在は、+1ではありえない。とは言え、本存在は、 Media Pointではない。だから、やはり、考えられるのは、Media Pointと共一性+1との中間ないしは境界ということである。
 そうすると、やはり、⇒の先端ということになるのではないだろうか。それがどうも適当なように思える。フッサール現象学は、Media Pointである⇒を取り出したのであるが、ハイデガーはMedia Pointである⇒の先端を本存在として取り出したと思われるのである。
 思うに、この⇒の先端は奇妙な性質をもつだろう。ゼロないしは無から発現するようにして、原同一性、原自我が存するように思われるのである。一種の即非性がここにあるように思われるのである。即ち、ゼロでありつつ、+1であるということである。当然、+1が現存在ないしは世界内存在である。
 ハイデガーが時間性を超越的というのは、ゼロが+1を超越しているということを意味しているのではないだろうか。一種の超越的内包点としてのゼロをハイデガーは考えていたのではないだろうか。
 このゼロを本存在ないしは存在と考えるのは、理解できることである。なぜなら、+1が自己同一性認識と考えられるからである。自己同一性認識以前のものとして、存在を説いたと考えられるのである。確かに、認識を同一性に限定すれば、ゼロは前認識となるだろう。そして、それを存在と名付けるのは、それなりに理解できることである。
 しかしながら、既述したように、ハイデガーは真の超越性を否定しているので、つまり、(超越的)差異共振性(差異共鳴性)を否定しているので、超越的認識があるのを理解できなかったと考えられるのである。
 以上の試論的考察から、ハイデガー存在論は、数理的には、ゼロ⇒+1と表記するのがやはり適切であるように考えられるのである。繰り返すが、ゼロが本存在(本来的存在)であり、+1が現存在(頽落した存在)ないしは世界内存在である。そして、ゼロと+1は確かに、亀裂があり、不連続である。それを確かに、ハイデガーは指摘している。
 ということから、ここで、(一応、あらためて、)ポスト・モダン哲学について考察してみたい。
 その前に、前提として、-1と+1について整理しておきたい。+1は共一性ないしは同一性である。それに対して、-1は同一性主義ないしはロゴス中心主義である。近代で言えば、近代合理主義・近代的自我に当たる。
 ドゥルーズ哲学について言うと、それは、-1の同一性主義(「プラトニズム」)に対して、連続的差異の思想を提示した。それは、直感では、ゼロの思想である。ハイデガーの場合は、ゼロと+1との亀裂があったが、ドゥルーズの場合は、+1を排除して、差異をゼロに収斂させている。そうすると、実は、同一性がなくなるのであり、その結果、一種のオカルト主義になるのである。神秘主義になるのである。現象の同一性を排除してしまっているからである。だから、ドゥルーズは、ハイデガーから後退しているのである。
 それに対して、(初期)デリダについて言うと、私見では、ほぼ、ハイデガーを踏襲しているように思われるのである。とまれ、ロゴス中心主義とは、-1の同一性主義のことである。それに対して、差延とは、同一性である+1に関わるゼロの痕跡のことではないだろうか。同一性+1に対して、ゼロという「原点」が、言わば、つきまとうのである。このゼロのつきまといが、差延ではないだろうか。言い換えると、脱構築とは、ロゴス中心主義=同一性主義(-1)に対して、ゼロ⇒+1というゼロと同一性の亀裂を差延ないしは痕跡というアンチテーゼとして提示した理論のように思えるのである。つまり、ハイデガーがゼロ(本来的存在)と同一性(現存在)との亀裂というものを、(初期)デリダは、差延ないしは痕跡として提示しただけのように思えるのである。つまり、(初期)デリダハイデガー存在論エピゴーネンではないだろうか。
 以上、簡単に、ドゥルーズと(初期)デリダについて見た。ここで、後期デリダに簡単に触れると、彼は、ゼロを脱して、ニーチェキルケゴールの特異性、絶対的差異について、ハイデガー=初期デリダを乗り越えたと思われるのである。つまり、後期デリダは、既述したように、トランス・モダンになったと考えられるのである。
 そのように系譜的に考察すると、不連続的差異論は、後期デリダ(とジャン=リュック・ナンシー)のトランス・モダンを、鈴木大拙即非の論理を基盤にして、発展させた理論であり、プラトニック・シナジー理論は、それに超越的共振性を与え、且つ、それを数理化した理論であると言えよう。