一神教とは何か:新自由主義とは何か:新地球文明へ向けて

以下は、オリジナルは、2005年10月15日付けのものです。

不連続的差異論入門(23回?)
一神教とは何か:新自由主義とは何か:新地球文明へ向けて


一神教を不連続的差異論から整合的に説明する必要がある。これまで、何度も、試論を行ったが、今一つ、一貫性が足りないようだ。
 そう、折口信夫の『死者の書』に関連して調べていたら、平田篤胤は、キリスト教の影響を受けて、一神教の要素を取り込んだと言う。だから、国学が、明治維新イデオロギーになったとするなら、天皇制は、キリスト教一神教の影響を受けていると言わなくてはならない。多神教は否定されたと言えるだろう。今日、日本文化が多神教であるというのはあまりにもノウテンンキな話である。
 旧約聖書は、当然、ユダヤ民族と結びついている。そして、天皇制は、近代日本国民国家と結びついている。一神教国民国家との結びつきがあるのではないか。カトリックは、国際的であり、国民国家的ではない。一神教とは言え、カトリックは、純粋に一神教ではない。それは、地中海沿岸の異教、女神教、多神教が濃厚に入っているだろう。イエスも、ヤハウェというよりは、女神の子供である(ピエタ、イシス/オシリスピカソの『ゲルニカ』の牡牛は、女神の聖獣である。また、ダリの妻/「聖母」の絵画。)
 ここで、一神教国民国家ないし民族主義ナショナリズム)との結びつきという命題を仮説しよう。一神教民族主義は、多神教を排斥するが、何故だろうか。多神教は、簡単に言えば、多元主義的であるから、一神教=一元論にとっては不都合である。「国」の危機において、「民族」の危機において、一神教が喚起されるのではないだろうか。ユダヤ民族の危機。日本民族の危機。つまり、集合化する必要があるときに、一神教が形成されるのだろう。プロテスタンティズムは、正に、一神教的であり、ナショナリズム的である。近代国家のベースにある。アメリカ合衆国という集合は、プロテスタンティズムをベースにしている。独立宣言を見よ。
 結局、この命題を不連続的差異論から分析しないといけない。以前、私は、自我とナショナリズム国民国家主義)が結びついていると考えた。(デカルトのコギトは、自我ではなくて、個、単独者、特異性と見るべきである。後で、「エゴ」の問題を検討しよう。)もし、特異性の個体ならば、ナショナリズムを脱するのである。しかし、自我という個体ならば、ナショナリズムに染まる。何故かといえば、自我とは、連続・同一性の一種であり、それは、アイデンティティ(同一性)を求めるからである。そして、アイデンティティは、民族主義に向かうと考えられるのである。「わたし」のアイデンティティは日本人である。もう少し、丁寧に見ると、この同一性の原動力を見ないといけない。これは、不連続綺差異論のメディア界のもつ連続・同一性の志向性と見ることができるのではないだろうか。メディア界は、差異があるが、それは、連続的差異であり、一者に収斂するのである。この一者が、民族主義と重なると言えるだろう。
 そのように考えるならば、一神教は、やはり、メディア界の連続・同一性の志向性に関わると言えるだろう。先の考え、一神教とはイデア界の垂直主義であるという見方は、放棄・破棄しないといけないだろう。元へである。多神教は、イデア界とメディア界の境界に基礎があるのではないか。そして、一神教とは、メディア界と現象界の境界に基礎があるのではないか。これは、カントの超越論的形式と等価となるだろう。天地創造は、天と地との分離であり、これは、二項対立(ヒエラルキー)的であり、やはり、自我と関係するだろう。つまり、以前述べたように、自我とは反動性である。それは、イデア界への反動である。つまり、イデア界を排出・隠蔽するのである。そのため、自身は、優越主義となるのである。ここで、優劣の二項対立(ヒエラルキー)が生じるのである。以上のように、自説を訂正したい、というか、元へ戻したのである。
 では、この論理を新自由主義に適用してみよう。それは、やはり、自我主義であるが、問題は、ナショナリズムインターナショナリズムの中間体であることである。この点が、新しいと言えるのではないだろうか。自我/ナショナリズムは、近代主義である。しかし、新自由主義は、インターナショナリズムであり、国家主義ではない。つまり、国民・国家主義ではないということである。注目すべき点は、民族主義と国際主義が結びついていることである。つまり、国民・国家主義という近代主義を、言わば、否定して、民族主義的国際主義となっていることである。(靖国参拝は、国民国家主義というよりは、民族主義であろう。)
 これは理論的にはどういうことなのだろうか。資本主義は、今や、地球資本主義(グローバリゼーション)であり、「帝国」であり、「閉鎖系」である。国民国家という近代主義が終焉したのである。ポスト近代主義、ポスト国民国家である。つまり、国際的民族主義の時代になっているだろう。国家は、この機関に過ぎないだろう。地球資本主義の「地域」的法的機関としての国家に過ぎないだろう。では、この地球資本主義の国際的民族主義とは何か。それは、確かに、自我主義ではあるが、近代的自我主義ではない。(思うに、文学が衰退したのは、このことと相関である。近代主義と文学が結びついていたのである。このことも後で検討。)ポスト近代的な自我主義とは言えるだろう。それは理論的には何か。それは、近代的自我が、メディア界/現象界という構成ならば、メディア界自体を否定した、現象界中心主義であろう。つまり、感情を排除して、現象界的資本主義的利潤に忠実であるということだろう。簡単に言えば、拝金主義の貫徹である。マモンの支配である。否、現象界中心主義というよりは、利潤的抽象性に忠実なのである。資本主義の完成であると言っていいだろう。ということは、当然、ポスト資本主義の契機が出たことである。これは、そう、マルクスの『資本論』の世界の完成とも言えるだろう。交換価値の勝利である。(ここで、使用価値=差異価値の問題は置いておく。)つまり、カントの超越論的形式の支配なのである。これは構造の世界である。現象界的ではない。つまり、図式化すれば、イデア界⇒メディア界⇒現象界の志向性が近代主義とすれば、現象界⇒メディア界と反転したと言えるだろう。すると、このポスト近代主義の動きは、加速して、さらに、メディア界⇒イデア界となるはずである。原点回帰のなるはずである。らせん的回帰となるはずである。このような意味を新自由主義、国際的民族主義はもっていると考えられる。これは、不連続的差異主義の方向である。資本が不連続的差異化される。それは、新たな創造を意味するだろう。不連続的差異資本である。それは、私見では、ポスト資本である。ここにあるのは、純粋な国際主義であり、ポスト民族主義であろう。ということは、ポスト国際主義である。つまり、世界主義、コスモポリタニズムの新生となるだろう。新しいヘレニズムである。地球主義である。宇宙主義である。コスモス主義である。(D.H.ロレンスのコスモス論とは、おそらく、ここに達しているだろう。)これは、新しい古代である。らせん的回帰である。また、前古代的である。前アーリア民族的文明、母権・女神的文明の新生である。新地球文明の誕生である。



参照:平田篤胤
平田篤胤
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

平田篤胤 凡例
平田篤胤
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平田篤胤
時代 江戸時代 後期
生誕 安永 5年8月24日 (1776年 10月6日 )
死没 天保 14年閏 9月11日 (1843年 11月2日 ))
別名 大壑、大角、気吹乃舎、真菅乃屋
神号 神霊能真柱大人
備中松山藩
父母 大和田清兵衛祚胤、平田篤穏
妻 織瀬、織瀬
子 鉄胤 、千枝、他

平田篤胤(ひらた あつたね、安永 5年8月24日 (1776年 10月6日 ) - 天保 14年閏 9月11日 (1843年 11月2日 ))は、江戸時代 後期の国学者神道家。号は気吹舎(いぶきのや)、真菅乃屋(ますげのや)。

秋田藩 士の四男として生まれ、成人してから備中松山藩 士の兵学者平田篤穏 の養子となる。本居宣長 らの後を引き継ぐ形で儒教 ・仏教と習合した神道 を批判し、その思想は後の神仏分離廃仏毀釈へと結びついてゆく。文献研究を超えた独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。異界に大きな興味を示し、死後の魂の救済をその学説の中心に据えた。また、篤胤の独自の宗教観に基づき、当時としては珍しく仏教 ・儒教道教蘭学キリスト教など、さまざまな宗教も進んで研究分析していたようで、ラテン語の教養まであったようである。篤胤の学説は学者にのみ向けられたのではなく、庶民にも向けられた。一般大衆向けの著作を記しており、町人・豪農層の支持を得て、国学思想の普及に貢献した。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的な志向を示す彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。 荷田春満賀茂真淵本居宣長 とともに国学四大人(うし)に位置付けられる。

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生涯

1776年(安永5年)8月24日に秋田佐竹藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の4男として現在の秋田市に生まれる。養子になる25歳までの事蹟ははっきりしない。現存する史料から推察するに、不幸な幼年期を送ったらしい。のちに懐古するに「己は何ちふ因縁の生れなるらむ」(『仙境異聞』)と述べている。両親に育てられなかったとも述べているがどういう意味なのかははっきりしない。父親からは、頭が悪く、落ちこぼれと見なされて、出仕することを許されず、雑用をさせられていたという。20歳になったばかりの1795年(寛政7年)1月8日に郷土を出奔し、江戸にでる。

無一文同然で江戸に出た篤胤は、生活難と戦いながら、勉学に勤めていた。25歳の1800年(寛政12年)に備中松山藩藩士で代々江戸在住で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の養子となる。翌年には織瀬と結婚する。


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思想
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古代研究
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幽冥論
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主な著書