不連続的差異論入門:その6

再考:生体内のエネルギーの消費と補給とは何か:メディア界と脱メディア界的指向

先に、差異連結の強度が消耗して、新たな強度を補給するために、食べると述べました。それでは、この強度の消耗と再生とは、どういうことなのでしょうか。この点を、考察したいと思います。
 もう一度、メディア界の形成について見ますと、イデア界にある不連続な差異が1/4回転して、連結化します。これは、差異と差異の境界がゼロのように「見える」領域であり、本当は決してゼロではありません。だから、メディア界ないしメディア的連結と言ってもいいのです。そして、この連結には、強度があるのです。ここで、考えるべきことは、メディア界を形成する力は、イデア界の力です。これを、虚力と私は呼んでいます。差異は虚力とともに、回転して、メディア界を形成するのです。ですから、メディア界の強度とは、虚力によるといえます。そして、虚力とは、いわば、永遠不滅のものです。原力(元力)です。そして、この虚力ないし原力は、メディア界を形成したり、解体したりします。本理論の合作者のODA ウォッチャーズ氏は、順列エネルギーにおいて、エネルギー保存則を見ています。即ち、順列形成に使用されるエネルギーに対して、それをいわば打ち消すマイナスのエネルギーが作用するということです。つまり、作用と反作用の関係です。ですから、プラス・順列エネルギーとマイナス・順列エネルギーがあり、両者、打ち消し合います。喩えていえば、有が発生すれば、それを打ち消す無が発生するということです。メディア界の強度とは、極性力±、あるいは、⇔です。では、それを打ち消すマイナスの強度、マイナスの⇔をどう見ればいいのでしょうか。
 ここで、私は、作業仮説として、イデア界において、不連続的差異は、ガウス平面を回転すると仮定します。そうしますと、1/4回転、90度回転から、さらに、1/2回転、180度回転へと展開します。このとき、もはや、メディア界は、消えています。メディア界はゼロの状態になっています。しかし、これは、虚軸が、ゼロになっているだけですが。とまれ、イデア界の回転により、即ち、虚力により、メディア界は解体されることになります。この脱メディア界の力が作用して、差異連結やその強度が解消されるのだと想定できます。これが、消耗、消費ということだと思います。ですから、生体内において、差異連結という生体の「部品」は解体消滅します。この自然消耗した「部品」を補給することが、食べることと考えることができます。
 ここで、注意しておきますと、「部品」とは、必ずしも、身体だけではありません。精神、知性、知力も入ります。それら思考力も、「エネルギー」であり、消費されるのです。(ここで、正確に言えば、身体や精神とは、メディア界の発現であり、現象界的に二分化しているのに過ぎないと言えます。両者は、メディア界においては、差異の連結として、表現されます。差異の連結の複合体における現象として、身体や精神に二分化されるということです。)
 ということで、メディア界形成があり、メディア界の解体作用があるということになりました。この脱メディア界作用によって、差異連結は消耗し、それに対して、生体は、食べるという行為する必然性があります。ここで、角度を変えて見てみますと、この脱メディア界作用とは、死への指向・志向と言えるでしょう。あるいは、簡単に言えば、老化です。精神分析フロイトは、死の欲動という考えを晩年導入しました。生の欲動である性的欲望(エロス)と対蹠である欲動です。(欲望と欲動の違いは、前者が、差異連結によるものであり、後者は、差異連結を形成したり、解体するものということになります。)この死の欲動とは、脱メディア界的指向として把捉できるでしょう。(自殺願望とは、差異連結の欲望を充足できないという点ともう一つ脱メディア界の欲動の点の両面があるのではと思います。この点は、後で検討します。)そして、脱メディア界的指向(虚力)は、生体的には、死への指向ですが、感覚・意識・認識・精神的には、イデア界への指向でしょう。例えば、精神世界や宗教への指向は、その発露だと思います。深層心理学者のユングの説く無意識(アニマ、アニムス、普遍的無意識等)も、このことの解釈だと思います。(また、この点から、一神教の問題を、後で、見てみたいと思います。)林住期とか遊行期とかいう考え方もこれによると思いますし、芭蕉の有名な『奥の細道』の冒頭の「道祖神の招き」もそうだと思います。ということで、脱メディア界的指向とは、これまでの別領域にあった概念を包括・包摂する概念になると思います。
 結局、生体における「食べる」ことのシステムを考察していくことから、人間の精神の深い動きまでもとり出すことができたようです。これは、実に興味深いです。「食べる」という形而下的なものが、形而上的なものに通じているということは、実に生命の不思議と言うべきだと思います。造化の不思議とも言えます。いろいろなことが想起されますが、イギリスの思想家的作家D.H.ロレンスの性の思想も、ここの視点から解明できるでしょう。『チャタレイ夫人の恋人』は猥褻な書物と判決を受けたままです(チャタレイ裁判)。欧米では、とっくに、猥褻性は否定された判決が出ています。とまれ、ロレンスの性の思想とは実に宗教的です。宇宙・コスモス的です。性とは、差異連結の欲望ですが、ロレンスは、これをメディア界において捉えています。そして、そのメディア界は、確かに、宇宙・コスモス的になります。しかし、ロレンスは、さらに宗教的です。これは、メディア界のイデア面として私はこれまで考えてきました。しかし、脱メディア界的指向を考慮すると、ロレンスの性の思想とは、この指向を強くもっていたと考えることができます。すなわち、イデア界的指向をもった性の思想であるということです。これは、性とは何かという人間存在の基本問題の一つにつながる重要なことに関係します。これは後で、検討したいと思いますが、ここで、簡単に触れますと、性欲とは、性的快感とは、過度に強度的です。エクスタシーです。それは、メディア界の差異連結総体に関わる事象と言えるでしょう。つまり、連続・同一性の現象を一種解体する短時間的動きです。とまれ、性的欲望とは、単に性器的欲望ではなくて、メディア界的欲望総体に関係するということだと思います。これは、メディア界形成の力と関係するでしょう。つまり、イデア界の1/4回転の虚力です。この虚力が、メディア界やその強度を形成しています。つまり、メディア界とは、1/4回転の虚力を意味します。強度もそうです。では、このメディア界総体に関係する性的欲望とは、実は、1/4回転するイデア界の虚力に通じます。そして、この虚力は変容して、脱メディア界的指向の虚力となります。すなわち、イデア界を指向するのです。すると、性的欲望とは、イデア界的指向をもつこととなるでしょう。つまり、性的欲望とは、いわば、宗教的、精神世界的指向をもつことになります。(密教やタントラはこの機微に通じているのでしょう。)このイデア界の虚力を、ロレンスの性の思想を指していると思われます。性は、神仏に通じるのです。つまり、ロレンスの性の思想は、メディア界的宇宙論(マクロコスモス)と同時に、脱メディア界的指向(宗教・精神世界的指向)をもっているということになります。
 長くなりましたが、もう一点指摘します。それは、このイデア界における不連続的差異の回転のことです。これは、1/4回転、90度回転から、1/2回転、180度回転へ、さらには、3/4回転、そして、4/4回転へと進展して、回帰します。これは何を意味するのでしょう。ドゥルーズ的に言えば、差異の反復ですし、ニーチェ的に言えば、永遠回帰です。思う、D.H.ロレンス的に言えば、復活、肉体の復活ということです。「死んだ男」=イエスの復活です。思うに、これは、一種の輪廻転生だと思います。以前、輪廻転生を否定しました。しかし、今回の考察によるならば、差異が回帰するのは事実です。差異回帰、これは何を意味するのでしょうか。これは、差異の螺旋回帰です。そう、これは、輪廻転生と言うと誤解されますが、差異の回帰という意味での輪廻転生とは言えると思います。つまり、個体の差異連結複合体、差異連結の連結という差異の複合構成(又は、差異の複雑系?)というプログラムが回帰・反復されるということになるでしょう。簡単に言うと、個体を形成する差異のプログラム(差異の遺伝子)は、永遠回帰するということになります。この差異のプラグラム、差異の遺伝子については、後で、検討します。