不連続的差異論入門:その5

メディア界から見た、自我の生きると個の生きる

先の検討で、生きるとは、メディア界の差異の連結の消耗に対して、それを補うものを補給することだとわかりました。では、自己中心的なエゴイストと差異共存的な共生主義者とはどう違うのでしょうか。自我とは、連続・同一性の欲望です。ですから、差異連結だけでなく、諸差異連結の連続・同一性化の欲望を強くもっているということができます。ここで、明快にするために、図化しますと、

差異連結1⇔差異連結2⇔・・・⇔差異連結n

これが、メディア界の諸差異連結ないし差異連結複合体です。これに連続・同一性=自我化がなされると、

自我的差異連結1ー自我差異連結2ー・・・ー自我差異連結n

となり、すべて、自我で統一化ないし全体化されます。すると、本来、メディア界にあるイデア界的側面(イデア面)である差異共立・差異共存・差異共生性が排出・隠蔽されます。つまり、欲望が差異から連続・同一性=自我化されて、自我占有的になります。ですから、他者共存への志向が脱落します。つまり、排外的になります。自分さえよければの発想となります。これが、近代的自我・合理主義の発想であり、多くの官僚・役人、知識人、文化人、「先生」等の考え方であります。そして、西欧米の資本主義はこのような自我主義であります。ですから、他者は差別・排除されます。近代西欧米のあり方です。これは、西方キリスト教によるとも言えます。とまれ、世界が生き延びるためには、この自我中心のあり方から個中心のあり方に変換する必要があります。これが、ポストモダンの考え方であります。
 ついでに言えば、今喫緊の問題である郵政民営化法案ですが、これは、ねじれたもので、本来は、ポストモダン的ですが、実際は、アメリカの威圧、そして、役人たちのエゴイズムによって、モダン的エゴイズム化されています。
 さて、結局、近代vsポスト近代、自我vs差異の闘争が根本的であります。いらいらするのは、人々の目覚めが遅いことであります。




生きるとは何か:差異連結・強度の消耗と吸収

不連続的差異論から見ると、生きるとはどういうことでしょうか。私が問題にしたいのは、欲望、食欲、我欲、性欲等々のシステムの構成です。
 イデア界には、差異の共立があり、これが、メディア界において、連結して、連続化への傾向をもちます。この連続傾向が、言語形成を介して、現象界を形成します。先に、私は、動物の世界は、あるいは、動植物の世界は、メディア界だろうと言いました。現象界は人間特有のものと考えました。つまり、人間が見ている世界と動物が見ている世界は異質であるということです。動物には、現象界ないし現象はないということです。
 では、動物、人間に共通する欲望は何でしょうか。もっとも、質が異なりますが、生きるために、両者、食べるという点は共通です。そう、食べるとは何かを問題にしたいのです。結局、生命体とは何かということになると思います。
 ここで、メディア界から見ていきましょう。d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn
これがメディア界であり、この差異における、諸差異の連結の連結によって、複合体である生命体が発現すると考えることができるでしょう。問題は、生命は環境と相互作用をもつことです。これは何を意味しているのでしょうか。メディア界から見ると、ある生命体と環境や別の生命体との相互作用ですから、差異の連結の複合体同士の相互作用です。(ここで、用語を簡便にするために、差異の連結の複合体を差異複合体と呼ぶことにします。そして、差異複合体を different complexからdcと表記することにします。)差異複合体と差異複合体との相互作用です。ある差異複合体dc1が他の差異複合体dc2を食べるとします。すると、dc2は、その複合体を解体させて、差異の連結の集合に還元されます。脱生命化です。そして、この諸差異連結をdc1は食べるのです。つまり、dc1は、差異連結を個体生命維持のために必要なのです。ということは、dc1において、差異連結が消費・消尽されるので、新たな差異連結が必要となり、需要状態となります。自己の身体内では、生産できないのです。ということは、生命体、差異連結複合体は、差異連結を消費しては、新たなに補給しなくてはならいないということです。そう、時間の流れが一方向であるということとも関係すると思います。過去へは帰らないのです。つまり、差異連結は、有時空間的、有限ということです。つまり、差異連結は、強度をもっていますが、その強度は、無限ではなくて、有限であり、消費・消耗されるということです。この消耗する、老化する差異連結(強度)を、補給するのが食べるということだと思います。これで、いちおう、食べることの意味の説明は済んだこととします。
 では、性欲はどうでしょうか。それは、異性欲だったり、同性欲だったりします。これは何でしょうか。これは、簡単に言えば、性器における「空腹」から起こるものでしょう。性器欲望が生じます。それは、空腹と同じで、性の差異連結において、不足が生じて、新たに性の差異連結である性器的「食事」の行為が発生するのだと思います。
 ここで、簡単にまとめてみますと、生命体は、諸欲望、諸差異連結の複合体である。これを記号化します。欲望をdesireから、dsとし、差異の連結を、combination of differenceから、cdとしますと、

ds1・cd1⇔ds2・cd2⇔・・・dsn・cdn

がメディア界的生命体となります。簡単に表記しますと、

dsn・cdn⇔

と一応なります。この多様な、多元的な差異連結・欲望が、メディア界を貫いています。思うに、一つの欲望が阻止・阻害されると、その欲望は他の欲望へと転化すると思います。暴力は、そういうものでしょう。内在的不満があるために、暴力に吐け口を求めるのです。そう、多元的で、特異性であるメディア界の諸欲望を満足させないと、フラストレーションとなるのです。そして、これが、屈折すると、自殺願望になったり、病気になったりするのではないでしょうか。精神的な病気、肉体的な病気の両方においてです。




哲学は何を読むべきか

何でもそうですが、原典に当たることは言うまでもありません。とにかく、原典のもっている存在性に体当たりして見ることが必要です。あまり理解できなくて、いいのです。そう、初めから、理解を求めるならば、それは間違いです。哲学は、各個人の直観像によって世界を構築するものであり、各人の直観像を少しでも描けるようにすればいいと思います。しかし、確かに、難解、晦渋です。ですから、すぐれた解説書はお奨めです。しかし、安易な理解を説くものは、害があります。そう、哲学は、結論よりは、思考過程が本質的です。つまり、何度も何度も反復、反芻するのです。つまり、真理への対話を反復する行為です。ですから、解説書は大雑把なアウトラインを知るのに役に立ちますが、しかし、それは、哲学の予備校です。
 とまれ、私のお奨めは、スピノザの『エチカ』(中央公論社の世界の名著シリーズ)です。後は、ドゥルーズのものです。『記号と事件1972‐1990年の対話』(宮林寛訳、河出書房新社、1992)がわかりやすく、お奨めです。ニーチェは、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』です。そして、現象学は、とっつきにくいですが、解説書の『フッサール』(加藤精司著 清水書院)から入るのがよさそうに思います。
 私見では、哲学者は、自分が他とは異なると優れた人間と思っているために、とてももったいをつけた文体をもっています。ある意味で、頭はよくないのです。鈍重です。デカルト的な平明さが、通常の哲学では失われています。とまれ、知的ゲームとして、哲学の原典をお読みになることをお奨めします。
 後で、もう少し、文献案内をしたいと思います。




学年不要論と感覚・直観的哲学・科学教育

「学年不要論」を明敏に説くブログがありました。基本は賛成ですが、しかし、教科を減少させるのはどうでしょうか。一芸主義は、ある人にとっては適切でしょうが、果たして、総体的にどうでしょうか。不連続的差異論から教育論を見ると、確かに、個々の資質が異なります。しかし、基本教育は必要であり、それに対して、学年不要論を適用すべきだと思います。私見では、日本の教育は、多くの教科で、理論・哲学が希薄だと思います。物事を根本から感じさせ、思考させる教育が必要だと思います。感覚・直観的哲学・科学教育が必要なのだと思います。芸術家に向いた資質の人は、感覚・直観から、芸術表現へと向かえばいいのです。ただし、基本の感覚・直観的哲学・科学教育は必須です。

「学年不要論」
http://heitaroh.exblog.jp/d2005-03-31
『平太郎独白録 親愛なるアッティクスへ 』から




ポストモダン・メディアへ:連続・同一性のメディアから不連続的差異のメディアへの転換(私のHPから)

マスコミとりわけ、テレビは、前者になっている。テレビは、臨場感(現前性)があって、影響力というか洗脳力が強いので、たいへん危険である。いやおうなく、テレビのメディアの虜になるのである。この一種暴力は恐ろしい。一見、平凡に見えるが、テレビのもつ「悪魔力」は途轍もないものである。今日、生きた宗教があるとすれば、テレビである。小泉首相は、テレビの洗脳力を十分知っているのだ。この点から見て、堀江貴文氏が、フジテレビに切り込んで、一定の成功を収めたこと意味は巨大である。
 さて、マスメディアの一つである新聞の影響力も巨大であり、政治・経済の核心問題を明快に主張しないのは、問題である。今や、ブログが、小規模であるが、ラディカルなメディアになってきている。これは、ポストモダン・メディアの勃興である。草の根のメディアである。「リゾーム(地下茎)」のメディアである。 
 本論であるが、メディアは、先に述べたように、視点、パースペクティブ、見方、見え、等である。そう、メディアが現象界(仮象)を構成しているのである。ファッションである。これは、強固である。仏教が、色即是空と言っても、人間は、現象界(色)=ファッションの虜である。魅せられる。百聞は一見に如かず。Seeing is believing. つまり、メディア現象界があるのであり、それは、メディア・ロゴス(真理)の世界とは異なるのである。これをどうみるかである。これは、ニーチェの問いに通じる。「もし、真理が女性であったら、これまでの、哲学は真理を取り違えていたのではないか」 確かに、この疑問は鋭い。つまり、メディア現象界という「真理」が世俗を動かしているのであり、それに対して、メディア・ロゴスという真理は、一部の人にしか通じない。メディア現象の「真理」とロゴスの「真理」である。
 今言えるのは、バランスである。というか、今や、個が、ブログ等を介して、個のメディアを獲得したのであるから、真理は、個的になるのではないだろうか。マスメディア的メディア真理からポストモダン的メディア真理へと転換するということだと思う。つまり、これまで、受動・連続的メディアであったが、能動・不連続的メディアとなるということである。多数の差異である個のメディアが連結するのである。差異のシナプスの連結である。差異の「神経網」である。
 結局、メディア界的現象界になるということであろう。近代の連続・同一性的現象界に替わって。不連続的差異的なメディア現象界となるということである。不連続なメディア現象界である。ポストモダン・メディア現象の世界となるということである。

p.s. 二つの「真理」と言ったが、ポストモダン的メディアにおいては、これまでの、連続・同一性のメディア真理は解体して、不連続的差異のメディア真理が多元的に発動するということである。




近代のメディアからポスト近代のメディアへ:パラダイム変換:メディア創世記

私は、先に、オスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」という考えに、メディア論の先駆を見た。芸術をメディアとすればいいのである。そして、自然は人間である。人間はメディアを模倣するのである。
 不連続的差異論から見ると、現象界とは、連続化の「幻想」によって成立している。そして、連続・分節化を、メディアが行うのである。メディアが、現象をさらに加工するのである。人間は、メディアの奴隷と言ってもいいだろう。広告がモノをいうのである。メディアとモノ。つまり、ここには、深い力学があるのである。不連続的差異論の言うメディア界は、いわゆるメディアと共通する。なぜなら、メディアとは、メディア界に根差しているからである。ナショナリズムも、メディア界に根差しているのである。だから、単純な知的批判では、ナショナリズムは打破できないのである。とまれ、現象界とは、メディア界の「幻想」である。メディア界は、不連続的差異から連続的差異へと転換して、さらに連続化へと引き寄せられるのである。いわゆる、新興宗教は、このダイナミズムを利用しているのである。幻想=イデオロギー=広告である。そう、ある意味で、メディア界はファッションのようなものである。ファッションに幻惑されるのである。 
 結局、自分から、メディアを創らないと、既成のメディアにだまされるのである。メディアとはものの見方である。視点である。マスメディアとは、近代主義の視点であり、連続主義である。そして、今日、これが、信じられなくなっている。ポスト・マスメディア、ポスト・近代である。これが意味するものは、途方もなく巨大である。中世から近世/近代への転換がパラダイムの転換であったのように、近代からポスト近代への転換もそうである。ラディカルに、ドラスティックに、変わるのである。近代というメディア(視点)の完全崩壊である。近代という「オタク」的視点が崩壊するのである。そう、近代以前がらせん的に回帰すると言ってもいいように思う。




螺旋と回転:惑星の回転とは何か

今日は、簡単に疑問点に触れます。復習を兼ねて、太陽系と惑星のことについて言いますと、イデア界の諸差異があります。10個の差異としておきましょうか。それとも5個の差異としておきましょうか。とにかく、複数の差異がイデア界にあります。それが、1/4回転、90度回転して、連結/連続化します。これがメディア界です。ここから、太陽系/惑星の運動が形成されます。ここでは、簡単にするために、x軸上に、d1/d2/d3/・・・/d10と10個の差異が併存しているとします。これが、メディア界では、d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔d10となります。私見では、というか、試論として、⇔が太陽だとします。もちろん、原点と一致させます。そして、これが、メディア界によって、螺旋的に回転するわけです。しかし、考えてください。いわば、円盤上に太陽や諸惑星は存しているわけです。つまり、ある惑星から観察したら、他の惑星と太陽は円盤上で回転するように見えるのではないでしょうか。つまり、それらは同時にらせん回転しているために、らせん運動が観測されないはずです。つまり、円運動だけが観測・観察されるはずです。そして、これが、われわれが現在観察している太陽系だと思います。本当は、らせん運動をしているのだと思います。イギリスの思想家的作家D.H.ロレンスは、宇宙論的な詩の中で、地球は太陽を追いかけているというようなことを述べていました。これは、差異(惑星)が、他の差異との距離を縮める指向があると考えれば、つまり、差異と差異との「距離」を縮まる傾向にあるとすれば、太陽を追求すると比喩的に言えるのではと思います。そう、メディア界は、共立/連結/連続の領域です。この連続化において、地球は太陽と一致しようと指向・志向すると言えると思います。強度と原点である太陽へ向けての、いわば、向心力が作用すると思います。そして、仮定するに、これが、90度回転を生み、さらに、z軸方向への垂直運動を生むのではと思います。螺旋的回転、これが太陽系の運動だと思います。
 ついでに言えば、差異が超多数になっとき、渦巻星雲のようなものが形成されると思います。これを敷延すると、宇宙全体は、渦動していると言えると思います。渦動宇宙です。螺旋回転していると思います。膨張宇宙ではなくて、螺旋渦動宇宙だと思います。
 今日の話は、いわば想像的仮説、作業仮説であります。

p.s. らせん・渦動宇宙論は、なにか相対性理論と通じるように感じます。というか、相対性理論とは、らせん・渦動宇宙を捉えて、数式化していると言うべきではないでしょうか。そうすると、相対性理論は、不連続的差異論的渦動宇宙論へと進展するでしょう。