不連続的差異論入門(その4)

集団自殺と個

昨日、NHKの教育テレビで、インターネットを使った集団自殺に関する番組があった。私が不思議に思ったのは、どうして、仲間を募って自殺をするのかということである。一人でどうして自殺しないのかである。結局、思うに、自殺願望の人は、孤独に耐えられないのだ。単独性が欠落しているのである。個のない集団の世界である。
 また、自殺を思いとどまった一人の女性が出ていたが、いわば普通に育ったが、自殺願望があるということである。なぜ、嫌な思いをしてまで働かなくてはならないのかというようなことであった。不連続的差異論から見ると、彼らは、メディア界のエネルギーが枯渇しているのである。生きる理由がないというのは、メディア界が賦活されていないということである。メディア界とは、身体ないし身心の世界であり、「力」、強度の世界である。また、感覚の世界である。野性と言ってもいい。しかし、この野性には、本当の自己(個)、文化、社会の基礎があるのである。モノの豊かさは、個の力を阻害しているのである。自我の生存競争があり、他方、モノがあり、メディア界は喪失、忘却されたままである。メディア界は活断層である。メディア的特異性に覚醒する必要があるのである



メディア界から現象界へ:捩れと螺旋について

イデア界からメディア界への1/4回転、90度回転を、x軸とy軸の直交座標における二つの垂直な力の関係としよう。そして、これにより、z軸に捩れると考えよう。このz軸の座標が、現象界となるだろう。これはこれでいい。問題は、y軸、即ち、メディア軸において、差異が連結されて、差異の幾何学が生じると言えるだろう。3差異は正三角形、4差異は正方形、5差異は正五角形等々である。そして、これが、いわば原型ないし構造となって、現象界のパターンを形成すると言えよう。そう、構造主義とは、このメディア界を捉えているのである。しかしながら、構造主義の問題は、メディア界が単に差異の連結だけでなく、それが、本来、不連続的差異の共立であることを看過している。メディア界は二重、二層なのである。とまれ、メディア界を原型、構造から見ると、現象界の形態、形状、パターンを発生させているのがよくわかる。カントの超越論的形式は、構造主義とはぴったり重ならないにしても、抽象形式、形式構造という点ではほぼ重なるだろう。 
 では、この構造と捩れの関係はどうだろうか。ここで、朝顔のつぼみと花弁を見るといいと思う。5差異の花弁があるが、それらが、捩れて、つぼみになっていると考えることができるだろう。つまり、差異が捩れるのである。そして、次に、差異が開くのである。差異と捩れは一種相補性があると言えよう。とまれ、差異が基本にあるとは言え、捩れが最初に生起して、次に、差異が展開(「開花」)すると言えよう。だから、宇宙を花に、とりわけ、花弁の多いの花に喩えるのは適切であると言えよう。薔薇の花弁。
 ということで、結局、諸差異がイデア界にあり、それらが、メディア界で、連結・連合・結合して、現象界の原型を構成する(構造)。それが、現象界へと展開すると言えよう。この点で、構造主義は全く正鵠を射ていると言える。しかし、構造主義の問題は、個、特異性が扱えないところにある。実は、メディア界は、単に差異の連結構造(原型)があるだけでなく、差異の共立性も保持しているのである。この差異の共立性が、特異性、個の根拠となるのである。確かに、差異の連結構造も根拠になるが、それは、特異性、個のそれではなくて、自我のそれである。つまり、差異の連結構造とは、自我の根拠となるのであり、それは、連続・同一性の原基であり、全体主義ナショナリズムファシズム等)の基盤となるのである。中沢新一が、田辺元の種の論理を構造主義と捉えたが、それは、正解であるし、同時に、全体主義ナショナリズムの原理と共通であると言わなくては、きわめて不十分である。構造主義は、メディア界を半面において把捉しているだけである。そして、デリダドゥルーズは他の半面を、把捉しようとしたのである。いわゆる、ポスト構造主義である。どちらが、メディア界を捉えているかと言えば、それはデリダの方であろう。デリダ脱構築主義は、現代の仏教哲学と言うべきものであり、メディア界の両極性、両義性を捉えている。ドゥルーズの場合は、ある意味で、不連続的差異の特異性を捉えていながらも、同時に、連続的差異の構造主義に留まっているのであえる。ドゥルーズは、混乱、混濁しているのである。しかし、差異の共立という概念は、デリダではなくて、ドゥルーズが明確に捉えていたものである。まとめると、デリダはメディア界の仏教的様式を把捉していたのに対して、ドゥルーズは、メディア界の両義性において分裂し、また混乱していたと言える。前者は、メディア界のゆらぎを明確に把捉したのに対して、後者は、前者が捉ええなかった差異の共立性を把捉しながらも、それを差異の連結構造と混同していたのである。そう、デリダは、差異の共立というイデア界性を捉えることはできなかったが、しかし、メディア界のゆらぎという事象を明確に捉えていたのである。そして、ドゥルーズデリダよりも一歩進みながらも、メディア界の両義性に囚われて、イデア界性、不連続的差異性、特異性を明確に把捉することはできなかったのである。一方は、ゆらぎに遊び、他方は、ゆらぎの領域のメディア界を理論的に揺れ動いたのである。すなわち、特異性(ニーチェ)となったり、連続性(ベルクソンハイデガー)となったりしたのである。

p.s. 先に、サルトル実存主義の問題点として、個の全体性への指向をあげたが、本件の視点から見ると、サルトル実存主義とは、実は、構造主義的であるとわかるのである。これは、哲学史の皮肉である。フッサール現象学は、即自性、内在性を維持したことにより、安易な連帯性を拒否している。そして、サルトル現象学実存主義は、外在的指向として対自的他者を指向したのであるが、それが、全体性を帯びるのである。つまり、フッサールはある意味で、特異性を維持したのであるが、サルトルは、勇み足で、特異性を破壊して、自我・構造的な連帯である全体性へと進んだのである。これは、サルトル哲学の破壊・破砕であったと思う。サルトル哲学には、大変な分裂がある。一方では、現象学のもつ脱自我の指向をもっている(『嘔吐』)。他方、投企、アンガージュマン(参加、参与)として、差異を排して、マルクス主義的全体性(構造性)へと連続化する。実存主義とは、本来、個、特異性の哲学のはずである。サルトルの場合は、思うに、メディア界に即していたが、やはり、メディア界の両極性、両義性に足をすくわれたと思う。実存主義は、メディア界の個、特異性の方向であるが、メディア界は構造主義性をももつのであり、この構造主義性が、全体性、マルクス主義共産主義に結合したと思われるのである。メディア界のもつ両義性が、サルトルの場合、完全に分裂したのである。ドゥルーズが、サルトルを肯定しているが、思うに、ドゥルーズの差異哲学とサルトル現象学実存主義とは似ているのだ。両者、メディア界の両義性によって混乱しているのだから。つまり、両者、メディア界の哲学者であるということである。ドゥルーズは、アカデミズムの人として、サルトルのように、実践的ではなかった。だが、実践的であったら、サルトルの二の舞いとなったと思う。フランス哲学は、思うに、メディア界哲学である。ニーチェの特異性/単独性の哲学を展開したのは、私見では、イギリスの作家のD.H.ロレンスだったように思うのである。ロレンス自身にも連続性があったが、晩年、それから脱して、特異性、単独性、不連続的差異性に達していると考えられるのである。



10個の惑星:5差異と太陽(メディア強度):備忘録(HPから)

5個の差異がメディア界にあるとしよう。これを連結する強度は「太陽」としよう。太陽と惑星差異は不可分としよう。
d1⇔d2⇔d3⇔d4⇔d5 (メディア界)
そして、5から2のコンビネーションを考えると、

d1⇔d2、d2⇔d3、d3⇔d4、d4⇔d5(4個)
d1⇔d3、d1⇔d4、d1⇔d5(3個)
d2⇔d4、d2⇔d5(2個)
d3⇔d5(1個)

計10個となる。(順列にすると20個だ。また、d1〜d5の順列だと120通りになる。)
そう、5個の差異を正五角形にして考えることもできるだろう。そして、ペンタグラム(5角星形)をつくることも考えられよう。だから、d1,d2、・・・、d5を正五角形ないしペンタグラムの頂点にすればいいのだ。そして、メディア界で、5個の差異の関係ないし対角線が考えられるだろう。そして、この正五角形ないしペンタグラムが太陽を指すと考えられよう。つまり、正五角形ないしペンタグラムのメディア強度としての太陽である。5個の差異(惑星差異)と太陽(メディア強度)があることになる。5差異と太陽は不可分である。一如である。そして、ガウス平面であるイデア界をこの差異が回転するとしよう。メディア軸ないしメディア界の回転と言ってもいいのではないだろうか。すると、差異と太陽は回転するのである。そして、差異が惑星を形成するとすれば、惑星と太陽は共に回転することになるだろう。これが太陽系の意味、本質ではないだろうか。イデア界の差異の回転が太陽系を発現させているのではないだろうか。見かけは、太陽中心に惑星が回転しているが、そうではないだろう。太陽は惑星と一体であるから、太陽/惑星は共に回転していると言えるだろう。太陽も、自転していると言う。 
 まて、5差異、正五角形にすると、歳差運動による春分点黄道一回転にかかるプラトン年(21590年)が出てくるのだ。5と太陽系は関係するのだ。
 ここでは、極く大雑把に述べたが、他の考え方もできるので、今はこれくらいにしたい。

p.s. d1とd2等の「差異」はどのようなものだろうか。
d1が原点に近く、d5が原点から遠いとするのか。しかし、それは無意味ではないのか。d1をたとえば、(0,i)、d2を(0,2i)とするのか。

p.p.s.  そういえば、ケプラーは、プラトン立体が5個しかないことに目をつけて、天文学を創ったのだ。ここで、作業仮説として、ガウス平面ではなくて、いわばガウス立体を考えたらどうだろうか。つまり、x軸、y軸、z軸をすべて虚軸とするのだ。そして、それらと直交する軸があるだろう。それが、現象界の軸だろう。z軸がメディア軸、メディア界である。これが、例えば、α軸へと転換する。四次元空間である。これが、現象界となろう。しかし、α軸とは、現象界を記述するものだから、時空四次元である。すると、α軸とは、虚軸三次元と実軸一次元との連結であり、同時に、空間実軸三次元と時間実軸一次元との連結である。そう、α軸とは、思うに、現象面ではないのか。そして、z軸がイデア面だろう。そして、z軸〜α軸の「空間」、領域にメディア界があるということになるのではないだろうか。思うに、z軸が虚時間軸であり、α軸が実時間軸ではないか。31ー3の7次元である。z/α面が重要となるだろう。それは、境界と言ってもいい。zが、不連続な差異を維持しているのに対して、αは、連続的差異ないし差異連続体を形成しているのだ。zからαへの変換がメディア界から現象界への移行を意味するだろう。虚時間軸と実時間軸との関係が問題である。そう、z軸と直交するα軸があるのだ、やはり。これが現象界を構成するのだ。そして、α軸とは、実際は、時空四次元である。
虚時空三次元(x,y,z)→α軸=実時空四次元(α、β、γ、θ)
α軸というよりは、α界、現象界であろう。すると、(xi, yi, zi,α)である。(xi, yi, zi, α、β、γ、θ)である。

3p.s. もう一つの考え方として、5差異が、メディア界で、極性力によって、二分化されることである。すなわち、d1+d2とd1+d2の二通りできるということである。だから、上記の10通りを倍にして、20通りということになる。

4p.s.  5差異で検討してみたが、しかし、5に限定する必要はないのではないだろうか。多数の差異、無数の差異を仮定できるのではないだろうか。5差異では、正五角形(たとえば、葉の形)が生まれるが、6差異ならば、正六角形であり、雪の結晶が形成されるだろう。7差異ならば、虹の七色、音階の音数(オクターブの音数、ドレミファソラシド)等々。3差異ならば、三原色、三幅対等々。というように考えた方が、実際的である。ならば、太陽系の場合も、5差異にこだわらずに、10差異としてもいいのではないだろうか。10差異のメディア強度として太陽が存するということである。10差異を10惑星として、原点を中心に回転するということも考えられよう。そのときは、原点が太陽である。強度とは、もともと、イデア界の虚力によるのであり、虚力を原点からの差異にあるとすれば、原点をいわば原太陽に考えることができるのではないだろうか。原点=原太陽を中心にして、多数ないし無数の差異=原惑星が回転するイデア界=ガウス平面が考えられるのではないだろうか。そして、水平面と垂直方向に「力」が発出するのであるから、それは、捩れる、渦動する、渦流する、渦巻くことになるのではないだろうか。つまり、らせん的運動をするのはないだろうか。ならば、太陽系は回転運動というよりは、らせん運動ではないだろうか。渦巻の形状が本来だと思うのだ。思うに、1/4回転、90度回転であるが、これは、ガウス平面上の座標を虚軸へと変換すれば、すべての座標に適用されるのではないだろうか。例えば、x軸、y軸ともに、45度に交わる直線を考えると、その直線上の差異は、y軸(虚軸)へと還元されることとなる。f(x)=xで、f(x)の上の点(差異)は、すべて、y軸上の点(差異)に還元されることとする。(x,yi)が、(0、yi)となる。この回転によって、y軸上では、ゼロからi へ、そして、ゼロにもどり、iへと振れ、そして、ゼロへと回帰する。この上下運動が、らせん形状を形成するのだろう。

5p.s. 朝顔を例にとると、蔓の捩れは、メディア界による捩れ、螺旋であり、葉は、3差異による三葉であり、花のつぼみは、やはり、メディア界の捩れであり、花弁は、5差異によるのであり、種子は、やはり、5差異だろうか? とまれ、諸差異の組み合わせとしての朝顔が考えられる。敷延すると、他の植物にもあてはまるだろう。そして、動物にも、また、当然鉱物にもあてはまるだろう。差異連結の連結としての生命体、現象体があるのだろう。アルチンボルトの奇想の顔の絵は、諸差異連結の連結をそれなりに表象していると言えるのではないだろうか。諸多数差異連結と言えるだろう。

6p.s. 以上は、思いつきであり、後で、整理したい。



Intelligent Design(知的計画)と不連続的差異論:3(私のHPから)

前者は一種のイデア論である。であるから、後者と関連が生じる。しかし、後者は、自然とイデア論を同等に見ている。自然的イデア論と言ってもいい。人格神的なものがあるわけではない。あくまでも、自然のもつ法則性によって、後者は構築される。だから、いわば、自然哲学科学である。自然叡智科学である。自然叡智理論である。イデア界のもつ不連続的差異の力によって、メディア界が形成され、そこから、森羅万象が発生すると考えられるのである。 
 もっとも、なぜ、無ではなくて、差異が存するのか、なぜ、イデア界が存するのか、これはある意味で答えられない。ただ、現象界という「存在」を説明しようとすると、そのような仮説が出てくるということである。しかし、イデア界とはある意味で無である。無から現象界を発生・発現している言うことができる。そして、この無を説明するために、複数、多数ないし無数の不連続的差異の共立するイデア界を仮説しているのである。

参考:知的計画(知的デザイン論):Intelligent Design
http://en.wikipedia.org/wiki/Intelligent_design#ID_as_a_movement

私のHP(ソフィオロジー(叡智学)へ向けて)
http://ameblo.jp/renshi/entry-10003161214.html



Intelligent Design(知的計画)と不連続的差異論:2

資料です。

「Intelligent Design と言うメソッド

◆ インテリジェント デザインと言うメソッドは、不連続的差異論に於ける「イデア界」の想定と、認識論的には、同じ事を異なる言葉で表現しているように、思うが・・・

(参考)

米で新たな進化論争 「神」ではなく「知的計画」?
http://www.asahi.com/science/news/TKY200506070244.html
2005年06月07日

 「生命の誕生や進化の背景には知的な計画があった」という「Intelligent Design(知的計画=ID)」説を学校で教えようという主張が、米国で頭をもたげている。米国では、旧約聖書の創世記に基づき、天地と人類は神がつくったとするキリスト教右派が勢力を保つ。そうした宗教右派の「進化論を学校で教えるな」という主張とは表向き一線を画しているのがID推進派の特徴だ。

 米東部ペンシルベニア州ドーバーで5月17日、日本の教育委員会にあたる学校区の公選委員の予備選挙があり、争点はIDの扱いをどうするかになった。なぜ生命は誕生したのか、生物がいかにしていまの形を得たかは、進化論だけでは説明しきれず、そこに知的な計画が働いているというのがIDの主張だ。「神がつくった」とは言わない。

 米国では州や学校区に教育内容を決める権限がゆだねられ、委員の構成で教育内容が左右される。ドーバーの学校区は昨年、高校の科学でIDに触れられるようになった。今のところ全米唯一とされる。予備選では7人の委員の枠に18人が名乗りを上げた。ID推進派7人と、反対派7人が残り、11月の本選挙に決着は持ち越された。

 カンザス教育委員会でも5月、科学教育のカリキュラム見直し提案が議論された。IDを科学の授業で教えるべきだと主張する同州に全米本部を置く非営利組織「IDネットワーク」が提案した。同州では99年に進化論がカリキュラムから外れ、委員の構成が変わった01年に復活するなど、進化論教育は政治的綱引きの標的となってきた。

 IDネットのジョン・カルバート共同代表は「進化は事実だとしても、推し進める何らかの仕組みがあるはず。それがIDだ。特に地球誕生や生命誕生は、進化論では説明できず、現在の自然界を見ても、知的な計画の存在を多くの科学者が認めている」と言う。進化論を教えるな、とは主張しない。

 これに対し、進化論教育の維持を訴える非営利組織「全米科学教育センター」のユージニー・スコット代表は「憲法政教分離原則によって公立学校で天地創造説を教えられないため、宗教色を薄めたIDを持ち出しただけ。科学で説明できない『穴』があると、それを『神』で説明しようとする、天地創造説を唱える人たちの手段だ」と話す。

 CBSテレビが昨年11月に行った世論調査によると、米国人の55%は、神が人間をつくったと信じ、27%は進化の過程に神が関与したとし、全く神がかかわっていないとする人は13%にとどまった。 」
『不連続的差異論ノート』
http://blog.melma.com/00138706/20050608113247



発展篇:その1:不連続的差異論の高次元の世界

入門から既に、応用へと移って、高度な問題に入っています。ここでは、私にとって、最も難しい事柄に、簡単に触れます。不連続的差異論は、理念(イデア、差異)を基本にしています。それを、また、実在と見ています。ですから、知即存在という、常識では矛盾したような概念が出てきます。しかし、この概念ないし理念を精緻に表現ないし記述するには、数学が必要です。本理論の合作者であるODA ウォッチャーズ氏は、『不連続的差異論ノート』において、数学を駆使して、不連続的差異論の世界を構築・説明しています。数学に強い方、理科系の方は是非、そのブログを見ていただきたいと思います。『不連続的差異論ノート』
http://blog.melma.com/00138706/
私は数学は素人ですから、その説明をよく理解はできていません。しかし、基本的な考え方は、了解できます。そこで、本理論の数学的な構造の基本像を試行錯誤的に模索したいと思います。ここは、入門ではなくて、上級者のいや最先端の、パイオニアの領域になります。とは言え、基本構造は、これまでの説明で構築されていますから、精緻な構造が問題となります。たとえば、メディア界は、数学的・幾何学的な構築としてはどう捉えられるかが問題となります。ここでは、簡単に、ODA ウォッチャーズ氏の考えを借りて、差異の1/4回転、90度回転によって、メディア界が形成されると言っておきます。

参考:
http://blog.melma.com/00138706/200504
http://blog.melma.com/00138706/200505
http://blog.melma.com/00138706/200506
http://blog.melma.com/00138706/200507



Intelligent Design(知的計画)と不連続的差異論

資料です。

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《引用開始》

「不連続的差異論の『イデア界』とI・Dの相関
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/688.html
投稿者 ODA ウォッチャーズ 日時 2005 年 6 月 08 日 15:14:29: ilU7eLmFtsv5I

(回答先: 米で新たな進化論争 「神」ではなく「知的計画」?(朝日新聞) 投稿者 シジミ 日時 2005 年 6 月 07 日 21:10:28)

I・Dの存在の仮定は、ポスト・モダン後の哲学認識からは、進歩的な意見と思われます。
少なくとも、唯物論、適者生存仮説の問題点を乗り越える試みの一つでしょう。
不連続的差異論においても、『イデア界』の想定によって、I・Dの存在仮定と同じような効果を求めています。

(不連続的差異論について)

不連続的差異論

これは、ODA ウォッチャーズ氏とsophiologistがブログ上で出会って生まれた新しい理論である。端的に言えば、ジル・ドゥルーズの差異の哲学を、その連続性と不連続性との不整合さを取り除いて、後者中心に、首尾一貫・整合化したものである。これは、ポストモダニズムポスト構造主義の後退後や、グローバリゼーションを受けた後の、閉塞状況から生まれたものであり、多様な分野・領域での行き詰まりに解明・解決を与える統一的理論と考えられる。以下を参照されたい。

http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0

http://kaisetsu.ameblo.jp/category-232976bb6994bc1dc0108d98b2b3a1d0.html

http://renshi.ameblo.jp/category-c500ecea7a687b51817aff1be94a2ccf.html

http://blog.melma.com/00112192/

http://blog.melma.com/00135605/20050317203443

不連続的差異

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db?kid=98883

http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db

後記:以下、不連続的差異論の新しい考え方がsophiologistから提起されている。これはまだ決定を見たものではなく、暫定的なものであるが、本理論の確立やさらなる発展のために役立つであろう。

http://blog.melma.com/00135605/20050322205819

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050524

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050525

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050528

プラトンとアリステレスの統一論が提起された。

http://renshi.ameblo.jp/entry-d289c0176e3af660490d88bc80c5aa7a.html

ODA ウォッチャーズ氏による不連続的差異論の新たな解明である『不連続的差異論ノート』が更新中である。

http://blog.melma.com/00138706/

《引用終了》
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阿修羅
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/688.html

参考:Intelligent Design
http://en.wikipedia.org/wiki/Intelligent_design#ID_as_a_movement



量子論と不連続的差異論:粒子・波動の相補性とメディア事象

これは再確認になりますが、もう一度検討します。メディア界d1±d2において±の極性力が現象界の光となりますから、量子論的には、±の極性力が、波動と考えられるかもしれません。しかし、正確に考えますと、メディア界において、d1,±、d2とは、不可分であります。メディア界をd1⇔d2としますと、 ⇔において粒子/波動の相補性が形成されるでしょう。差異から差異への指向があります。これが、粒子となったり、波動となったりするということになると思います。即ち、⇔を連続化と見ると、d1⇔d2は粒子となります。また、⇔を極性力±、メディア強度ないし差異の指向力と見ますと、d1⇔d2は波動になると思います。つまり、d1⇔d2は、見方(観測)によって、粒子と現象したり、波動として現象したりすると考えられます。d1⇔d2は、実相としては、粒子でも、波動でもありません。現象界の観測によってそう表出されるだけです。ならば、d1⇔d2とは、何でしょうか。それは、丁寧に言えば、メディア化された差異です。メディア的差異、メディア差異です。あるいは、単純に、メディア、メディア事象と呼んでもいいでしょう。ひとまず、メディア事象と呼んでおきます。
 結局、このメディア事象d1⇔d2を、現象界において、粒子と波動の相補性として把捉しているのです。整理しますと、粒子とは、d1⇔d2がd1ーd2(疑似連続化、極限値、近似値、シミュラークラ)になるときの事象であり、波動とは、⇔の強度、極性力が、現象化した事象を意味すると想定されます。
 現代科学は、メディア事象に関わっていながらも、理論的には、現象界に留まっているために、整合性のある理論化が為されていないと考えられます。メディア事象をメディア事象として把捉する必要があるのです。思うに、現代物理学で、暗黒物質、暗黒エネルギー、超ひも論等々言われますが、それは、現象界(唯物論)の観点で自然を捉えようとしているのであり、結局、今のままでは、所期の統一論は生まれないでしょう。後で、検討したいと思いますが、メディア界とはいわば虚次元であります。時空四次元から見れば、第五次元ですが、それは、虚次元であり、発想を替えなくてはならないのです。虚次元としての第五次元であり、またさらにイデア界があります。イデア界をガウス平面としますと、さらに、二次元加わります。七次元となります。



メディア界の強度と現象界のエネルギーの関係

メディア界の強度とは、d1±d2±d3±・・・dnの±部分です。しかし、正確に言うと、dと±は不可分です。ですから、たとえば、d1±d2も、メディア界の強度を表現しています。そして、±を零と見なすと連続化が生じます。(もっとも、疑似連続化です。バーチャルです。)即ち、d1ーd2が現象であり、現象エネルギーとなります。アインシュタインの公式、E=mcc(Eはエネルギー、m は質量、cは光速)を考えますと、d1d2という現象物質は、正確にはd1±d2であります。これが、現象界の力の真相です。そして、これは作業仮説ですが、d1±d2→d1ーd2における±→ーが光速に相当し、d1ーd2(現象界)が質量ではないかと考えられます。問題は、光速の意味です。メディア界における極性力は差異において等価です。もちろん、ゆらぎますが、全体としては、等価に作用します。この極性力の等価性が、現象界において、光速度一定となると想定できます。すなわち、等価のメディア強度が、連続・同一性化して光速度一定となると思います。
 簡単にまとめますと、メディア界の強度が現象界のエネルギー、物質エネルギーに変換していると言えると思います。しかし、両者は異質なものであります。現象界の光とは、メディア界では極性力です。



自我のエネルギーはどこから来るのか

これまでの検討から、自我は、不連続な差異を、言語を介して、連続・同一性化させたところに成立することがわかります。即ち、メディア界の差異の連結の連続化傾向が自我を形成します。この連続化傾向は差異の極性力で表現できます。即ち、d1±d2±・・・±dnというメディア界における±が極性力であり、これが、連続化傾向です。この極性力に対して、脱極性力があります。それは、イデア界の力によります。ここは複雑なところで、難解な領域です。イデア界の力を虚力、メディア界の力を強度、現象界の力を物力としますと、極性力と脱極性力は、虚力によります。そして、極性力自体は、強度です。ですから、明快にするために、用語を変えます。差異順列を形成したり、分解したりする力が、虚力であります。ですから、虚力=差異順列力です。そして、この虚力によって、形成されたメディア界の差異連結においては、極性力が作用しています。これが強度ないしメディア強度です。そして、この強度が現象化したときに発現する力が物力ないし現象力です。図示しましょう。

A)イデア界:虚力:差異順列形成・解体力

B)メディア界:メディア強度:差異連結極性力

C)現象界:物力(物質力):差異連続力

このように分類化した上で、自我エネルギーを考察しますと、それは、メディア強度が連続・同一性化した物力をもつと言えます。そして、この自我エネルギーは、差異から見ますと、差異を排出・隠蔽する反動的な力であります。すなわち、差異の力がねじれて、自我反動力となっているのです。たとえて言えば、ねじれて、裏返しになっているのです。(へそ曲がり、つむじ曲がり、天の邪鬼、意地悪、等々はここから来ているでしょう。邪悪さもそうです。)だから、自我エネルギーとは、メディア強度、差異連結極性力によるものではありますが、原動力を排出・隠蔽する様式になっているのです。自我はメディア界を基盤としながらも、それをねじり、裏返すようにして、排出・隠蔽する現象個体のあり方です。言い換えますと、メディア界には、差異の共立、差異の連結、差異の連続傾向がありますが、自我とは、三番目の差異の連続傾向が言語を介して、連続・同一性化したものであり、メディア界を排出・隠蔽しているのであります。メディア界が無意識となっているのであります。ということで、自我エネルギーとは、メディア界且つ反メディア界的というパラドクシカルな様態であります。
 この自我エネルギーの展開である近代主義は、近代的資本主義、近代国家を形成しました。そして、この帰結がグローバリゼーションです。(もっとも、グローバリゼーションは、ハイパー近代主義とポスト近代主義の両面をもっています。両義的です。)そして、日本は、この近代主義が、もっとも進んだ国と言えると思います。しかしながら、自我エネルギーをもつ近代主義は、ナショナリズム、国家的管理主義、全体主義をもたらします。そして、社会に暴力・権力・支配が蔓延ります。牢獄的社会になります。この近代主義からの脱出が、ポスト近代主義であります。奪われたメディア界を復活・復権させて、個、差異、特異性を取り戻す必然性があります。なぜなら、自我がメディア界を排出・隠蔽しても、メディア界自体は存在しているからです。メディア界の強度が、逆襲するのです。自我現象とは、メディア界のいわば一面、差異連続傾向のみの側面であります。つまり、極性力・強度の連続傾向のみであります。極性力・強度のもつゆらぎの力が潜在しています。また、差異の共立というイデア界的な虚力もあります。それは、差異順列解体という方向で発動します。差異連結が差異共立へと変換(還元)します。
 ということですので、近代主義の自我の現象界を、ポスト近代主義の不連続的差異、特異性、個のメディア界&イデア界が乗り越える必然性があると言えます。



応用:ナショナリズムについて(私のHPから)

先に言及したが、もう少し整理したい。ナショナリズムの精神的原因として、メディア界/現象界がある。差異の連続・同一性化が根源である。ここで、民族言語や文字言語について言及すべきだろう。そう、言語規範が国家主義化することも要因の一つだろう。国学の影響が強いだろう。他国語を排斥するようになるのである。言語の国家主義。そう、単に民族、国家と一体化するだけでなく、言語とも一体化があるのである。そして、日本の場合、中国・朝鮮は、明治以前は、規範となる文化国家であったのであるから、それを排斥するというのは、自己を疎外することでもある。
 結局、ナショナリズムとは、多元的な価値観を破壊して、一元的な価値観に収斂させることから生じると言えよう。一神教化と言ってもいい。そして、近代日本の一元化とは、国家主義と欧米主義とが結びついていることである。しかし、実際は、両者が結びついたり、分離したりしたと考えられる。とまれ、メディア界/現象界の連続・同一性志向(自我志向)と国家主義が一元的価値観として結びついたところに、ナショナリズムが生まれると言えるだろう。
 近代主義的な発想だと、ナショナリズム肯定となる。しかし、不思議なのは、国益に沿わない靖国参拝である。しかし、国家とは、暴力機関であるから、軍国主義を肯定するのは、国家主義とすれば、理にかなっているのではないだろうか。ということは、小泉氏は、近代主義ということでは、一貫しているということになるのではないだろうか。彼自身、自分のやっていることが、正道であると信念・確信をもっているだろう。ある意味で、近代主義の優等生である。

p.s. 連続・同一性の志向が、結局、近代主義に帰着すると言えるだろう。一元的価値観化ないし一神教化と国家主義は連続・同一性主義で共通である。小泉氏は、近代日本の終末・終焉を意味するように思える。ポスト近代日本である。



物質とは何か:たとえば、ビタミンとは何か:メディア界強度

不連続的差異論から見ると、物質とは、差異の連結態を、その連続化である現象の抽象形式で捉えたものです。即ち、

d1⇔d2⇔・・⇔dn(メディア界)

を、d1d2ー・・・ーdnとして捉えたものです。たとえば、d1ーd2が、原子1、d2ーd3が原子2というように、現象界において捉えられるのではないでしょうか。素粒子と言ってもいいでしょう。この連続体において、物質を捉えているのです。しかし、連続体は、実は、メディア界でありますから、⇔の力や、 ⇔のゆらぎをもっています。しかし、これは、相対性理論量子論が扱う事象です。しかし、私見では、それらは、メディア界の事象の現象を扱っているのであり、メディア界の事象自体を扱ってはいません。不連続的差異論がそれらをそれ自体として扱うことができます。この理論の合作者であるODA ウォッチャーズ氏の『不連続的差異論ノート』を見てください。
http://blog.melma.com/00138706
ということで、たとえば、体に必要なビタミンを考えると、それらは、d1ーd2ー・・・ーdnと現象界的に表記できますが、実体はメディア界なのです。そして、メディア界のもつ力、⇔の力ないしエネルギーは、現象界の記述では捉えられないのです。ただ、現象界への表出として、たとえば、骨を強化する作用があると言うことができるだけです。この本来の力は、メディア界の力です。それを、メディア強度と呼びましょう。このように捉え直すと、東洋の「気」というものも、説明できるようになります。西洋医学では、それは磁気等によって説明できるだけです。「気」とは、メディア強度です。これが、現象界においては、磁気等として出現するのです。生命力、精神力等と呼ばれるものも、メディア強度と言えるでしょう。
 ところで、メディア強度とは、本来、差異の共立によるものです。宗教で祈りや瞑想が重んじられるのは、それにより、差異の共立が生成されるからだと思います。よく、信仰によって奇蹟的に病気が治ったと言われますが、それは、奇蹟ではなくて、なんらかの事態によって、差異の共立が形成されて、メディア強度が発生したからだと思います。また、聖地に岩があったり、多いのは、やはり、岩が、差異の共立によるメディア強度を発するからではないかと思います。結局、医療とは、メディア強度を活性化することだと思います。偽薬(プラシーボ)で治ってしまうというのは、心身的に、メディア強度が発生するからだと思います。一般的に、病気とは、メディア強度が弱まっている状態と言えるでしょう。そのために、健康な連続体が弱化して、病気の原因の連続体がそれ自体のメディア強度をもって破壊的になっているのではないかと思われます。

p.s. ホメオパシー(同種療法)は、思うに、メディア界を共鳴させて、差異共立を喚起させる治療ではないかと思います。

参考:ホメオパシー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%82%AA%E3%83%91%E3%82%B7%E3%83%BC

p.p.s. 私は西洋医学を否定しているのではありません。しかし、西洋医学が分析できない人体構造を述べています。

3p.s.  本日(7/27)、NHKの特集で、ペトラ(岩)・ヨルダンの宮殿の番組がありました。砂漠の岩場を利用した荘厳な宮殿です。やはり、岩が、聖地にあります、というか、岩山を削って、宮殿を造ったのです。キリスト教は、イエスが、ペトロ(岩)を教えの礎にすると言っています。メッカのカーバ神殿
日本では、磐座(いわくら)です。
NHKの番組は『世界遺産の旅』です。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards095.html
http//guide.travel.goo.ne.jp/e/goo/traveler/tabisurupanpan/album/10028308/)


4p.s.  今、思いついたのですが、病気とは、メディア界の強度(健康力)の弱化によるのではないでしょうか。すなわち、連続・同一性が強化されて、メディア界の強度が抑止されているのではないでしょうか。代替医療とは、この抑止されたメディア界を賦活させて、強度を復活させることにあるのではないでしょうか。また、いわゆる自然治癒力とは、内在するメディア界の強度の作用を意味しているのではないでしょうか。