不連続差異論入門(その3)

美とはなにか:メディア界感覚・意識とは何か:メディア界は、感覚・意識しているものなのか

私の直感では、諸芸術において、「美」なるものをメディア界で感覚・意識しています。バッハ音楽のすぐれた演奏を聴き、私は、メディア界の感覚・意識で「美」を感じます。確かに、聴覚を通して音楽を聴き、メディア界感覚・意識で音楽を感じます。では、聴覚とは何でしょうか。音楽、音とは何でしょうか。聴覚とは、現象界における感覚なのでしょうか。ここでは、私の直観ないし直感で言います。ある意味で、私の聴覚は分裂しています。耳で聴くと同時に、身体ないし身心で聴いています。音楽の場合とします。あるいは、身体全体で聴いていると言ってもいいのかもしれません。こういうことが言えると思います。現象界とは、抽象形式化された感覚知覚界であります。だから、この現象界の感覚では、音は、抽象形式化されていて、音楽美は失われています。現象界感覚では、音楽美は感知できません。ですから、音楽美を感じているのは、メディア界感覚意識という領域のはずです。これを私は身体感覚ないし身心感覚と考えます。結局、私見、直感では、差異の連結領域であるメディア界を私は感覚・知覚・意識(sense)しています。では、この感覚は、差異の連結自体なのでしょうか。つまり、差異を直に感覚しているのでしょうか。
 ここでは、精緻に考えなくてはなりません。差異の連結として、メディア界はあります。もう少し丁寧に言うと、差異の共立性、連結性、そして、連続化への指向をもった領域です。そして、差異と差異との間にはなんらかの力、強度、エネルギー(エネルゲイア)があります。そして、この力と差異とは、メディア界においては、不可分のものとなっていると考えられます。このメディア界の差異、メディア差異が、いわば、メディア界の実体となります。ですから、メディア界感覚・知覚・意識とは、差異自体を感じているのではなく、メディア化された差異、メディア差異のはずです。そして、たとえば、これが音楽美の実体です。芸術感覚の実体とも言えましょう。このメディア差異を、具体化することが芸術の創造でありましょう。では、この具体化とは現象界化でしょうか。作曲ならば、音符化し、さらに、演奏して、感覚されるものにしますし、絵画ならば、デッサンして、そして、彩色して、視覚で感覚できるものにします。この場合の感覚とメディア界の感覚とは少し異なるでしょう。メディア界の感覚を内的感覚と言うと、この具体的感覚は外的感覚と言えるでしょう。しかし、内的感覚が外的感覚に表現されているわけです。即ち、内的感覚を内包したものとして、外的感覚があることになります。ですから、内的且つ外的感覚、即自的且つ対自的感覚ということになります。
 それでは、この内的且つ外的感覚である芸術作品、アート作品とは、現象界のものと言えるのでしょうか。確かに、現象界に存在はしています。しかし、芸術作品は、メディア界を表現して現象界に存在させていると言えるでしょう。しかし、芸術作品、アート作品は、現象界的なものではありません。ここは、少し不思議な事象です。つまり、感覚とは何かということになります。抽象形式である感覚と現象界が一致します。結局、抽象形式感覚である現象界の現象的材料を用いて、メディア界感覚・意識を表現したのが芸術作品です。作品とは、アートワークとは、ですから、メディア界的現象界ないしメディア界的現象体と言えるでしょう。そして、それを観照、観賞する者、芸術作品の享受者は、そこから、自身、自己の内的なメディア界を喚起されて、それで、芸術美を感得するのです。
 結局、感覚とは何かということになるでしょう。結局、感覚(sense)とは、メディア界と現象界の境界にあるということになるでしょう。すると、不連続的差異論からは、メディア界の現象面にいちおう当たります。しかし、メディア界と現象界の境界と言ったとき、単に、メディア界の現象面だけを指しているのではないでしょう。なぜならば、メディア界とは、イデア面をもっているからです。すなわち、感覚とは、イデア界/メディア界/現象界という世界構成の、/メディア界/を表出しているものでしょう。即ち、イデア面・メディア界・現象面が感覚であると言えるでしょう。そして、芸術がこの感覚世界を表現すると言えるでしょう。とりわけ、芸術ポスト・モダンがこれを表現しているのでしょう。セザンヌから始まる芸術ポスト・モダンです。しかし、この芸術ポスト・モダンは、その流れが、喪失したようです。感覚が現象界化したからです。しかし、これはいわば永遠ですから、いつかは復活します。芸術ポスト・モダンとは、世界の永遠の感覚を表現していると言えるのですから。




検討問題1

1) メディア子は、感覚できるのではないか。感覚とは何か。
2)「わたし」とは、仏教では、空であるが、それは、メディア界の差異、メディア差異ではないのか。仏教では、「わたし」とは「わたし」ではないものであり、同時に、「わたしではない」でもないという視点をもつ。非A且つ非非Aである。不連続的差異論から見ると、「わたし」すなわち自我とは、メディア界の差異が基礎となって、それが連続化されたものである。だから、「わたし」を脱構築すると、メディア界の「差異」になるはずである。すると、「わたし」の根源ないし本質とは、メディア界の差異、メディア差異(差異の連結)である。そして、その差異は、いわば原型性をもつだろう。そう、差異原型、差異構造と言ってもいいだろう。これが、現象界の「わたし」になると言えるだろう。すると、この差異原型なし差異構造とは、ある意味で、普遍的であろう。これは母型である。問題は、この母型が、一般的に普遍的なのか。それとも、特異的に普遍的なのかである。
ここで、少し整理しよう。私の直観を言おう。「わたし」とは、メディア
 界的に言えば、「非わたし」であり、かつ、「わたし」である。つまり、
メディア界の事象が、現象界の「わたし」になっているのである。する
 と、「わたし」とはメディア界の差異の連結が本体となる。差異の共立とし
 て、「非わたし」であり、差異の連結・連続として「わたし」である。
結局、「わたし」とは、メディア界の差異連結である。そうならば、「わた
 し」は、メディア界の差異連結として、永遠であろう。つまり、差異連結
 が「わたし」であり、これは、メディア界において永遠である。ならば、
 永遠回帰が生じる。メディア界の差異の反復として、「わたし」が生じるだ
 ろう。しかし、メディア界の差異の反復とは、一種サイコロ遊びではない
 だろうか。多様な差異がある。それを、サイコロのようにして、振るので
 ある。d1ーd2ー・・・dnという場合、そして、d1ーd3ー・・・
 dnという場合がある。
このように考えると、「わたし」とは正にメディア界の差異の反復という
 ことになる。そう、やはり、個別性とは現象界の多様性であり、メディア
 界においては、同一なのではないか。
 



「わたし」とは何か

メディア界から見ると、「わたし」とは、「わたし」への指向であり、同時に「非わたし」への指向です。これは仏教が説くものです。A 即 非Aです。 (鈴木大拙は、即非と言いました。)これは、不連続的差異論から見ると、差異の連結のことです。d1⇔d2⇔・・・・⇔dnです。⇔が即非です。「わたし」とはd1ーd2ー・・・dnでありますが、結局、根源は、メディア界です。すると、「わたし」が死んだ場合、差異の連続体は解消して、差異の連結体に還るでしょう。メディア界に帰還するでしょう。ここで、重要なのは、このメディア界の連結体です。思うに、この連結体において、人類は共通でしょう。この生成変化である現象界において、多様性が生じるのでしょう。結局、「わたし」が死んだとき、「わたし」は差異の連結に還ると言えるでしょう。




メディア界とは何か

狭義のメディア界と広義のメディア界ですが、単にアナロジー的なものでしょうか。前者は、差異の連結領域です。ですから、この概念を現象界に適用しますと、個の連結領域として、メディア界がありえます。そして、個の連結領域とは、正に、情報・伝達・交通・通信の領域です。そして、これは、ITが得意の領域です。マスメディアも、連結領域ですが、全体と個という近代型です。マクルーハンのメディア論は、近代メディア論でしょう。今日、ポスト・モダン・メディア論が必要です。それは、不連続的差異論の説くメディア界の概念の適用で形成されると思います。ブログというITメディアは、正に、個の連結メディアです。
 さて、もう少し理論的に考える必要があります。イデア界の不連続的差異は、特異点であり、現象界の特異性と通じます。ですから、イデア界を現象界に重ねます。すると、当然、本来のメディア界も現象界のメディア界となります。つまり、情報・伝達・交通的メディア界となります。わかりやすくするために、イデア界を差異界としましょう。すると、差異界/メディア界/現象界となります。そして、現象界もまた、差異界ですから、

差異界/メディア界/差異界

となります。これが、ポスト・モダンの世界です。
後で、より理論的に、より精緻に論じたいと思っています。





雑談:パースペクティブ・視点・ものの見方の重要性:一神教多神教

今、田舎の実家に来ているが、庭は、雑草で、いっぱいだし、耕作をしていない土地も、セイタカアワダチソウ他でジャングル状態である。私は以前、草取りで、膝を痛めたので、また、ぶり返すのが怖くて、草刈りを躊躇している。しかし、今日は、台風一過で、猛暑である。思うに、草を刈ったら、日射が直接土に達して、土が加熱されて、その熱気で、気温が高くなるだろう。ということで、今、雑草が生えているから、草が熱を吸収して、いくらか温度を下げているのだ。そう考えたら、草刈りは、必要ないことがわかった。農業するなら、別である。雑草に夏の太陽の熱を吸収させて、エアコン機能をさせようと思う。確かに、見た目はよくないが、田舎であり、人は少ないので、たいしたことはない。雑草というと、目の敵であるが、しかし、いわば、益草となる。必要な箇所の草刈りはやろう。
 ここで、少し飛躍させて、美観の問題を提示したい。景観美の問題である。私は、最近の公園のレイアウトを、シンメトリー的で、日本人の美感に合わないと思っている。(ついでに言えば、看板の文字のデザインも、平板で凡庸だと思う。)私の知る整備される以前の野趣の残っていた公園の方が、和む感じがありよかった。秩序の問題である。喩えれば、フランス式庭園とイギリス式庭園の違いである。きわめて人工的であるものの、後者は自然の曲線等を生かして造園しているので、前者よりは、和みを感じる。私が言いたいことは、私の感覚では、雑然としたものに、落ち着きを感じるのだ。整然と秩序化されたものには違和感が強い。つまり、統一的観点か多元的観点かの違いであろう。前者は、一神教・自我的視点(連続・同一性の視点)であり、後者は多神教・メディア界的視点である。セザンヌピカソ等の芸術ポスト・モダンの視点と通じる。日本はハイパー・モダンになっているので、ハイパー西洋主義となっているのだ。(これが、保守・反動・ナショナリズム全体主義路線と通じるのである。)私としては、後者のいわばカオスモスの視点を美観、景観美等に取り入れるべきだと思う。

p.s. カオスモスとはメディア界のことであり、多元生成変容性をもつ。乱雑、でたらめ、滅茶苦茶ということではない。池泉回遊式の日本庭園は、カオスモス的である。

http://www.ne.jp/asahi/doko/net/link7mitikusa/keisyuuen/keisyuuen01.jpg





脱自我の方法2:単独的な時空間を獲得すること

イギリスの小説家、ヴァージニア・ウルフは、女性が自立するには、これこれの収入と、自分の部屋が必要だと述べました。ヴァージニアは、フェミニズムの先駆者の一人です。この具体的な発想を借りると、脱自我のためには、少なくとも自活できる収入と自分の部屋や家が必要です。そして、脱自我のための時空間と経済の余裕をもてる収入が必要です。すると、現在の経済生活は、きわめて、貧しいと言えましょう。とにかく、物価が高すぎます。また、労働環境が不安定過ぎます。きちんとした政策がなくてはいけません。
 少し脱線しましたが、とにかく、脱自我を新構築するには、現実的条件として、単独の場・時空間とそのための収入が必要です。

p.s. ですから、経済知が必要です。ITを活用した経済技術も必要でしょう。経済学というよりは、経済科学、経済哲学、経済の智慧が必要なのでしょう。





脱自我の方法1

近代的自我を解体して、メディア界を賦活・覚醒させて、個、特異性、差異を発現させる方法をこれから考察していきたいと思います。
 簡単に基本的な方法をあげます。

1)知的な経験・体験的な方法
2)感覚的な経験・体験的な方法

結局、この二つの方法になると思います。ここでは、簡単に触れますと、知的な方法もいくつかに分かれます。

知的な方法
A)優れた文学を読む
B)優れた哲学を読む
C)優れた教典を読む
D)優れた科学書を読む
E)外国語を身につける

簡単に言うと、文学、哲学、宗教、科学(数学を含める)の古典を読むことです。私の趣旨は、各人の読書における経験・体験が深く喚起されて、身心的に変容することにあります。単に知的な経験というよりは、その各人の身心的構築が変容するような経験です。教養小説という考え方がありますが、それと重なります。しかし、教養小説とは、いわば、青年の段階の経験・体験的文学と言えるでしょう。でも、必要だと思います。
 文学の次に、思索を深めるために、哲学や宗教の書物が必要だと思います。優れた文学は、哲学や宗教の問題を含んでいます。そう、また、自然科学の問題も含んでいます。
 そして、自然科学や数学の理科系的な書を読み、理数的な思考に接して、理数的発想を学びます。
 そして、外国語を身につけることが、自国語の発想とは異なる発想、ものの見方を培うのに重要です。
 付け加えますと、音楽、美術、映画、演劇、ミュージカル、漫画、等々にも、優れたものがあります。しかし、基本は、文字言語から入るのがいいと思います。というのは、言語的想像力・思考力の涵養がまず必要だと思うからです。
 次に、感覚的な経験・体験的な方法について触れます。

Ⅰ)単独的に、都市の喧噪から離れて、自然に接すること。
Ⅱ)単独的に、諸外国に行って、他国の人間、文化、社会に接すること。
Ⅲ)単独的な感覚・知覚・思考をもち、それに吟味を行うこと(デカルト的方法)。

これらは、感覚的経験・体験的に、自我の慣性を「脱構築」して、新鮮な純粋な感覚・知覚・意識の基層を露わにするためです。




応用14:自我欲望の快感・自惚れはどこから生じるのか

自我の自惚れは、どこから来るのでしょうか。精神分析ラカン)では、鏡像段階を説き、鏡像を自我像として、固定して自我が成立すると言っています。これは、連続・同一化と言えます。自我像へと連続・同一化するのです。像・イメージがポイントでしょう。因みに、女性は鏡を見る人と呼びたいです。これは、神話的にはナルシスの神話、ナルシシズムに通じます。連続・同一性の欲望です。ルネ・ジラールの模倣欲望と通じます。人間の連続・同一性の指向が、自我形成においては、鏡像的イメージを契機にしていると言えるでしょう。この鏡像的イメージとは何でしょうか。人間の子供だけが、鏡像の自我を確認すると言われます。これは、言語習得と関係します。言語を介して、連続・同一性の世界・現象界・自我が形成されるからです。すると、言語と自我とイメージが結びつきます。これは、一言で、連続・同一性の欲望と言えるでしょう。
 ここで、メディア界の構造について考えてみます。差異の連結が存しています。これが、連続化するのが、現象界です。メディア界と現象界の接点、境界に、言語・鏡像があります。この連続・同一性の欲望とメディア界の関係はどうなのでしょうか。差異の共感共立がメディア界にあると言いましたが、それは、差異の共存性をもっていて、多元性の方向で、自我という統一性はもっていません。個的ではあります。しかし、問題は、この共感共立性を、一体感として、連続化してしまうことです。それは、差異の連結において、連続化の志向が生じるからです。ベクトルです。つまり、メディア界において、錯視される連続化の志向があると言えるでしょう。共感共立性という差異の志向を、連続化の志向と錯視するのです。これが、自我鏡像であり、言語習得でしょう。簡単に言えば、メディア界には連続化への錯視・錯覚を起こす構造があるということです。この連続化の錯視が、自我へと連続・同一性化するのであり、ここで、共感共立の歓喜が、自惚れ、ナルシシズムへと転換されると言えるでしょう。歓喜は無欲ですが、自惚れは、歓喜が連続・同一性へと固着して、執着となります。これが、自我欲望やその快感・自惚れの発生です。煩悩の発生です。慢心、驕り、高慢、暴力等々が発生します。
 ということで、結局、メディア界の差異の連結のもつ連続・同一性化への錯視志向が、自我、自我欲望、自惚れの発生の起因であると考えられます。





応用13:自我の欲望とは何だろうか:一神教、自我、超多神教

メディア界を否定するようにして、連続・同一性の自我が形成されます。精神分析ラカン)は、想像的ファルスを象徴的ファルスへと転換して、自我である象徴界を形成すると考えています。私見では、これは、父権的な構成です。連続・同一性と言語が一体化して、自我、父権的個体が形成されるのだと思います。このとき、差異、メディア界が排出されます。差異よりも、連続・同一性が肯定されます。二項対立です。差異はいわば連続性・同一性によって威圧され、排出されるのです。自我の暴力があるのです。この差異から連続・同一性への転換は、人類進化にとって、一つの中心的契機です。このことに関して、一神教の発生と結びつけて述べました。苛酷な自然という条件を言いました。砂漠という苛酷な自然条件において、差異から連続・同一性への転換がなされると言いました。すなわち、超越神を仮想した自我の肯定です。メディア界を否定した超越神による自我の称揚です。これは、思うに、イデア界と自我とを結びつけたのです。即ち、「父」と自我との連結です。思うに、これは、メディア界的な多神教の思いもつかぬ事態と言えましょう。結局、自我形成とは、単純な連続・同一性によるというよりも、メディア界を否定する動機によって、メディア界を超越した領域と連続・同一性とを結びつけたと言うべきでしょう。そして、自我欲望とは、メディア界の強度を超えたイデア界的虚力と結びついています。これは、ある意味で、観念的力です。抽象的力です。これは、メディア界を形成する力が正の力ならば、これは、それを解体する負の力です。これは、イデア界の力です。このイデア界の力が、連続・同一性の力(超越論的形式の力)と結びついているのです。ですから、自我とは超越的自我であり、強固です。正に、サバイバルの二項対立です。これが自我・一神教の本質でしょう。グローバリゼーションは正にこれです。結局、自我欲望とは、イデア界的連続・同一性=自我の欲望であり、超越的次元をもつので、無際限、無限の欲望となります。これが資本主義と結びつくと、自然その他をむさぼり尽くして破壊の限りを尽くすでしょう。永遠の破壊です。これが、ユダヤキリスト教一神教・自我の意味です。(イスラム教は、一神教でも、決定的に異なります。イスラム教は自我肯定はありません。メディア界を肯定して、イデア界である「アッラー」を賛えているのです。後で、検討します。)超越的な無限の欲望、それが自我の欲望です。これは、完全に地球を破壊します。(アメリカ人は、自分たちの資源の無駄遣いを、感じていないと思います。)
 ということで、自我の欲望を一神教に返って考察しました。では、それに対する処方箋は何でしょうか。ポスト構造主義が、この一神教的自我の解体を目指していました。しかし、それは、後退しました。一神教的自我を脱構築するには、メディア界の再肯定が必要です。否定・排出されているメディア界を復活させることです。そうすると、差異の共立、差異の多元性が生起して、ポスト自我、個、特異性となります。そして、さらに、複数の不連続的差異をイデア界に確認することで、決定的に、一神教は解体します。いわば、超越的多神教となります。ヤハウェが、新たな神々となります。超多神教です。では、メディア界の多神教とこの超多神教は具体的にどう違うのでしょうか。メディア界の多神教とは、ギリシア神話古事記等に表現されたものです。そこでは、連続性があります。しかし、超多神教イデア界の多神教とは、不連続的です。思うに、新しい神々です。これまで、存在しなかった、ないし知られなかった神々、超神々です。イギリスの作家D.H.ロレンスは未知の神、暗い神と言いました。それは、イデア界の見知らぬ神々を暗示していたのではないでしょうか。それは、少なくとも、不連続的差異という神々と言うことができます。




応用12:カントの純粋理性批判とは何か:自由、必然、偶然

有名なアンチノミー(二律背反命題)がありますが、ここでは、自由と必然を取り上げて考えてみたいと思います。
 特異性において、個の自由が即自的にあります。そして、それに対して、連続・同一性の権力・暴力・支配が阻害します。ですから、対自的な対処が必要です。自由は、闘わないと保持されません。さて、自由に対して、自然の必然性があります。自然的身体の必然性があります。呼吸、食事、睡眠等々を行わなくてはなりません。また、社会・経済生活の必然性もあります。生計の資を稼がなくてはなりません。ですから、単純に考えて、自由と必然性の間に人間は存しているのがすぐわかります。しかし、カントは、この対立を二項対立的に論じています。自由なのか必然なのかです。AかBかです。自然的必然性が究極的に人間を規定して、自由はないのか。それとも、自由な意志によって、自然の必然性を変容できるのか。決定論か偶然論かにもなると思います。これは、ポスト・モダン的問題でもあります。
 この問題を不連続的差異論から見てみましょう。メディア界を考えます。差異の連結する領域です。ここのメディア・ロゴスが、本来の自然のロゴスであります。このロゴスが抽象形式的に現象界へと転換されたのが近代であります。ロゴスないしイデアが、抽象形式固定化されたと言えます。つまり、疑似ロゴス、疑似イデアとなったのです。この近代形式ないし近代言語においては、現象界の必然性を言うことはできます。酸素と水素を反応させて水を生じさせるというのは、自然の必然性です。現象界の必然性です。しかし、これは、あくまでも、差異の連続・同一性化による現象界の事実・事象の必然性です。その連続的現象の背後、裏面には、メディア界の差異の事象があります。不連続な差異が連結しているという事象です。そして、この差異の連結は揺らいでいるのです。相対的であり、また、粒子/波動の相補性的であります。このゆらぎを排出・隠蔽した連続・同一性において、必然性があるということになります。
 では、根源のメディア界の差異の連結はどういう意味をもつのでしょうか。先にも言いましたように、これこそが、自然の真相・真理・実在界です。現象界は仮象です。「見え」です。現象界・仮象の必然性とは、古典近代自然科学的なものであり、実はメディア界的自然のロゴスの近似値に過ぎません。ですから、現象界の必然の絶対性は否定されます。ということで、メディア界の自然のロゴスといういわば法則があることになります。これは確かに必然性と呼べると思いますが、しかし、現象界の必然性とは全く異なる必然性です。差異の順列や様相の変換が為される領域です。ここでは、差異と差異との対話、コミュニケーション、交換等々による生成変化が常に行われています。差異の差異化です。ですから、メディア界の差異の連結であるロゴスは、単にゆらぐばかりでなく、生成変化しています。この点で、必然性だけでなくて、偶然の要素があると思います。自然一般に関しては、そのように今は言いたいと思います。
 では、人間の場合の自由とは、この観点からはどうなるのでしょうか。連続・同一性である自我に対して、個は特異性において自由であります。これは、メディア界、メディア界の自然のロゴスの観点から見るとどういうことになるでしょうか。特異性とは、メディア界、メディア界の差異の連結のことです。メディア界の差異の共立(イデア面)でもあります。ですから、特異性の自由とは、メディア・ロゴスであり、その意味で必然でありつつも、同時に差異の差異化の変異性をもつ点で、偶然であると言えます。スピノザは自由即必然と言いましたが、特異性=メディア・ロゴスという点では、ほぼ正しいですが、しかし、差異連結の偶然性ということが欠けているのではないでしょうか。
 ここで、簡単にまとめますと、カントの自由と必然のアンチノミーですが、不連続的差異論の観点からは、メディア・ロゴスが、自然の必然性を生んでいると考えることができます。それは、現象界の必然性を包摂しています。そして、自由とは、メディア・ロゴスに基づくのであり、やはり、必然的なものがありますが、しかし絶対的ではありません。自然は、必然性と同時に偶然性を内包していると考えられます。メディア界の差異の連結領域において、差異は反復されて、新たな順列や様相を生むのであります。ですから、これは、偶然性と言えます。結局、メディア界において、差異のロゴスは、必然と偶然を産出して、また、人間においては、自由の感覚・意識・実践をもたらす言えるでしょう。必然と偶然と自由とが相互浸透しているのが世界の実相だと思います。





応用11:音楽の美2:身体・身心的聴覚美:メディア界的聴覚美

音楽の美を感じる聴覚とは何でしょうか。また、音楽に限定しないでも、音声、音(音響)の美を感じる聴覚のあり方はどういうものでしょうか。別に音楽に関わらずに、ふだん、話している言葉の音声に美を感じることがあります。今日、テレビや日常(東京)で聞こえる音声は、美的ではないと思います。そう、私見では、日本語の音声の美が損なわれているようです。また、音楽、歌謡・ポップスもそうです。聴いて、癇に障るものが多く流れています。確かに、音の美が失われています。以下、音の美について考察したいと思います。
 不連続的差異論から言うと、先に述べましたように、芸術はメディア・ロゴスを表現するものです。音楽もそうです。では、音楽を享受するとき、感覚はどうなっているのでしょうか。これも、当然、メディア界的感覚意識で享受すると思います。では、聴覚とは何でしょうか。先に、近代言語について述べたことを想起してください。すなわち、抽象形式が物質的現象界を構成しているのです。この近代言語は、感覚知覚を規定ないし規制すると思います。つまり、カントの超越論的形式と等価です。すると、聴覚もこの抽象形式を形成して、連続・同一性化します。発声も、そうなります。すなわち、音、音声、発生等が、近代言語化、抽象形式化、連続・同一性化されます。つまり、メディア界的感覚・意識を排出・隠蔽しているのです。メディア界的感覚・意識がいわば、音楽の美の根源ですから、近代においてそれが、失われます。結局、近代主義によって、音楽、音声、音の美も喪失したと言えるのです。メディア界の真正な音楽が喪失しているのです。
 私は現代の音楽の大半が聴くに堪えないものであり、60ー70年代の音楽の方が今でも聴けると極論しましたが、やはり、不連続的差異論の芸術論から言って、それは論理的に検証されたと考えます。即ち、現代日本は、ハイパー近代主義、ないし近代主義の大反動期であり、完全に、メディア界を喪失している、芸術を喪失しているということです。また、単に、芸術だけでなく、倫理も、個も、思考力も喪失しています。つまり、「神無し」人間です。死せる魂です。保守化、ナショナリズム化とは、このことでもあるでしょう。また、政治の退廃も、これと関係するでしょう。日本人は生ける屍になっているのです。確かに、日本の亡国の危機があります。ハイパー・モダンではなくて、ポスト・モダンとならなくてはなりません。メディア界を賦活させる必要があります。





応用10:音楽の美とは何か:

今は、十分述べられませんが、簡単にコメントしますと、やはり、音楽も真理・真相に関係していると思います。美術と科学がメディア・ロゴスという点で一致したように、音楽もそうだと思います。メディア・ロゴスを音化したものが音楽であり、音楽の美だと思います。結局、メディア・ロゴスを現象界の音で表現することになります。現象界の音は、一般形式があります。ハーモニー、リズム、メロディー、和音、音階、等々あります。これによれば、形式的な美は生まれますが、しかし、それらは、メディア・ロゴスとは言えないと思います。メディア・ロゴスは、差異の連結、差異の共立、差異の共感等であります。このロゴスには、微妙な力学があります。音差異1と音差異2とが、独立しつつ、共感共立するのです。音差異の志向性です。これは、ある意味で霊妙です。現象界の音は、いわば音響であり、物理的です。しかし、音楽の音とは、物理的であると同時に、メディア界的なのです。このメディア界的波動的美をもっていると思います。音差異の独立性はいわば垂直性で、リズムを、そして、音差異の共感共立性は水平性でメロディーやハーモニーを生むのでしょう。そして、これらが、多元的に生成変容しています。ポリフォニーとなります。無限変化をします。これが、メディア・ロゴスの音楽です。とまれ、律動感と共感性があるでしょう。共感性は、単に聴覚的なものでなく、身体的、身心的です。このメディア・ロゴスの音楽とは、身体的、身心的に律動性、共感性をもっていると言えると思います。

p.s. 美空ひばりの歌唱には、メディア界的生成変容性、無限変容性が感じられます。音色、音調のグラデーションに満ちています。





「わたし」とは何か

福知山線脱線事故の特集をnhkで行っていましたが、亡くなった人の家族の心痛を伝えていました。亡くなった方は、永遠に命が奪われたのです。そう、仏教的に言えば、空に返ったのです。霊ではありません。もし、霊ならば、復活します。では、死者はどうなったのでしょうか。死者は、空、メディア界に返ったのです。そう、差異に返ったというべきかもしれません。自我とは、正に、空です。個とは、差異であります。結局、連続・同一性である自我とは、不存在なのです。連続幻想です。結局、「わたし」とは差異でありましょう。それも、不連続の差異です。「わたし」は元々存在していないのです。「わたし」は複数の不連続な差異です。ということで、脱線事故による死者とは、何でしょうか。死者は、メディア界の差異であり、空です。そして、彼らも、私たち生者も、空であり、不連続な差異であります。結局、死者とは私たちなのです。イラク戦争の死者も私たちです。差異が殺戮されているのです。連続・同一性の暴力によって、差異が殺害されているのです。結局、自我、「わたし」とは幻想であり、存しないものです。私は空です。殺されるのは差異です。





仏教とキリスト教:空と父:イデア界とメディア界

後で、「父」と「空」が、不連続的差異論において、どこに帰属するのか検討したいと思っています。以前、「父」はイデア界であると言いましたが、それは、おそらくそうでしょう。では、仏教の「空」はどこなのでしょう。Aでもなく、非Aでもないという仏教の論理とは、メディア界的です。すると、「空」は、メディア界に帰属しています。私の予見では、空はイデア界なのです。この矛盾をどう考えたらいいのでしょうか。空とは、連続・同一性の否定です。すると、それは、メディア界の差異の連結でありますが、差異の連続化を脱構築しています。つまり、メディア界の現象面を否定しています。結局、メディアAを説いていると言えるでしょう。しかし、空という表現は強いものです。私の勘では、メディア界的差異の連結をも解体する響きがあります。メディア界の空は、差異の連結があり、原有であり、原無であり、ある意味で、空ではありません。しかし、空とは、根源的に、連結を解体する意味合いを感じます。ですから、メディア界を超えたイデア界を感じさせるのです。全く形而上学的な領域です。Aでもなく、非A でもないというのは、Aがあるのです。つまり、差異の連結である原Aがあります。しかし、空は脱Aです。あるいは、超越Aです。虚のAと言ってもいいのかもしれません。





応用9:メディア界と言語3:ポスト・モダン言語

近代言語が現象界の抽象形式の言語であり、ポスト・モダンの言語とは、メディア界の言語であります。では、後者の言語はどのような言語なのでしょうか。メディア界とは事象そのものであります。(フッサール現象学的還元、自然的態度のエポケー〔判断停止〕とは、メディア界の探究と言えましょう。)ですから、ポスト・モダンの言語、メディア界の言語とは、いわばロゴスであります。真正なロゴスです。それは、知であり存在であります。また、「神」ないし「神々」の領域と言ってもいいと思います。そう、プラトンの『ティマイオス』のコーラ(あらゆる形態を生み出すもの)も、メディア界を指しているのでしょう。この領域が、これまで、宗教、神話、哲学、神秘学等における母胎と言えるでしょう。二宮尊徳の、一円混沌という考え方は、このメディア界を指していると思います。(一神教の問題はなかなか難問です。始原をメディア界とするか、イデア界とするかです。原則的には、一神教は偶像を禁止します。この意味では、イデア界的だと思います。しかし、天地創造という側面では、メディア界的だと思います。そう考えると、旧約聖書の神は、二種類ではないでしょうか。この問題は後で検討したいと思います。)
 ということで、ポスト・モダン言語とは、真理・真相の言語であると言えます。それは、また、芸術の言語でもあります。現象界を多様に生成するメディアに変換するのですから。こうなると、科学と芸術とが、ロゴス的には同一であると言えます。また、宗教も、やはり、ロゴス的に同一になります。万教帰一です。しかしながら、仏教やヒンドゥー教が一種主導性をもつように思います。なぜならば、空や無からの創造・生成を、論理的に説くからです。
 結局、ポスト・モダン言語(ロゴス)とは、一種占い(裏綯い)のようです。現象界の裏を見るのです。眼光紙背に徹すです。裏とは、真相です。サルトルは実存は本質に先立つと言いましたが、実存とは、裏です。メディア界です。また、本質です。つまり、特異性という実存=本質なのです。





応用8:メディア界と言語2:近代言語とポスト・モダン言語

言語がなければ、真理は記述できないでしょう。ここでは、数学も言語に含めて考えています。問題は何なのでしょうか。現象界の真理を記述するには、言語を使用します。では、言語とは何でしょうか。これは、メディア界における差異の連結から差異の連続化へと転換するときに、形成されるものだと考えられます。すなわち、差異の連続・同一性の固定する媒体が言語だと思います。すなわち、言語によって、現象界を確定します。しかし、言語と言っても、単純ではありません。神、霊、仏、天使、悪魔、物の怪、等々という言語もあります。ここで、少し整理しますと、近代以前と近代以後では、言語化の意味が異なります。近代以前は、メディア界を基礎として、現象界を記述していたと言えます。近世の自然科学は、神の宇宙を数的な秩序として記述しようとして生まれたものです。コペルニクスがそうです。その後、メディア界が否定されることとなります。この理由は複雑だと思います。実験、産業、機械化等々によって、物質主義的自然観を形成されて、抽象形式的自然観となり、それが、現象界となったと考えられます。すなわち、抽象形式という言語が、現象界を固定したのであり、このため、メディア界が喪失されたと言えます。近代の観念論/唯物論の二元論によると言えるでしょう。すなわち、抽象形式自体は、観念形式でありますし、その抽象形式をもつと考えられた自然が唯物論的なものとなります。この近代化を抽象形式言語化と呼べます。すなわち、メディア界的具象性を喪失した言語化です。メディア界的感覚・意識を喪失した言語化です。メディア界的感覚・意識とは、直観であります。このポイントを強調したいと思います。近代主義は、メディア界の喪失・忘却なのです。この失われたメディア界の復興が、様々な分野で行われてきました。とりわけ、19世紀中期からの哲学の動きが、そういうものであると言えましょう。実証主義的科学に対するオールターナティブな知、学の運動です。カント/ヘーゲルに対する運動から発しました。一つは、単独的哲学路線、一つは、現象学的路線です。(おそらく、構造主義は、現象学と共通項をもっていると思います。)ともに、抽象形式言語が排出したメディア界の感覚・意識の復権を唱えています。そして、前者の一般形式的「真理」に対して、後者は、メディア界的「真理」を説いています。前者は、古典近代科学的真理と言えるでしょうし、後者は、ポスト近代科学(ポスト・モダン)的真理と呼べるでしょう。
 結局、どうなったのでしょうか。自然科学、物理学を見ると、相対性理論量子論によって、メディア界的真理が出現したと言えるでしょう。すなわち、これまでの現象界的真理は、近似値であることが判明したのです。即ち、現象界の抽象形式である時間形式、空間形式が、疑似真理的であったということです。それは、それぞれ独立したものではなくて、相対的であるとわかったのです。あるいは、ミクロの物質は、単に粒子でなく、波動であることがわかったのです。つまり、物質は抽象形式の現象物質ではなかったということです。これを記述しているのは、実は抽象形式の言語です。近代の言語で、ポスト近代の事象を説明しているのです。だから、この点で、あいまいさ、ないしズレが生じているでしょう。思うに、この故に、相対性理論量子論は、日常の意識には、ぴんと来ないのではないでしょうか。つまり、相対性理論量子論の自然科学革命は、新たな自然の事象を発見しながらも、それを十分に記述できていないと考えられます。つまり、不連続的差異論から見ますと、メディア界の事象を現象界の言語形式で記述しているのでありますから。ですから、二つの物理学革命の真理を明確にするには、ポスト近代の言語が必要です。それが、不連続的差異論の言語だと思います。すなわち、不連続的差異を自然界の究極的元素とする言語であります。この不連続的差異の言語によって、相対性理論量子論が必要・充分に記述できると確信しています。イデア界から発するメディア界の事象が、結局、自然現象の真相・真理であるということです。これまでの近代的現象界、抽象形式的現象界は、構造的自然に過ぎないということです。メディア界的自然が真相・真理なのです。結局、不連続的差異論は、抽象形式言語、近代科学言語を包摂したポスト・モダンの言語であると言えます。





不連続的差異論:応用7:メディア界と言語

先に、本件について述べましたが、さらに検討を続けましょう。現象界において、言語的連続化がなされると言いました。メディア界の差異の連結が差異の連続化となるのです。そして、連続・同一性という現象界の個体が生じます。問題は、メディア界を否定する現象界、自我主義であります。私の考えは、メディア界に根ざした、現象・言語界なら問題はないというか、それが正当であるということです。そして、現象界のみの言語は、問題であるということです。
 以前、私は、メディア界には、ロゴス、メディア・ロゴスがあると言いました。それと言語を比べると、本来、言語、現象言語は、メディア・ロゴスに即してあるべきです。これは、詩でしょう。しかし、現代、詩を日常語るわけにはまいりません。すると、メディア・ロゴスと言語との二重性が生じてきます。そして、この二重性を表現するのが、文学や哲学の文系であります。しかし、近代以降、この二重性が、近代科学によって消滅します。これは、科学の自殺のようなものです。とまれ、結果が、重視されて、メディア・ロゴスは否定されて、現象ロゴス、現象言語が中心となります。先に私が述べたことです。この変化の根因は何か、考えてみましょう。
 近代において、当然、近代科学が発達しますが、これは、真理の現象界化です。というか、現象界の実験・観測によって、真理を記述します。しかし、ここには、メディア界の観点が欠落しています。つまり、現象界の言語・数字的記述によって、真理が記述されます。メディア界は消去されます。いわゆる、物質論・唯物論的科学となります。つまり、後にカントが公式化した超越論的形式が近代科学の基礎となるのです。
 では、このメディア界の消去・疎外とはどういうメカニズムによるのでしょうか。つまり、現象界を唯物論的に見る見方の成立です。物質としての現象界の見方の成立です。これは、数量的形式化によると言えるでしょう。歴史的に見ると、メディア界的に捉えていた宇宙・自然を数量・数式的に把握したことにあると思います。ここから、宇宙・自然を数量・数学的に捉える唯物論が成立したと思います。近世の大科学者は、メディア界を感覚・意識しつつ、宇宙・自然の数量・数式化に努力しました。その後は、メディア界を排出した現象界中心の数量・数式化でありました。これが、古典的近代科学の成立でしょう。そして、私が最初に触れた言語化とは、この数量・数式化と平行というか一致しています。すなわち、言語が、数量・数式化されて、メディア界性を喪失したのです。
 そして、20世紀になって、アインシュタイン相対性理論やボーア等の量子論によって、これが破砕されるのです。つまり、メディア界の事象へと自然科学は、踏み込んでいったのです。しかしながら、事態は、行き詰まりです。なぜなら、メディア界という視点がないからです。現代自然科学は理論的には行き詰まっているのです。 
 結局、近世・近代科学において、現象界が数量・数式化されて、それとともなうように言語化されたと言えます。すなわち、数量・数式=言語化という観念/唯物論の図式が成立したのです。これを後に理論化したのが、カントです。
 その後、19世紀から20世紀にかけて、ポスト近代化の動きが激しくなります。近代の二元論的図式を解体すべき運動です。キルケゴールニーチェ哲学、現象学深層心理学モダニズム実存主義構造主義ポスト構造主義等々です。(マルクス主義は、ポスト近代でしょうか。それは、近代主義の鬼っ子ではないでしょうか。)
 さて、ここで、結論を言いますと、近代言語とは、近代的数量・数式的唯物論の影響を受けているということであります。今、日本で話されている日常言語も、そうです。文学・哲学、宗教言語を排出している事態は、正に、近代主義であります。言語を現象界に限定しているのです。自我言語です。

p.s. 文学、哲学、宗教等の言語を排出していると言いましたが、ここでは、メディア界的文学、哲学、宗教、さらに芸術を意味しています。現象界的文学、哲学、宗教、芸術は、おそらく、ジャーナリズムと一致すると思います。それはそれで、一つのあり方です。しかし、本来は、メディア界に根差すのが、正当です。





応用6:サルトル実存主義共産主義について:サルトルカミュ

もう、四半世紀ないし30年くらい前になるのでしょうか、私は、サルトル実存主義マルクス主義とを結合したことに対して、猛反発というか猛烈な憤りを感じました。これは、私の頭の中では、絶対に結合できないものであったからです。つまり、実存主義の個の感覚・意識(今で言えば、特異性です)とマルクス主義階級闘争観(集合的価値観:今で言えば、唯物論構造主義)は論理的に異質なものであったからです。すなわち、今の言葉で言えば、ポスト・モダン(個、差異、特異性の肯定と共存)と構造主義(超越論的形式・構造の支配)は、結びつかないものだからです。私はサルトルは馬鹿ではないかと思いました。私は、アルベール・カミュの評論等が好きでした。かつて、サルトルカミュの間で、革命か反抗かで、論争がありました。構造か個かに言い直せるでしょう。
 しかし、先にも言いましたが、サルトルの個とは全体性を志向するのですから、マルクス主義共産主義と結びつく一種の必然性を見ることできます。サルトルに欠けていたものは、個の特異性です。ニーチェないしキルケゴール哲学です。現象学実存主義ニーチェキルケゴール哲学の関係は興味深いものでしょう。現象学実存主義は、メディア界を震源にしています。ですから、特異性か連続性かの二元性をもっています。しかし、特異性の方向は、サルトルにおいて無視されたと思います。(この点で、かつての私は激怒したのだと思います。)
 ついでに、言えば、ドゥルーズは、このような背景から、ある意味で、サルトルが失敗した総合を、差異論で行なおうとしたのだと言えます。ドゥルーズニーチェを一つの源流にしていました。ですから、特異性の問題が明確に意識されていました。それと、現象学実存主義構造主義等の問題を、差異論として解決しようとしました。ドゥルーズの源流には、また、ベルクソンがいます。その哲学は、連続的差異の哲学です。いわゆる生の哲学に入れられていますが、生の哲学とは、広義において、現象学に含めることができるのではないでしょうか。現象学は、メディア界の知で、不連続/連続の両義性をもっていたと考えられます。そして、ドゥルーズは、ニーチェ哲学と現象学を、おそらく未分化的に、差異論で統一しようとしたのだと思います。結果は、不連続的差異と連続的差異との混同でした。不連続的差異論が、この哲学の混乱を解決できたと考えています。





参考書:コンサイス20世紀思想事典 第二版 三省堂

少し、高価ですが、これがかなり新しいのでいいのではないでしょうか。私は初版のものをもっています。
http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/dicts/concise-20seiki.html

その他、『現代思想を読む事典』 講談社現代新書 が手ごろです。

ウェブの哲学事典は以下です。
http://dir.kotoba.jp/ddcat.cgi?pwd=777&k=philosophy&w=2&mL=2&DC=100&LC=100&fsz=2



不連続的差異論:応用5:フッサールサルトル:他者への志向性とは何か

久しぶりに、新宿の紀伊国屋に行き、人文・社会科学系の階に行きましたら、サルトル関係の特集がありました。実存主義現象学は、いわば、兄弟です。フッサールの内在的志向性とサルトルの外在的志向性は、直感では、一致すると思われますので、検討したいと思います。つまり、不連続的差異論から検討します。
 簡単に言いますと、フッサールの志向性とは、内在的です。即自的と言ってもいいです。これは、不連続的差異論から言いますと、メディア界における、差異の他の差異への志向と考えられます。d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dnというメディア界における⇔がフッサールの志向性と考えることができます。では、サルトルの外在的他者(存在)への志向性とはどう考えるべきでしょうか。ここで、結論を考える前に、特異性について復習したいと思います。
 特異性によって、個は他者と共立する志向をもちます。このことに関しては、先に、別の箇所で述べたのですが、もう一度考察してみます。再確認します。特異性とは、メディア界の感覚・意識であると言いました。複数の特異点である不連続的差異がそこには存在しますので、特異性の感覚が生起するとは言えます。これは、連続・同一性には還元できません。個は特異性です。そして、このメディア界的感覚・意識とは、共感共立的感覚意識をもちます。それは、一種、空性です。連続・同一性の自我ではなくて、差異共立・連結のメディア界の感覚・意識が主体となっているからです。これは、差異の連結の感覚意識であり、いわば神秘的な感覚・コスモス的な感覚であります。(ヴァージニア・ウルフやD.H.ロレンス等々の多くの優れた作家の意識であります。)そして、共感共立的感覚意識とは、差異が他の差異との共立連結状態にありますから、生起するのではないではないでしょうか。すなわち、メディア界の差異共立連結状態が、いわばコスモス的な、しかも共感共立的な感覚意識を生むと言えるでしょう。
 このように考えますと、予見が正答であることが自ずと出てきます。すなわち、フッサールの内在的志向性とは、正に、メディア界の差異共感共立感覚意識であり、それは、当然、外在的な他者への適用されるのですから、フッサール哲学の知的延長、発展、敷衍としてサルトル哲学があると言えるのです。だから、フッサールサルトル現象学実存主義となります。そうしますと、現象学実存主義構造主義ポスト構造主義ないしポスト・モダンとのつながりが見えてくるでしょう。現象学は内在的構造主義、内在的差異論であり、実存主義は、外在的差異と内在的構造・差異論との接点であり、つまり、ほとんど、ポスト構造主義、ポスト・モダンであります。(ここで、ドゥルーズサルトルを肯定的に述べていたことを想起します。)
 結局、実存主義の問題は、私見では、サルトル共産主義と一体化したことです。私は、かつて、この結合を批判的に見ていました。そう、サルトルの場合は、一種必然性があります。すなわち、彼は、個と全体とを結合して考えていたからです。この全体論が、共産主義と結びついたと考えられます。この全体論は、これまでほぼすべてのメディア界の意識が、陥ったものです。なぜなら、メディア界は差異の連結をコスモス的な感覚・意識と捉えて、一体感として知覚するからです。この一体感、宇宙的一体感、コスモス感覚が、サルトルの全体性を導いていると考えられます。結局、サルトルのメディア界感覚・意識が連続化して、全体性となり、共産主義全体主義と結合したのだと思います。結局、この連続化・全体主義化の問題は、不連続的差異論が、明晰明解明快に、解決したのです。ドゥルーズガタリは、脱領土化に対する再領土化と述べていただけで、解明はできなかったのです。
 因みに、サルトルの『嘔吐』であるが、ロカンタンが、マロニエの根の存在の意識になったというのは、メディア界の差異共感共立感覚意識からすれば、納得できます。一種、仏教に近いと言えます。己が空(くう)となり、共感共立感覚意識から他者に共感して、他者に成るのです。己が空になるとは、正にメディア界の共感共立感覚意識によるのであります。ロカンタンは、特異性の他者志向性から他者存在そのものへと生成変化したのです。
 また、思うに、サルトルの即自性/対自性の理論とは、ほとんどポスト構造主義、ポスト・モダンです。だから、サルトルに後期ポスト・モダンの先駆を見ることができるでしょう。現象学は、中期ポスト・モダンでありましたが、実存主義は、後期ポスト・モダンの先駆・前駆と言えるのです。





記号の変更

メディア界をd1ーd2ー・・というように、ーで記述しましたが、ーは現象界を表記するのに適当ですので、現象界を表記する際の記号として用いることにします。また、メディア界は差異の差異への指向を意味しますので、記号⇔を用いることにします。

d1/d2/d3/・・・/dn [イデア界]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【イデア面】
d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn [メディア界]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【現象面】
d1ーd2ーd3ー・・・ーdn [現象界]





不連続的差異論:応用6:天使、神々、聖霊

少し主張が混乱しましたので、ここで、きちんと整理します。差異とは、知即存在であり、天使のようなものには似ていますが、しかし、それは、あくまでも比喩であり、そのようなイメージはありません。天使は、イデア界の差異ではなくて、メディア界の差異の連結によると考えられます。より的確に言いますと、天使や神々とは、メディア界のイデア面に相当するように思います。すなわち、イデア界とメディア界の境界です。ここは、イデア界であり、メディア界です。差異の共立があり、また差異の連結があります。おそらく、天使や神々とは、イデア面において、このイデア界的超越性とメディア界的連結性の両面を表象しているのではないかと思います。なお、イデア面や現象面は以下の境界となります。

d1/d2/d3/・・・/dn [イデア界]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【イデア面】
d1ーd2ーd3ー・・・ー/dn[メディア界]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【現象面】
d1・d2・d3・・・・・dn [現象界]





不連続的差異論:応用5:天使と神々と聖霊

前回、究極的存在は、イデアである差異であり、それは、知即存在であり、天使のようなものだと言いました。また、多神教の神々にも言及しました。この問題を考えてみましょう。
 イデア界には、不連続な差異が共立しています。

d1/d2/d3/・・・/dn

これが、連結して、メディア界を形成します。

d1ーd2ーd3ー・・・ーd4

ここから、目に見える現象界、「現実」が発生します。

d1・d2・d3・---・dn

私たちが目にしている世界とは、このd1・d2・d3・---・dnのことです。すなわち、差異が連続化していて、同一性を形成しています。たとえば、建物とは、建物として同一性であります。しかし、ほんとうは、様々な建材の連結です。建材を差異と考えていただければよいと思います。建材1・建材2・建材3・---・建材nが、建物、建築物になっているのです。
 さて、ここで、本論に入りますと、イデア界の差異とメディア界の差異は、宗教・文化的にはどのように表象・表現されてきたかです。イデア界には、差異がありますが、これは、直接知覚されることはほとんどないのではないかと思います。知覚されるのは、メディア界での差異です。これは、連結される差異です。そして、差異とは知即存在ですから、このとき、天使や神々として表象されると思います。また、キリスト教聖霊もここに入ると思います。天使、神々、聖霊とは、いわばイメージ化されたものであり、連続的表象性をもっています。本来は、差異の連結態です。しかし、天使は階層性がありますし、神々も多種多様です。これが、思うに、イデア界の差異の特徴を表わしているのかもしれません。一神教は、超越神が「存在」しますが、これは、イデア界自体と考えるべきだと思います。このイデア界=超越神に、複数の不連続的差異があります。この複数の不連続的差異の特性を天使や神々は表象しているのかもしれません。しかし、違う考え方もできます。メディア界における差異の連結の種類が、天使、神々である考えることもできます。今、仮説としては、後者をとりたいと思います。不連続的差異とは、思うに、それとして、同一ではないかと考えることができます。つまり、数学の点、特異点として考えればいいと思います。点、特異点としての不連続的差異です。これが、メディア界において連結して、天使、神々、あるいは聖霊になると今は考えたいと思います。





不連続的差異論のおさらい

これまで、不連続的差異論について、平明に説明してきたつもりです。ここで、わかりやすくまとめたいと思います。
 結局、唯物論的発想を否定しなくてはなりません。物質とは、究極的な存在ではなくて、差異が究極的存在です。では、差異とは何かと言えば、それは、理念的な存在と言うしかありません。イデアです。しかし、原型ないし同一性としてのイデアではありません。差異としてのイデアです。これは、知即存在であります。知とは普通、観念です。そして、存在とは、実在です。しかし、知即存在とは何でしょうか。それは、いわば神だと思います。知性であることが、存在性であるというのは、インテリジェンスな存在です。おそらく、天使というものに近いと思います。これは、アリストテレスのデュナミスという概念に一番近いと思います。これが、メディア界において、連結して、エネルゲイア(エネルギー)となり、それから、現象界が発出するのだと思います。そう、天使とは、イデア界の差異だと思います。神とはイデア界だと思います。また、多神教、たとえば、ギリシア神話の神々は、イデア界の神々(差異)だと思います。D.H.ロレンスは、聖書の神(ヤハウェ)を、神々と見ています。日本の八百万の神々とは、メディア界の神々だと思いますが、しかし、神々とは、イデア界の差異によって、発現していると思います。多神教一神教、不連続的差異論については、後で、検討したいと思います。





善人か悪人かの簡単な見分け方

私見では、というか、不連続的差異論から見ると、人間は、マルチな存在です。ですから、一つの要素に限定することを良しとする考えは、間違っていると思います。勿論、専門は当然必要です。しかし、専門だけに限定しようとする考えを持つ者がいれば要注意です。人間は、基本的に、複数的志向をもっています。





現象界的知性とメディア界的心身感覚知性

フッサール現象学とは、現象界的知性である諸科学に対する懐疑であり、メディア界の探究であったと思います。思うに、仏教と似ていると思います。
 さて、現代の問題とは、完全な反動となった近代主義の一掃です。これが、自我主義であり、物事、諸事象を歪めています。たとえば、偏狭なナショナリズムがそうです。国家主義もそうです。一言で言えば、連続主義による混乱・歪曲・悪意です。これからは、二つの知性が必要です。とりわけ、メディア界的知性が必要です。これが、人類の生存、平和共存の「魂」となります。





理性について:現象界的知性とメディア界的知性:近代とポスト近代

理性は今日ではほとんど使用されない言葉になっています。理性よりはエゴイズムが人間の主導的動機であると考えられているからでしょう。資本主義の経済的動機が強くなっています。(もっとも、資本主義が果たして、エゴイズムなのかは問題です。商品を開発するとき、エゴイズムでは当然だめです。消費者がいて、商品価値が必要だし、知識や技術が必要だし、等々です。)
 ここでは、二つの理性、そして、理性と知性の違いについて考えたいと思います。不連続的差異論は、三層・三元構成ですが、もっとも重要な点は、メディア界を提起していることです。ここは、いわばカモスモス(カオス+コスモス)の領域です。そして、そこから、言語形成を介して、現象界が形成されます。この、言わば、言語・現象界(思うに、言象界と言ってもいいのでしょう)は言語によって分節化され、また科学的知性によって、科学的分節化がなされます。これまで、この知性を理性とも呼んできたと言えます。科学的知性・精神=理性ということだと思います。しかし、この理性は、まだ限定的です。理性には、抑制、制御する精神的能力を含まれています。この側面の理性が、今日、信じられなくなっているのでしょう。抑制ではなくて、欲望の肯定が今日あります。そう、だから、理性とは言葉が使用されないのは当然とも言えます。理性ではなくて、欲望の動機がありますから。諸々の欲望がうごめいていて、これが、資本主義を駆動します。しかしながら、単純に欲望を肯定しているわけではなくて、そこには、知性、合理性等々が入っています。科学的知性を理性と呼ばないなら、現代は確かに、理性という言葉は不要となります。しかしながら、理性は存していると思います。それは、端的に言えば、メディア界的知性だと思います。メディア界は、差異の共存の感覚の存している領域であり、倫理領域です。他者との共存を志向する領域です。ですから、個体ないし主体が諸欲望に駆動されても、メディア界的強度は、諸欲望をコントロールします。つまり、自我主義、エゴイズムを抑制します。自我を個へと変容させます。このメディア界の感覚・意識が理性だと言えます。これは、感覚・意識・知性である理性です。魂、心、倫理、欲望、観念等々の多元性のバランスを取る機能、メディア的機能をもっています。ですから、メディア知性と言ってもいいでしょう。
 ということで、まとめてみますと、理性とは、これまで、混同されてきたと思います。科学的知性とメディア的知性が混同されてきたと思います。そして、科学的知性とは、基本的には現象界の客観的分節化に関係するもので、メディア界を主要な対象にはしていません。(もっとも、人文科学、社会科学は、メディア界を対象に含んでいますが、自然科学に比べて、精密性に劣っています。また、自然科学も、現代科学になるとメディア界を対象にしています。相対性理論量子力学他です。しかしながら、科学的知性は、現象界の知性をベースにして、メディア界を探究していると言えるでしょう。だから、やはり、科学的知性とは現象界の客観的分節化に関わると言えます。)ここで、科学的知性とは区別して、メディア界的知性を主張することができます。そして、これが理性です。メディア理性です。合理性と言う場合、科学的合理性、そして、メディア的合理性があり、両方必要なものです。近代主義は、自我主義であったため、科学的知性が、理性とバランスを取ることができませんでした。科学的知性が、自我主義の奴隷になってしまったと言えるでしょう。結局、近代自我主義を解体して、メディア理性をもつべきです。もっとも、ここでは、理性も知性もあまり変わりがないものです。ここでは、メディア界の感覚ないし心身感覚とともにある「精神」機能として、理性ないし知性が存しています。メディア感覚知性です。これが理性です。





不連続的差異論:応用4:ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(デアル調です):メディア界とイデア界の表現

イギリスの女性小説家ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(1927年)は、昨年、岩波文庫から新訳が出た。御輿(おごし)哲也氏の見事な日本語訳である。その作品で、主人公のラムジー夫人の内的語りにおいて、不連続的差異論のメディア界が見事に表現されている。いわゆる、コズミックな感覚がある。(コズミックな感覚とは、主体と対象との一体感的な感覚である。あるいは、宇宙一体感的感覚である。)では、コズミックな感覚とメディア界とは細かく見るとどういうつながりがあるのか。簡単に言えば、メディア界とは、差異の連結する領域であり、この連結がコズミックな感覚と言えるだろう。ここまでは問題がない。では、現象界のバラバラな感覚とメディア界とはどう関係するのか。問題は、特異性の問題である。現象界のバラバラの感覚とは、特異性というよりは、特殊性の感覚であろう。それは、自我的個体の感覚である。エゴティズムである。だから、現象界のバラバラ感覚とは、特異性や差異とは関係ない。それは、現象界一般の感覚であると言えよう。確かに、バラバラとは、不連続的とは言える。しかし、この不連続性とは、差異の不連続性とは異なる。つまり、差異の不連続性とは、共立を伴うのである。この共立ということにおいて、差異の不連続性と現象界の不連続性とは異なるのである。では、現象界の不連続性とは、差異ではないのか。だんだん、用語が混乱してきているので、整理しよう。 
 連続性とは、一般性のことでもある。そして、不連続性とは特性のことである。だから、現象界のバラバラという感覚は、不連続性ではなくて、連続性によるのである。一般的個体が、無秩序にあるということである。不連続性と無秩序とは異なるのである。だから、バラバラとは、無秩序であるとしなくてはならない。連続性による無秩序である。
 では、メディア界の差異の共立や差異の連結とはどういうことなのだろうか。これは、一種、不連続性の秩序とは言える。コスモスという感覚は、実は、この秩序感覚である。つまり、カオスモスと一致する。だから、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』におけるコズミックな感覚とは、不連続性の秩序、差異の共立、差異の連結と見るべきである。作家は「一体感」と表現するが、それは、現象界的連続的表現であり、本来、正確ではない。一体感ではなくて、少なくとも、秩序感と言うべきである。それは、差異の共立、差異の連結というメディア界の感覚である。
 ということで、この結論から見ると、D.H.ロレンスのコスモスとは、同様に、メディア界の感覚、差異の共立、差異の連結と見るべきである。そして、これは、イデア界を示唆するのである。そう、差異の共立と言ったが、それは、少し言い過ぎである。差異の共立とは、イデア界自体の事柄であるからだ。では、イデア界の「感覚」とはどうなのだろうか。仏教の涅槃、ニルヴァーナとは、イデア界の表現ではないだろうか。そう、キリスト教の天国もイデア界の表現であろう。浄土もイデア界の表現であろう。ならば、メディア界とイデア界の表現はどういう違いがあるのだろうか。いわゆる、主観と客観の統一とは、メディア界の表現だと考えられる。西田哲学はそういうものだろう。しかし、イデア界の表現とは、超越的なものである。超越神は、そのようなものである。神秘主義は、一般に、メディア界の表現である。そう、主観を超越しているか否かが、イデア界とメディア界の表現の違いと考えられる。つまり、一種、超越的知をもつか否かが、メルクマールである。この点、グノーシス主義は、イデア界性をもつ。 
 ということで、ヴァージニア・ウルフの場合、メディア界的感覚表現が主であると言える。ウルフの場合、イデア界的表現はどうだろうか。「他人には見えない楔形をした暗闇(ダークネス)の芯」とラムジー夫人の本来の自己を表現している。(p. 115)「楔形」は三角形であるから、これは、メディア界のように考えられる。しかし、「芯」が、イデア界のように考えられる。
 以上から、ヴァージニア・ウルフD.H.ロレンスは、メディア界、イデア界の表現で共通していたと言える。ただ、ロレンスの場合、よりシャーマニズム的だったと言えよう。

p.s. 「モダニズムとメディア界的表現」
1920年代は、西洋においては、文学では、モダニズムの時期であるが、どうして、この時期に、不連続的差異論で言うメディア界の表現が頻出したのだろうか。モダニズムとは、芸術ポスト・モダンである。第一次世界大戦後のカオスの状況である。そう、カオスに関係するだろう。時代、社会が、決定的にカオス的になったとき、個体は、特異性に還元されると言えると思う。社会から切り離されて、個のもつ特異性のエネルギーが発出するのだと思う。社会のカオス化が、芸術のメディア界的表現を生んだと言える。

p.p.s. フッサール現象学的還元とは、モダニズムに似ている。そう、現象学とは、モダニズムの先駆と言えるのではないだろうか。日常の認識を括弧で括る行為は、現象界の認識を脱構築することである。それは、当然、メディア界ないしイデア界へ向かうと言えよう。ノエシスノエマとは、メディア界の差異の連結指向性と連結性のことだろう。つまり、メディア界の感覚と感覚されるものを意味しているだろう。これは、正に、モダニズムである。すると、ポスト・モダンとは、フッサールにも関係すると言えよう。デカルトスピノザ哲学が、初期ポスト・モダンで、フッサール哲学が、中期ポスト・モダンで、デリダドゥルーズが後期ポスト・モダンだろう。因みに、不連続的差異論は、いわば、スーパー・ポスト・モダンだろう。





不連続的差異論:応用3:ポスト西洋文明としての新東洋文明へ

現代は、人類史的に、決定的な分岐点に来ているように思えます。不連続的差異論他による観点に立ちますと、「西洋文明」とは、母権的農業社会を、移動してきた父権的遊牧民が支配し、定住化し、前者の知恵や他の文明(イスラーム文明)を取り込んで、父権的な知識(古代ギリシアの知識、キリスト教の文化)を形成して、民主主義、科学・技術、資本主義その他を発達させ、また世界を支配してきたと言えます。簡単に言いますと、「西洋文明」とは、母権的知識を利用して、父権的知識に取り込んで、発展したのです。この端緒は、古代ギリシアです。この出来事は、プラトン哲学に明確に発現していると思います。すなわち、プラトン哲学には、母権的知識と父権的知識が混淆しているのですが、後者へと前者を取り込もうとする形式が見られます。もっとも、前者はその存在を保っているのですが。たとえば、イデア論ですが、これは、母権的知識と父権的知識の混淆です。両者を、不連続的差異論から、それぞれ、不連続的差異と連続・同一性、簡単にして、差異と同一性と呼ぶことができます。すなわち、母権的知識=差異、父権的知識=同一性という図式が生じます。換言しますと、メディア界の知識と現象界の知識の二元論です。この二元論的観点から西洋文明を分析できると私は考えています。
 この図式から巨視的に見ますと、西洋文明は、メディア界の知識を現象界の知識へと取り込んでいくという強力な創造性をもっていたことがわかります。これは、歪曲ではありますが、現象界化・連続化への還元は、圧倒的なものがあることを認めなくてはなりません。ここに西洋文明の「特異性」があると言えます。しかし、メディア界を現象界へと還元するという作業・営為は、今日、地球全体に渡って、生命絶滅の危機をもたらしているのです。しかし、西洋文明は、単に、現象界への還元のみの知識を追求したのではなくて、メディア界の知識も探求していたのです。民主主義、芸術、哲学、科学他は、メディア界的探求性をもっているのです。つまり、ここで、修正しなくてはなりませんが、西洋文明とは、母権的知識と父権的知識の二重性をもっている「文明」であるということです。そして、両者の闘争があり、発展したと言えるのです。この二元性に注目しないと西洋文明を正当に評価できません。結局、不連続的差異論という、西洋哲学、科学他から生まれた西洋的東洋の理論の見地から見ますと、現代において、もはや二元性ではなくて、はっきりと、母権的知識、差異の知識に立って、全体像を新・再構築すべきエポックになっていることが理解されます。母権的知識と言っても、父権的知識を吸収した新しい母権的知識です。差異と言っても、同一性を吸収した差異です。すなわち、いわば、母権的知識、メディア界へのらせん的回帰というべき状況になっていると考えられるのです。すなわち、ポスト西洋文明です。新しい東洋文明の時代になりつつあると思います。もっとも、東洋とは、この場合、アフリカ、アジア、オセアニア南北アメリカ他を含みます(なお、また、西洋も新東洋化されることとなります)。ポスト・モダン、ポスト近代主義とは、そういうことであります。結局、ある意味で、西洋文明に内在する東洋文明から、西洋文明は乗り越えられて、新東洋文明へと転換する必然性があると言えます。
 結局、理論的には、父権的同一性(現象界)と母権的差異性(メディア界)が、統一されることとなります。それは、根源のイデア界の知によってであります。現象界とメディア界とがイデア界から究極的に統一される新たな文明の賦活化です。結局、前者の反動・暴力・権力性は希薄化して、後者の能動・肯定・平和・共存共生の活動が主体となる