不連続差異論入門(その2)

不連続的差異論と一神教一神教とは何か、及びその問題

今は簡単に触れておきます。不連続的差異論の図式を確認してください。イデア界には、複数、多数ないし無数の不連続的差異が共立・共存しています。私は、イデア界は、キリスト教なら「父」に当たると述べています。イスラーム教なら、アッラーです。ユダヤ教なら、ヤハウェです。唯一神です。だから、不連続的差異論から見ると、唯一神なしい一神教脱構築されて、いわば多神教になります。しかし、これは、新しい多神教です。仏教から言えば、新しい仏教だと思います。不連続的差異論は、新しい宗教をも提起しています。もっとも、本当は、ポスト宗教です。後で、グノーシス主義について触れたいと思います。




不連続的差異論と全統一論:哲学、宗教、物理学、数学、芸術、等々

今は、ざっと述べます。

イデア界』:デュナミス、「父」、ロゴス、グノーシス、「空」、アッラー、「ヤハウェ」、複素平面ガウス平面)、実体(スピノザ

『メディア界』:エネルゲイア聖霊、コスモス(カオスモス)、ソフィア(?)、神々、「空」、量子、芸術被表現、第五次元、「属性」(スピノザ

『現象界』:エンテレケイア、「子」、仮象、時空四次元、様態(スピノザ

p.s.  メディア界が第五次元ならば、メディア界自体は、三元性をもつのだから、現象界からメディア界を見たら、七次元になるでしょう。七という数字は、周知のように、聖数、秘数です。これに、イデア界の五次元(五差異)を足すと、12という数が出てきます。これも、聖数です。
 ところで、5差異ですが、これが、二分化して、5×2=10となり、ユダヤ神秘学カバラの10のセフィロートと等しくなります。神秘学に関しては、改稿して論じたいと思っています。

p.p.s. スーパー・ストリング理論(超ひも論)は、10次元を想定しています。以上からは、12次元です。

3p.s. 聖数、秘数と言わずに、ピュタゴラス数と言った方がいいように思えます。しかし、元数ないし次元数と言った方が、ニュートラルです。




不連続的差異論と哲学:プラトンアリストテレス

イデア界=アリストテレスのデュナミス
メディア界=同上のエネルゲイア
現象界=同上のエンテレケイア

これで、プラトンアリストテレスが統一されます。以下を参照してください。
http://renshi.ameblo.jp/entry-d289c0176e3af660490d88bc80c5aa7a.html




不連続的差異論と仏教:その1

今は、簡単に、述べます。色即是空、空即是色とは、有名な般若心経(はんにゃしんぎょう)の教えです。この空(くう)は、不連続的差異論では、とりあえず、メディア界になると思います。「色」は現象界です。これは、それで正しいと思います。なぜ、メディア界が「空」になるかと言えば、現象界の個体Aは、メディア界においては、Aではないし、同時に、非Aではありません。正に、差異ですが、それは、イデア界の不連続的差異ではなく、メディア界の「差異」です。メディア界の「差異」とは、不連続による「非存在」と連続による「存在」との「差異」であります。差異と同一性との「差異」です。この「差異」が「空」です。
 しかし、私は、仏教の空は、メディア界だけでなく、イデア界を指していると考えています。数学的には、イデア界はガウス平面、複素平面で表現されます。これは、虚数と実数による座標で表現されますから、実数の世界からは、空であります。しかし、仏教の「空」は端的には、メディア界であります。現象界の連続・同一性という固体的実体を否定します。これは、デリダ差延と同一です。(というか、デリダ脱構築哲学は、仏教の西洋的反復なのです。)私が言いたいのは、メディア界を超えて、何かがあることを仏教の空は示唆しているということです。それが、イデア界だと私は考えています。通常、空は無とされますが、それは、ある意味では正しいし、ある意味では間違いです。私見では、イデア界を指すために、空ないし無という表現をしていると思います。後で、精緻に述べる予定です。




不連続的差異論と量子力学:その1

先に、相対性理論について言及しました。メディア界の差異の連結がいわば第5次元であり、それが、現象界の時空四次元を形成すると考え、第5次元とは、原時空間であり、時空は不可分でありますから、時空間とは相対性をもつのであります。では、量子力学はどのように考えられるのでしょうか。もう一度、メディア界を図式化します。

Ⅰ)d1/d2/・・・/dn(差異の共立)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メディア界]
Ⅱ)d1±d2±・・・±dn(差異の連結)

Ⅰ)はイデア面と、Ⅱ)は現象面と呼ぶことができます。相対性理論は、Ⅱ)に関係することと考えられます。量子力学は、メディア界全体に関係する事象に関わっていると考えられます。ODA ウォッチャーズ氏は、存在と非存在の統一をメディア界に見ています。存在はⅡ)であり、非存在はⅠ)です。(参考:『不連続的差異論ノート』の「『m= pK(K=h/c^2)』を『質料存在方程式」と呼ぶ」他
http://blog.melma.com/00138706/
http://blog.melma.com/00138706/20050501021749
 ここでは私の考え(仮説)を述べたいと思います。(もっとも、ここでは、暫定的であることをお断りしておきます。)Ⅱ)の差異の連結態(体)を量子ないし素粒子と考えることができると思います。(差異の連結とは、ミクロとマクロ両方にとることができると思います。不思議の国のアリスの背丈の膨張と縮小のようなものです。)差異の連結体は、極性力をもちますが、この極性力とは、エネルギーないし強度ですが、差異自体と不可分です。すなわち、差異・極性力=エネルギーという公式が生じるでしょう。これが、現象界において、E=mccの公式になると思います(Eはエネルギー、mは質量、cは光速度です)。さて、量子ないし素粒子は、差異の側面では粒子であり、極性力の側面では波動となると思います。明快にするために、差異/極性力=量子(素粒子)とすると、粒子/波動=量子(素粒子)となります。粒子とは、強いて表現すれば、「差異」であり、波動とは「極性力」です。ODA ウォッチャーズ氏の用語では、存在と非存在となるのでしょう。ここで、簡単にまとめますと、量子とは、メディア界における差異の連結体のことであり、差異と極性力の不可分体のことであります。そして、粒子とは「差異」であり、波動とは「極性力」であります。しかし、差異自体が、粒子ではありません。ですから、メディア界の差異を、違う名前で呼ぶ必要があるでしょう。とりあえず、メディア差異と呼びましょう。そして、極性力をメディア力と呼びましょう。すると、差異の連結体は、メディア差異・メディア力と表記できます。粒子はメディア差異で、波動がメディア力です。
 さらに検討しますと、量子力学では、量子の生成消滅があります。その事象は、相対性理論の対象外のように思えます。それは、メディア界のⅠ)のイデア面によって生起されるのだと考えられます。イデア面とは、ほぼイデア界であります。そこにおいては、量子は解体します。いわば、空(くう)に還ります。そして、真空とは、このイデア面のことのように思えます。量子力学で「場」と呼んでいるのは、このイデア面のことではないかと思います。ここから、また、量子(物質)が生成されます。
 ついでに飛躍しますが、仏教の空とは、先に、メディア界のことだと言いましたが、さらに、このイデア面やイデア界を指しているように思えます。この点については、稿をあらためて考察したいと思います。




不連続的差異論:応用3:アニミズムシャーマニズムとは何か

メディア界をあり方を考えますと、この問題は簡単に説明されるのではと思います。差異の連結は、極性力をもちます。たとえば、d1±d2です。この連続化即ち、d1・d2(・は連続化の記号とします)は現象個体であります。アニミズムシャーマニズムとは、d1・d2の固定を内在・超越したd1±d2のメディア界を肯定する世界観だと思います。アニミズムは静的宗教ですが、シャーマニズムは動的な意識変容をともなう宗教であり、個体の感覚・意識が、d1± d2のメディア界へと移行し、さらには、そのイデア界に接することを意味するのではないかと思われます。因みに、ニーチェの有名なディオニュソス的なものとは、シャーマニズム的なものではないかと思われます。また、古代ギリシャデルフォイの神託は、アポロ神によるとされますが、本当は、ディオニュソス神だと思います。古代ギリシアを征服したアーリア民族が、土着の母権的民族の文化を乗っ取ったものと思われます。また、ディオニュソス信仰とは、女神的秘儀と重なると思います。すなわち、プラトンソフォクレス等も参加した言われるエレウシスの秘儀やイシスの秘儀です。




不連続的差異論の仕組み:その12:差異の共存と共感性

先に、共感性は、メディア界の連続化によって生起すると述べましたが、今少し疑問に思っています。連続化によって生じる「共感性」とは、倫理ではないと思います。それは、自我による連続的感情です。一体感です。そう、「愛」です。(D.H.ロレンスは、キリスト教の愛を否定して、共感性を説きました。)
 少し整理するため、もう一度、メディア界から考えたいと思います。メディア界において、差異の連結が起こります。差異の極性が生じます。これは、連続化に関係します。そう、この連続化の他者感情が同情でしょう。共感性や倫理はそれとの異なります。連続化ではなくて、差異と差異との間において生起する「感覚」が共感性、倫理だと思います。このあたりは複雑です。図化して整理します。

d1/d2/d3/・・・/dn

                                                            • [メディア界]

d1±d2±d3±・・・±dn

以上が正確なメディア界の図化だと思います。以上を分数とすると、分子が不連続的側面であり、分母が連続的側面です。後者が、連続的感覚=同情を生みます。前者は、差異と差異との不連続な関係が保持されています。そして、差異が他の差異を指向するという事象が生起します。これが、差異的共感性、倫理だと思います。上図では、分数のバーに当たる部分がそうだと思います。ですから、連続化直前において、共感性や倫理が生起すると思います。それに対して、連続化における他者感情は同情であり、道徳感情です。それは、権力・暴力的です。ニーチェは憐れみや同情を否定しましたが、それは、当然です。それは、他者への自我感情の押し付けなのです。
 ということで、前言を訂正します。差異の共存における共感性・倫理とは、メディア界の差異の指向関係において生起するものであり、連続化においてではないということです。




不連続的差異論の仕組み:その11:差異の共存・共立について

私の直感ないし直観では、特異性の感覚(メディア界的感覚)とは、個の共立を喚起します。個の共存です。個を差異と言うならば、差異の共存です。これは、また、倫理、個・差異の倫理であります。では、この感覚・意識(sense)は、理論的にはどのように説明できるでしょうか。つまり、どのように、個の共立・共存の感覚・意識が発生するのかということです。
 直観から説明したいと思います。個体に内在する特異性とは、メディア界のことであり、それは、実は複数の不連続的差異(特異点)の集合のことであります。多元的不連続的差異的特異性ということです。これが、「わたし」の個です。これは、特異性ですから、言語による連続・同一性の観念と一致しません。言語から常にはみ出す、逸脱するものであります。アイデンティティがありません。正体不明であります。しかし、特異性には、確かに力(強度)がありますが、それには、共感性があります。それは、倫理でもあります。よく一体感と言われるものがそうです。しかし、本当は一体感ではなくて、差異的共感性だと思います。やはり、不連続的な共感性ということです。これは、思うに、メディア界における差異の連結性から発しているのだと思います。すなわち、一つの差異は別の差異へと連結・連続しようとします。この連続化傾向(指向・志向)が、共感性なのだと思います。しかし、留意すべきは、あくまでも、連続化の指向であり、不連続であるということです。これが、差異的共感性の意味です。つまり、共感性とは、連続性と不連続性との両義性をもつのであります。個でありつつ、他の個(他者)に連続せんとするのであります。しかし、個という限定・規定・枠を超えると暴力となります。結局、特異性と言いましたが、もう少し正確に言うと、特異性とは、一方では、不連続的差異の共立性であり、他方、不連続的差異の連続化による共感性のことです。この差異の共立・共感性が特異性の「感覚」であります。共立・共感のバランスがそこにはあります。そして、これが本当の、個の倫理です。道徳とは、全く異なるものです。(スピノザの主著『エチカ』が、哲学であると同時に倫理学であるのは、メディア界からスピノザは哲学しているからです。)
 ということで、個・差異の共存の根拠が明確になってきたと思います。個の特異性において、個・差異の共存性が存します。それは、不連続的差異の共立、並びに、不連続的差異の連続化による共感の両義性が生起するものです。思うに、もし、不連続的差異の共立、即ち、イデア界的共立だけだと、一種純粋ですが、味気のない、人間味のない、情趣のないものとなるでしょう。確かに、知の世界では、その方が正当です。だから、共立と共感を使い分ける必要があると思います。純粋知においては、差異共立で、人間に対しては、共感性を含むのが適切でしょう。

p.s. 後で、差異の共立と連続的共感について、より精緻に考察したと思います。

p.p.s.  デカルト哲学のコギト・エルゴ・スム(我思うに、故に、我在り)ですが、この「我」とは、自我ないし近代的自我ではありません。もし、自我ならば、連続・同一性の個体であり、懐疑することはないでしょう。問題なく、「我は我」で、アイデンティティが生じます。デカルトの「我」ないしコギトとは、特異性、単独性のことです。つまり、コギトとは、連続・同一性の個体・自我への懐疑・批判なのです。この懐疑・批判の基盤・原基は、メディア界の特異性・単独性以外にありません。デカルト哲学は、近代哲学ではなくて、ポスト・モダン哲学を説いたと言えます。だから、デカルトの合理主義とは、特異性・単独性による合理主義であり、それを発展させたのが、スピノザ哲学だと言えます。デカルトスピノザ哲学というポスト・モダン哲学の創造がそこにはあるのです。近代合理主義、近代自我主義は、カント/ヘーゲル哲学によるのです。フォイエルバッハが、身体性の側面で小さな風穴を開けましたが、キリスト教(愛の身体性)にまだ囚われていました。初期マルクスは、このフォイエルバッハの身体性を差異的に展開する地点にいましたが、すぐヘーゲル哲学に囚われてしまいました。価値形態論は、ヘーゲル主義的唯物論です。また、シュティルナーは、特異性に近づきましたが、その唯一者とは、一神教に囚われていました。だから、自我主義なのです。結局、キルケゴールニーチェが、特異性、単独性を明確にしました。しかし、これは、デカルトスピノザのポスト・モダン哲学の反復、復活ないし進展です。




不連続的差異論:応用その2:占星術を解明する

今は、簡単に触れるに留めます。メディア界が現象の直接的な根源ですから、差異の連結形態・原型が現象を規定することとなります。ここで、考えるべきことは、メディア界の差異連結とは、原時空間であり、いわば、時空間一如の状態であります。これをメディア界的原時空様相と呼べるのでしょう。この原時空様相とは、ある任意の「時点」で、一定の様相を帯びます。これをとりあえず、時空の織り目(折り目)ないし文様(パターン)と呼びます。この時空の織り目、パターンを、現象界ないし現象個体は刻印されると思います。このメディア界のパターンを表象したのが、原占星学(古代宇宙論)ではないかと想像されます。パターンですから、個にとっては、絶対ではありませんが、一般的表象性をもつと思います。




不連続的差異論の仕組み:その10:イデア界と現象界との連関:メディア界と特異性

イデア界の不連続な差異が、メディア界において連結して、それから、現象界に連続的な個体が生じることとなりますが、差異と個体の関係について考えたいと思います。ここで、補助線として、人間と他の動物について考えますと、その違いは、当然ながら、言語の使用の有無にあると思います。ゴリラやイルカ等に広義の言語使用が見られるとは言え、言語使用の有無が基準となります。おそらく、動物はメディア界→現象界→メディア界→現象界→・・・という往復運動において生きているように思います。つまり、メディア界の動態性を発動させたままの現象界、メディア界の動きに相即した現象界を生きていると思います。それに対して、人間は、言語使用のために、メディア界をいわば抑止して生活しています。言語・シンボル・記号によって環境を掩っているのです。つまり、「象徴」で、自然を「化粧」しているのであり、自然の一つの本体であるメディア界を覆い隠しているのです。この言語による現象界の分節化を連続・同一性化と呼んでもいいと思います。動物の場合は、連続・同一性化はないと思います。だから、動物には、本当は現象界はないのだと思います。すなわち、動物は、メディア界を生きていると思います。ですから、現象界=言語界と呼んでもいいと思います。(精神分析ラカンは、これに当たるものを象徴界と呼んでいます。)これは、また、カントの超越論的形式による認識と等価です。
 以上のように考えて、差異と個体の関係を見ますと、個体とは、連続・同一性であり、いわば自我であります。「わたし」です。「わたし」は存在のために、他者を排除して生きようとします。エゴイズム(正確には、エゴティズム)です。そして、近代において、この自我が、中心となったことは、周知のことです。結局、個体・自我という連続・同一性は、メディア界を排出・隠蔽しています。しかし、人間には、特異な人がいます。いわば動物のようにメディア界の動態を活性化させている人間がいます。自我の「背景」ないし基底にメディア界を感じている人間がいます。これこそが、自己の基盤であると感じています。この個体の基底にあるメディア界の感覚を私は、特異性や単独性と呼んでいます。すなわち、特異性や単独性であるメディア界を感覚している人間は、メディア界のもつ差異の連結に触れています。そして、差異の連結とは、不連続的差異の連結であり、不連続的差異という特異点の一種集合(ドゥルーズガタリの用語で言えば、アジャンスマン、アレンジメントです)であります。すなわち、メディア界による特異性、単独性とは、この特異点の集合によると言えます。すなわち、メディア界における特異点の集合が、個体における特異性、単独性の原点、基盤、原基であると言えます。ということは、メディア界的人間、特異性・単独性の人間、すなわち、個とは、メディア界を介して、イデア界に触れていると言うことができます。だから、イデア界の差異とは、現象界の個(メディア界・特異性・単独性的人間)と通じていると言うことができます。そして、この極端な事例が、ニーチェ哲学だと言えると思います。人口に膾炙していますが、ポスト・モダンの出発点は、ニーチェであるとは、正鵠を射ています。そして、ポスト・モダンとは、実は、文学、美術、音楽、映画等のモダニズムにほぼ発現したと言えますし、その哲学・思想的復活・反復と言えます。(芸術におけるモダニズムという術語は今やミスリーディングです。混乱を生みます。おそらく、初期ないし前期ポスト・モダンとでも呼ぶべきです。)
以上から、現代は、近代主義とポスト近代主義の闘争の時代であることが確認できます。そして、現代日本は、近代主義の大反動期であります。連続・同一性の自我を破壊して、再メディア界化すべきです。思うに、この新旧闘争は、至る所で起こっています。私の日常生活でも生じています。




不連続的差異論の仕組み:その9:メディア界の回転

前回のらせん等の説明に、差異の連結による円環の考えを用いました。これまで、差異の連結的円環については、仮説的に言及しましたが、今や、確認していいと思います。すなわち、メディア界において、差異の連結とは、円環を成すというテーゼです。そして、これを是認すると、実に意義深い展開が可能になってくると思います。つまり、ここで、幾何学の問題が生じて、形態論が可能になってくるということです。差異が三個ならば正三角形、四個ならば正方形、五個ならば正五角形、六個なら正六角形等々を含む円環が形成されると思います。もちろん、これらもらせん的になります。しかし、正多角形の性質を帯びていると思います。私は、以前、仮説と言うか、作業仮説と言うか、太陽系は五個の差異から成ると考えました。ならば、それは正五角形の性質をもっているはずです。ダ・ヴィンチの有名な円環に内接する人間の身体像を想起してみてください。少し違いますが、五本指。また、正五角形からは、歳差運動によって黄道春分点が一周するのにかかる年数(プラトン年)が出てきます。(すなわち、360度÷5=72度。72×360度=25920年。また、72をメディア界の数の3で割ると、24が生じます。思うに、72や24は、メディア界の数値であり、これが、時空間に関係すると思います。一日24時間、)
 まとめますと、メディア界における差異の連結は円環となり、その円環に内接して正多角形が生じるということで、これが、現象界における多様な形状を生む起因のように思えます。

p.s.  因みに、仏教では、五大(地水火風空)を説きます。この空(くう)が、当然、不連続的差異論では、メディア界に当たるでしょう。しかし、空とは、実は、イデア界を指すとも考えられます。私は、不連続的差異論は、仏教の現代的進展・バージョンでもあると考えているのですが、空をどう捉えるか重要です。空をメディア界と考えるのは、明快でありますが、私の予見では、空は、また、イデア界に関係するのです。この点を、別の記事で考察したいと思います。

p.p.s.  空海の「五大に響きあり」ですが、この響きとは、量子力学的な波動に相当するのではないでしょうか。メディア界において、差異の極性力とは、量子力学的な力であり、粒子であったり、波動であったりします。この波動が「響き」ではないでしょうか。因みに、不連続的差異論の合作者であるODA ウォッチャーズ氏は、メディア界において、「存在」=粒子と「非存在」=波動の統一を洞察しています。「響き」とはこの波動だと思います。緻密に言うならば、メディア界の不連続的差異の共立(イデア面)が波動であり、メディア界の不連続的差異の連結・連続化が粒子だと考えられます。「響き」とは、この前者であり、また、差異の連結・連続化の極性力にあると思います。





不連続的差異論と現象界の形状:らせん、渦巻き、渦動

遺伝子の話に触れたので、ここで、遺伝子が内包されているとされるDNAの形状である二重らせん等について簡単に考えてみたいと思います。
 四つの塩基のペアからDNAは生まれます。ここでも、4という数字に注目したいと思います。4は現象界の元の数です。ついでに言えば、これを5にすると、5次元となり、これは、メディア界を意味するでしょう。アインシュタインの時空四次元という相対的時空間は、この第5次元であるメディア界から発出していると見ることができます。だから、アインシュタイン相対性理論は、現象界をメディア界の構造によって記述していると言えるでしょう。
 さて、 DNAのペアないし対(つい)ですが、それは、極性連結です。つまり、±で、例えば、d1±d2、d3±d4等です。これが、このd1、d2、d3、d4のペアが垂直に連結されて、DNAの鎖になると言えるでしょう。問題は、螺旋(らせん)の形状です。これをどうみるかです。螺旋ないし渦巻きは、現象界に多く見ることができます。朝顔の蔓のねじり、つむじ、指紋、巻貝、竜巻、星雲、洗濯機の水の動き、等々です。これを、不連続的差異論から解明したいと思います。
 簡単にするために、d1±d2の差異連結(メディア界)で考えみます。これは、次のようになります。

±d1±d2±

これは、d1とd2とが円(円環)を成すと見ることができます。


 / \ 
d1 ± d2
 \ /

これを円環図としますと、d1とd2の間の極性力を水平力としますと、円環(d1○d2)のd1とd2のポイントでは、それに対して垂直の力がはたらきます。これは、フレミングの法則によって、この円環の平面とは垂直の方向に何らかの力がはたらくと考えられます。この垂直力が捩れ(ねじれ)を生むことになり、d1○d2は螺旋を形成します(渦動します)。
ここで、フレミングの法則を出しましたが、敷延し、変換しています。おそらく、立体的直交座標軸の三つの力の関係があると思います。これをスーパー・フレミングの法則としたいと思います。
 では、この三元性とメディア界の五次元性はどのように関係するか考えてみましょう。三元性による螺旋形状とは、時空四次元体です。だから、三元性と第五次元は結びつきます。つまり、メディア界である第五次元は、三元性であると考えることができます。だから、メディア界とは、現象界から見ると、内在・超越的な第五次元ですが、メディア界自体は、三元性ないし三次元ということになると思います。かなり飛躍する感じになりますが、以前に、古事記の三神(天之御中主神、産霊之神、神霊之神)とメディア界を関連させ、メディア界が3という数字と関係すると言いましたが、ここで、それがいわば検証されたと言えるでしょう。つまり、メディア界は、第五次元であるが、三元性、三次元性をもつということです。

参考1:フレミングの法則
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~eiymoti1/gijutu/shiryo/electricity/freming.html

参考2:捩れについて
http://blog.melma.com/00138706/20050608021821

p.s. 上述では、二重らせんとらせんとを区別していませんが、d1±d2は、二重らせんを形成するといえるでしょうし、また、d1±d2を積分すれば、普通の単純ならせんや渦巻になるでしょう。




不連続的差異論:応用1:遺伝子とメディア界

今日(7/15)の日経の夕刊に、高橋たか子氏の「混血の、ふしぎ」という記事がありました。フランス、ブルターニュ地方の故婦人の子供たちに会っての感想です。日本では、家系で、誰々似というのが言われますが、そこではそれが成立しないのであります。そのことのコメントを引用します。

「国と国とが侵略し合って鍛えられた、と前に書いたが、もしかしたら、一人の人の血の中で、いくつもの種類の血が、混ざり争い拮抗しつつ、その一人一人を成さしめているのではないか? ・・・」

ここは、遺伝子に関する記述ですが、この遺伝子を、不連続的差異論で記述できるのではないかと思いました。すなわち、

d1±d2±d3±・・・±dn

というメディア界の記述ですが、これを遺伝子の記述とすれば、±は、ある意味で、無限の様相をもつのですから、この様相の差異が、個体の差異を生むと考えることができるでしょう。そして、メディア界において、人類は正に共通であると言えます。人種、民族を超えているのです。人種、民族は、個体と同様にメディア界の様相に拠ると考えられるでしょう。

p.s.
結局、遺伝子から見ると、人類も他の生物と一致します。
すべて、d1± d2±・・・±dnで説明できます。また、これは、生物(生命)だけでなく、無生物、鉱物等とも一致するということです。存在の一致です。中世の哲学者ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性は、正しいと思います。この考えが、スピノザドゥルーズと展開します。そして、不連続的差異論は、これとプラトンイデア論とむすびつけて、イデア界とします。

p.p.s. 聖地に、岩がある、ないし、多いのは、岩とは、差異の連結が、差異の共立に近い状態にあるために、メディア界というよりは、イデア界に近い状態を喚起するからではないだろうか。つまり、イデア界こそが、「存在」の原点であるからである。「神」とは、イデア界に存するのである。

3p.s. 閑かさや岩にしみいる蝉の声




不連続的差異論の意義:その1

これまで、不連続的差異論の構成について、簡単に述べてきましたが、どの点が、創造的なのかは、述べませんでした。これまでの説明では、当たり前のことを述べているように感じられるかもしれません。そう、おそらく、日本人にとっては、普通の理論に思えるかもしれません。しかし、二つの点で、創造的だと考えています。
 一つは、「存在」の原点として、不連続な差異を置いたことです。連続的な存在ないし差異を置くか、それとも、不連続な存在ないし差異を置くかは、理論的には、最重要なことです。これまで、この点があいまいであり、不明確な理論化がなされていたと考えられます。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの差異の理論も同様でした。
 もう一つは、メディア界という差異の連結する領域を設定したことです。ここにおいて、不連続な差異が連結し、連続化する事象が生じるのです。このいわば両義的領域を設定したことで、「存在」の直接的な出発点が明らかになったと考えます。つまり、これまでのほとんどの理論が、この領域に原点を求めたのであり、それも、連続と不連続が中途半端なままであったのですが、メディア界を設定することで、不連続な差異と連続化する差異を区別することができた点が創造的なのです。