不連続的差異論入門:その9

先に、私は、多数の差異が、メディア界において、正多角形を形成すると言いました。不連続な差異が、メディア界で連結するのですが、それが、正多角形を形成するとは、理論構成的にはどういうことなのでしょうか。
 今想起した一つの仮定は、軸自体が円環的になっているということです。すなわち、d1⇔d2⇔・・・⇔dnというn個の差異が連結する場合、d1とdnとが結びつき、ループになるということです。・・・⇔dn⇔d1⇔d2⇔・・・dn⇔d1⇔・・・ということです。ここで、このループにおいて、均衡、均等の法則があるとしますと、等間隔で、差異が連結しますから、円に内接する正多角形を形成することになります。ですから、無数の正多角形が、言わば、重なります。デスクトップ画面のように。この差異の連結である正多角形が複合化して、生命体が発生すると先に考えました。朝顔で考えますと、最初の双葉は2つの差異です。そして、葉は3つの差異です。そして、花弁は5つの差異です。そして、蔓や蕾のねじれ、らせんは、朝顔のメディア界自体が現象化するときに形成される捩れ、螺旋と言えるでしょう。ということで、朝顔の差異連結複合体が説明できます。
 以上は、メディア軸を円環と仮定した場合です。その他の仮定を考えてみましょう。そうです。先に私は、メディア軸を平面と仮定したのです。そうしますと、直交する2つの軸をもつ平面において、複数の差異は、同じ半径で、円上に存するとしましょう。ここでも、均衡・均等の法則が作用するとしますと、上述したものと同様に、正多角形を形成します。後は、同様です。
 ということで、2つの仮定を出しました。とにかく、これで、差異連結複合体が、生命体の原型・構造・母型となったのです。そうです。これは、構造主義そのものです。差異的構造主義、差異構造主義です。不連続的差異がメディア界で連結、複合化して、形成・構成された差異構造がここにあります。ゲーテの原植物は、これを求めていたと言えましょう。
 さて、これは、アリストテレスエネルゲイア(実現態、現実態)に相当するでしょう。そして、この現象化が、エンテレケイア(終局態)です。そして、イデア界がデュナミス(可能態)です。
 この差異構造主義は、思うに、ドゥルーズの差異哲学が一つとしてもっているものです。つまり、連続的差異の哲学です。そして、ポスト構造主義と言われたものは、この連続的差異のもつ同一性からの脱出・逃走を試みたと考えることができます。デリダは、差延、同一性からのズレないしユラギを説きます。いわゆる、脱構築主義です。これは、差異構造主義を解体するものと言えるでしょう。ですから、私は、以前、脱構造主義と造語しました。また、ドゥルーズ哲学は、ニーチェ哲学を指向していましたので、特異性としての差異の理論化も指向していました。(そう、ドゥルーズ哲学は、矛盾しているのです。一方では、構造主義であり、他方では、脱構造主義ですから。)それは、不連続的差異論が完成させたものと言えるでしょう。即ち、差異の連続化を認めない、特異性としての差異の共立の理論です。ここでは、差異構造主義的な有機性はもはやありません。ガタリとのコラボレーションから生まれた有名になった「器官なき身体」、「分裂者分析」、「リゾーム」、「欲望する諸機械」、「分子状」、「量子状」等の用語が、これらを指していると言えます。これは、もはや、同一性の差異構造ではなくて、不連続な差異による多元生成的な存立・共立関係(アレンジメント、アジャンスマン)なのです。ドゥルーズガタリは、このように、不連続的差異の空間をイメージ的に語りましたが、理論的には不明確でありました。つまり、連続性と不連続性の混同がありますので、そうなります。そして、不連続的差異論が、明確に区別をして、明晰に理論化したのです。この不連続的差異の振る舞いは、イデア界ないしイデア界とメディア界の境界で生起すると考えられます。しかし、実際のところ、差異構造の、いわば、裏側に不連続的差異が存していると言えるでしょう。即ち、連続・同一性の裏側に不連続的差異が存立・共立・並立しているのです。これが、実は、創造をもたらすものです。これが、新しい連結を生み出すのです。既成にない、新たな差異の連結を創造するのです。簡単に具体的に言えば、ホリエモンのテレビとネットの融合は、新しい差異の連結です。それは、既成の差異の連結(連続体)であるマスコミをいわば破壊、新構築したのです。それまで、ネットとテレビは、不連続でした。特に、ネットは、連続的同一性ではなくて、不連続的差異性の共立をもたらすもので、結局、ホリエモンは、テレビという構造主義を解体して、ITによって不連続的差異の共立の空間をもたらしたと言えます。
 さて、流行としてのポストモダンポスト構造主義はとっくに終わりましたが、おわかりように、現実は、そのように動いているのです。不連続的差異の時代になったのです。これまで、差異が皮相に、浅薄に受け取られていました。単に平板な受け取り方です。つまり、相対的な差異ということです。結局、軽薄な認識でした。とまれ、方向性としては、ポストモダンは間違ってはいませんでした。しかし、理論的限界がありました。そこで、不連続的差異論が今や存在し、そして、現実もそうなってきているのですから、ポスト・ポストモダン、ダブル・ポストモダン、あるいは、トランス・ポストモダンとでも呼べるでしょう。