不連続的差異論入門:その10

構造主義と不連続的差異論

構造主義と不連続的差異論の関係を、直観的にわかるように論じてみたい。構造とは、差異の連結ないし差異の連結の複合のことである。つまり、メディア界の差異連結のことである。ここから、捩れて現象界が発出するのである。メディア界の表出としての現象界であり、メディア界の顕現として現象界があるのである。しかし、現象界から、メディア界そのものを知覚することはできないだろう。ただ、推測的に直観ないし洞察することができるだけである。しかし、身体感覚は、メディア界に接していると思うが、その真相の知覚はできない。
 では、差異の連結である構造の真相とはどういうものだろうか。たとえば、雪の結晶を考えよう。6つの差異がメディア界にあり、それが正六角形を形成するとしよう。ここで、正六角形をイメージすれば、雪の結晶の構造を直観していることになるだろう。これは、同一性構造であり、差異はなくなっているのである。つまり、不連続的差異が6個連結した結果、ほぼ安定した形態を成しているからである。ここには、単純に言えば、差異はないのである。正六角形という連続・同一性が支配しているのである。幾何学の同一性の普遍性である。これは、これで、永遠である。理念的である。同一性の理念であるが。
 これを不連続的差異論の見地から見たら、どうだろうか。たとえば、脱メディア界的虚力が作用するとき、この形態は解体するだろう。これはどういうことだろうか。これは、差異の⇔の方向が変化することだろう。つまり、この⇔が傾くと見ればいいだろう。すると、
d1⇔d2⇔・・・ ⇔dnが、極端に言えば、d1↓d2↓・・・↓dnとなることだろう。差異の連結が崩壊するのである。正六角形は、崩れるのである。連続から不連続へと変容するのである。デフォルメと言ってもいい。解体である。脱構築である。ここでは、新たな差異の共立が始まるのである。新しい可能性が開けるのである。新しい差異共立である。差異の共立状態である。そう、これは、メディア界且つイデア界状態だろう。現象において、不規則な運動をもつだろう。複雑系であろう。カオスモスである。もし、メディア界を星座とすれば、脱メディア界化とは、脱星座化である。非星座化である。
 ということで、構造は、即自的に、脱構造性をもっているのである。同一性という構造は壊れるのである。そう、ここで、ピカソやダリの絵を想起する。これを内的自壊と言えるだろう。簡単に言えば、内壊である。ひょっとして、これは、ブラックホールと関係するのではないだろうか。とまれ、差異が自己自身へと回帰、帰還するのだ。
 ところで、話は変わって、仏教の涅槃、ニルヴァーナとは、イデア界のことだろう。空はメディア界である。そうすると、仏教も、明快に不連続的差異論的に三層化できる。即ち、

涅槃(ニルヴァーナ)=イデア
空(くう)=メディア界
娑婆=現象界




音声言語と文字言語:デリダ哲学の音声言語・ロゴス中心主義批判とは何か

音声言語と文字言語

デリダのロゴス中心主義批判であるが、これは、音声言語=ロゴスということである。(しかし、私見では、ロゴスとは、本来、言語ではなく、自然、物事、事象を成立させている根源的論理・理念、即ち、イデアのことである。)では、この批判された音声言語(=「ロゴス」)とは何であろうか。
 ここで、直感で言おう。人間は、メディア界を本来、感覚・知覚している。これはゆらぐ、生成変化の世界であり、すべて流動的である。そう、ヘラクレイトス平家物語ニーチェ/ロレンスの「万物流転」(パンタ・レイ)の世界である。つまり、同一性が不成立の世界である。ここでは、古典的な自然科学は成立しない。この生成多様性とは、言い換えると、直感・直観的世界のものである。これは、フッサールの説く生活世界と共通であると思われる。考えてみれば、植物の世界は、種子から発芽して、生長する。そして、最後は枯れる。生成変化の世界である。現象の変容、即ち、万物流転は真実として直観されるのだ。そして、私見では、この万物流転の自然界の理がロゴスである。そして、このロゴスは、デリダ脱構築したものではない。 
 では、デリダ脱構築したロゴスとは何かである。それは、音声言語的ななにかである。ここで、整理すると、2つのロゴスがある。一つは、生成変化の根源であるロゴスであり、もう一つは、音声言語と関わるロゴスである。用語がこのままでは、混乱するので、区別する。前者を差異ロゴス、後者を同一性ロゴスと呼びたい。結局、真実として、差異ロゴスがあるが、それを、ある種の知において、同一性ロゴスに偽装するのだ。つまり、真理から疑似真理へと変換する知があるのである。これが、デリダ脱構築した「ロゴス」である。そして、デリダの説く差延とは、差異ロゴスである。デリダ自身は、極端な差延主義によって、自身の語る言語もロゴスであるとして、自壊してしまった。私見では、デリダは、2つのロゴスを区別できなかったのである。言語は、この2つのロゴスを語ることができるのである。しかし、デリダは、言語は、自身の解体するロゴスであるとして、自壊した。
 では、この同一性ロゴスと音声言語とはどういう関係にあるのだろうか。ここでは、ソシュール的な相対的差異論は、役に立たない。音声言語とは、メディア界の生成多様性を、連続・同一性化する手段であると思う。差異を同一性に変える方法である。たとえば、現象としての花は生成多様性をもつが、その差異を花として同一性化して固定するのである。つまり、「ハナ」という音、音声は、同一性化し、固定するものである。では、文字言語もそうではないかという疑問が浮かぶかもしれない。しかし、文字言語は、音声文字と象形文字がある。前者には、アルファベットがある。これは、音声主義である。たとえば、aは、エイであり、他者を排除する。つまり、音声は二項対立主義である。共存はないのである。 a、エイは、b、ビーを排除するのである。そして、この音声文字言語は、観念を内包して、当然、二項対立主義となるだろう。これは、近代西欧主義となった。しかし、象形文字はどうだろうか。現代の中国や東アジアを見れば、いい。同じ文字(漢字)に対して、多様な読みがある。つまり、象形文字言語は、二項対立的な排除主義ではないのである。つまり、象形文字言語は、他者を認めるのである。これは、おそらく、視覚性から来ていると思う。視覚とは、いわば直観である。直観の「言語」、ロゴスである。これに対して、多様な音声表記(シニフィアン)が可能である。
 ということで、ここで、簡単にまとめると、デリダのロゴス・音声言語中心主義批判とは、音声言語の二項対立的排除性を攻撃している点では正しい。しかし、音声言語=ロゴスとするのは一面的である。同一性のロゴスと差異のロゴスがあるからである。ここで、デリダエクリチュール論に言及すると、文字言語は、上述したように、多様性を内包するのである。そして、直観によるので、メディア界的多様生成性、すなわち、差異を内在していると考えられるのである。つまり、エクリチュール=メディア的差異=メディア・ロゴスである。ということで、デリダ脱構築主義は、音声言語=同一性のロゴス批判ということでは正しかったが、その際、差異のロゴスをも排出してしまったようだ。確かに、音声文字言語である西欧語では、象形文字のような多様性はないが、思うに、音声自体をメディア界化することで、多様性を形成していると思うのである。音声の身体化と言ってもいいだろう。身体ないし身心とは、メディア界である。音声を身体化することで、音声の同一性に、ゆらぎを与えるのである。これは、実際どういうことだろうか。音声に差異共感・共立性を与えることではないだろうか。連続・同一性の音声は、d1ーd2であるが、身体化された音声は、d1⇔d2である。この⇔の強度を身体化ないし差異化された音声はもつということだろう。ということで、音声言語ではあっても、十分、差異をもつことができるのである。この点がデリダの盲点であったのではないだろうか。結局、西欧語は音声・ロゴス中心主義であるとして、解体したままであり、再構築、新構築はできなかったのである。そうするには、身体的音声の差異性を確認する必要があったであろう。身体・メディア界的音声性を確認すれば、脱構築から再構築・新構築できたはずである。つまり、音声のエクリチュールである。これをデリダは看過したのである。

p.s. 結論を補訂しないといけない。デリダの短所の一つは、同一性のロゴスと差異のロゴスの2つのロゴスをあることを看過して、ロゴスを否定してしまったこと。もう一つは、音声言語に同一性のロゴスしか認めなかったことである。つまり、音声文字言語である西欧語でも、差異のロゴスは、視覚を通してあるのであり、また、音声言語においてもありうるのである。 
 そう、もう一つある。デリダは、差延を説いたが、つまり、連続・同一性の脱構築・解体を説いたが、それからの、新構築を説かなかったというか、説けなかったのである。なぜなら、以上述べたように積極的なものを否定してしまっているからである。そう、簡単に言えば、デリダは、アンチテーゼだけなのである。万年野党である。脱構築後に生じた差異そのものから新構築する必要があったのである。そう、その差異はメディア界である。メディア差異、メディア・ロゴスである。デリダ哲学は、現代の仏教哲学である。空の哲学である。しかし、空とは、力である。これは、量子論的である。エネルゲイア、強度である。この点では、ドゥルーズの方が進んでいた。
 結局、デリダ哲学の欠陥は、
一つは、同一性のロゴス、差異のロゴスの2つを認めずに、いっしょくたにして、ロゴス一般を否定してしまったこと、
一つは、音声言語にも、差異のロゴスがありうるのであるし、また、視覚を通しても差異のロゴスはあることを、看過したこと、
一つは、同一性(構造)の脱構築、解体を説いたものの、その後における差異という事象を積極的に取り上げて、新構築、即ち、理論化しなかったことである。





生命とは何か:生と死のシステムについて

先に、差異の連結が有限であると言いました。すなわち、差異の連結は、それ自体の力、強度をもっていますが、それが有限であるということでもあります。差異1と差異2との間に、極性力、±がありますが、それが、有限ということです。この強度の発現であると考えられる、磁気を考えてみてください。永久磁石とは、実は、永久ではなくて、長期磁気を保持する磁石ということです。あるいは、電池を考えればすぐわかります。単三の電池は有限です。
 この有限性を、私は、イデア界における差異の回転に求めました。すなわち、不連続的差異の共立するイデア界、即ち、ガウス平面において、1/4回転、90度回転すると、差異が連結するメディア界を形成します。ここで、差異の強度が発生します。しかし、イデア界の差異は、さらに回転すると想定されます(これは、作業仮説ですが)。すると、差異の連結の強度が弱化ないし衰退します。それは、脱メディア界化ということになります。これは、イデア界の虚力によるのですが、この脱メディア界化を−強度と呼ぶことができると思います。すなわち、メディア界の差異の連結の力である強度は、プラス強度、+強度であり、メディア界を解体する力をマイナス強度、−強度と呼べるでしょう。この−強度が、生命の死をもたらすと考えられます。死への指向であります。老化であります。ところで、ついでに言いますと、1/2回転、180度回転すると、生命体の完全な死となると思います。そして、3/4回転、270度回転すると、再び、差異が連結します。これは、再生、復活ではないでしょうか。そして、4/4回転、360度回転して、再び、イデア界の出発点(スタート・ライン)に回帰します。これは、差異の母胎のようなものでしょう。しかしながら、これも、死ではないでしょうか。すると、二つの生と二つの死があることになります。0/4回転、ゼロ度の死と1/2回転、180度の死、そそして、1/4回転、90度回転の生と3/4回転、270度回転の生です。これらは何を意味しているのでしょうか。それらは、対称的です。鏡像のように正反対です。私の今の直感では、男女の差異のようなものを意味するのではと思います。あるいは、反世界、反物質の世界です。ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」を想起します。
 とまれ、これで、生命体の生と死とのシステムについて、不連続的差異論から再確認してみました。