不連続的差異論入門:その11

ユダヤキリスト教イスラム教の違いについて

先の連結卵点の記事で、本件について言及したが、ここで、簡単に整理したい。
 ここでも、メディア界の連結卵点を起点としよう。ここは、多神教一神教の契機となる。なぜなら、一点に集約されているからである。しかし、ここからの進展は、2通りあるのである。

1.ユダヤキリスト教の場合:この連結卵点を、いわば、簒奪するようにして、取り込んで、イデア界の虚力を反動化させて、それと連続・同一性の自我主義とを結合させて、自我主義的超越神を形成した。(p.s. ここで、訂正したい。「イデア界の虚力を反動化させて」とここで述べているが、それは誤りである。イデア界の虚力によるメディア界の強度による捩じりから連続・同一性の現象界が形成されるのであるから、ユダヤキリスト教の場合、反動ではなくて、必然的展開と言えるのである。イデア界の虚力の必然的展開としての連続・同一性=自我主義化である。そして、今日、この展開は終了したということであり、新たな展開点に達しているということである。)

2.イスラム教の場合:連結卵点を肯定的に内包してイデア界の虚力と結合するのである。つまり、連結卵点の一点がイデア界の虚力と結びつき、超越一神となるのである。簡単に言うと、連結卵点が、メディア界からイデア界へと高まったと言えるだろう。

以上のように考えると、イスラム教におけるタウヒード(存在の一性)であるが、それは、メディア界という個を包摂した一性であり、中世の哲学者ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性と通じるだろう。この存在の一義性という思想は、スピノザへ、そして、ドゥルーズ(&ガタリ)へと発展的に継承されたと考えられている。(不連続的差異論は、この進展・創造的路線にあるのである。)だから、イスラム教の一神教性とは、存在の一義性であり、メディア界を肯定して、展開したイデア界的宗教と言えよう。つまり、イスラム教とは、漱石の則天去私に近いのである。個はあるが、自我がないのである。つまり、差異の共存性を志向した宗教であるのであり、差異を排斥する自我宗義のユダヤキリスト教とは全く異質の、別個の宗教であると言わなくてはならない。両者を一神教と呼ぶのは、途方もなく犯罪的である。 
 とまれ、メディア界から正反対の方向を向いた「一神教」がこれで確認できたのである。差異共存志向と差異排斥自我志向である。ここで、今村仁司氏が、イスラム教をスピノザ哲学との類似性を述べていることを想起すべきである。さらに、後者は、前者を徹底したような形であると述べているのである。そう、スピノザ哲学は、デカルト哲学のコギトのもつメディア界性を取り込んでいるメディア界の哲学であり、イスラム教と類似するのは、納得できるのである。ここで、先に、仏教が、ウパニシャッド哲学のアートマンと意外に結びつくことが言ったが、これも結局、メディア界思想であるからである。すると、インド哲学・宗教は、イスラム教、スピノザ哲学と繋がるのである。井筒俊彦氏が、『意識と本質 東洋哲学の共時的構造化のために』(岩波文庫)で、アジア哲学として東洋哲学の共通基盤を探究されていたが、それは、メディア界哲学として普遍化できると思う。(これは、また、フランス哲学に通じるのであるが。そして、英米系の哲学は、メディア界を排斥した、連続・同一性の自我・現象界を中心としたものと言えるのではないだろうか。論理実証主義は正に最たるものであろう。)
 ずいぶん、飛躍したが、これで、イスラム教の構造が明らかになったであろう。それを一神教と呼ぶならば、内在的一神教と呼ぶべきであり、ユダヤキリスト教は超越的一神教と呼ぶべきであろう。あるいは、差異的一神教と同一性的一神教の別である。一の意味が正反対である。差異を基礎づけるものとしてのイデア界的一であり、他方は、連続・同一性=自我を基礎づける反動的なイデア界的一である。
 ここで、ついでであるが、父権神話に見られる天地創造に言及したい。それは、母なる混沌を英雄が天地に分離することから創造されるのであるが、これを不連続的差異論の観点から、ここで簡単に触れたい。母なる混沌とは、メディア界のことである。このメディア界を、天と地に、2項対立的に、ヒエラルキー的に分離するのであるが、天が「父」となり、地が「母」(邪悪として)となる。英雄とは、自我主義の英雄であると考えられる。肥大膨張した自我意識をもった英雄が、メディア界を切り裂くのである。これは、イデア面ーメディア界ー現象面というメディア界で考えると、このメディア界の両極性(陰陽性)を単純な二元論にするのであるが、このメカニズムを考えると、メディア界を捩じるようにして連続・同一性の自我が発現するのであるが、この捩じりにおいて、イデア面の差異共立性は排出される。そう、この捩じりとは、もともと、イデア界の虚力に拠るのであるから、当然、イデア界に連動する形として、メディア界の排斥である連続・同一性=自我主義の父権神話(さらには、超越的一神教)は発生すると考えられるだろう。結局、父権神話は、連続・同一性=自我主義を「天」とし、そして、排斥するメディア界を「地」とするのだ。そして、これが徹底したのが、超越的一神教であるユダヤ教であり、キリスト教である。ここのパースペクティブ(展望)から見ると、イスラム教は、排斥されたメディア界の復活・復権であり、ユダヤキリスト教の矯正・修正であるとさえ言えるだろう。また、父権神話や超越的一神教に破壊された母権神話、女神神話の一種、復権・復活であるとも言えるだろう。(イスラム教のシンボルは月である。月は当然、イシス等女神のシンボルである。)これは、イデア界の回転が1/4回転、90度回転を越えたということを意味しているのではないだろうか。というか、1/2回転、180度回転を意味しているのかもしれない。
 さて、とまれ、父権神話の天地創造の天地分離について説明ができたであろう。これは、近代西欧米の文明に帰結したと言えるだろう。今や、ポスト近代西欧米の「文明」の時代である。不連続的差異論の時代である。イスラム教はその宗教的変奏と見られるだろう。
 
 




不連続的差異論のメディア界と現象界上のメディア界

前者は、身体感覚意識をもつ。後者、たとえば、ITメディア、ネットはどうなのだろうか。ブログの場合、個の本音を伝達することができる。すなわち、連続・同一性である自我という建前から離れて、個として、個のもつ感覚意識を表出、伝達できるのである。これは、自己の差異、自己のメディア界性を表現しているのであるから、 不連続的差異論のメディア界とブログ・メディアは、差異、特異性という点で、共通すると言えるのである。
 脱近代日本化、ポスト近代化のために、ブログは、必須のtoolということになるのだろう。

p.s. 本音は、「音」となる。本「音」とは、先に私が、音楽論で触れたメディア・トーンと通じるのである。そう、メディア・トーン=本音である。ならば、敷延すれば、ブログの勃興は、日本の音楽を甦らせる可能性がある。もっとも、音楽だけではないが。





再考:差異の連結について:連結卵点は成り立つか

先の連結卵点という仮説を再考したい。d1⇔d2⇔・・・⇔dnが、収縮してほぼ点になるのはいいとして、それが、正多角形を形成するのはどう説明できるのか。つまり、収縮しても、以上の順番、順列は残っているからだ。問題点は、d1とdnとを実際に、つなげることができるかどうかにある。実際、たとえば、
ーd1+ーd2+ー・・・ー+dn+
となる。だから、ーd1とdn+の極性が引きつける可能性はある。では、超ミクロの状態で、それらが引きつけ合い、連結するとしよう。これは、どういうことだろうか。⇔は、無限小である。だから、dn+ーd1+ー・・・+ーdn+ーd1と状態となると考えられる。こうすれば、連環・円環が形成されるだろう。 
 ということで、いちおう、連結卵点の仮説は、成立しえるということである。





差異の連結とは何か:メディア界の共立/連結/連続とは何か

私は、これまで、形態の構造の原因を考えて、差異の連環・円環をメディア界に仮定して話を進めてきたが、これについて、再検討しよう。
d1⇔d2⇔d3⇔・・・⇔dn
これが標準のメディア界における差異の連結である。この連結は、一種ゼロにすることができる(本当は、疑似ゼロである)。あるいは、収縮、縮約させて、一点にすることができる。これを、とりあえず、連結卵点と呼ぼう。すると、この連結卵点は、連環・円環化するのである。すると、この卵点には、多様な幾何学を内包していることになろう。とりわけ、正多角形であるが。しかし、正多角形以外に、多様な幾何学を内在させている。この連結卵点はいわばミクロコスモスであり、マクロコスモスを秘めていると言える。そう、古代の神話に出てくる卵は、これを意味しているのではないだろうか。すべての原点として、また、プラトンのコーラもこれではないだろうか。この連結卵点が、幾何学の原点であると考えられる。ここから、たとえば、朝顔を簡単に表現できるだろう。朝顔とは、連結卵点の一様相としての記述できる。そう、連結卵点とは、普遍卵点である。また、神話の豊饒の角もこれではないだろうか。また、聖書のアーク(聖櫃)や、聖杯もこれではないだろうか。
 しかしながら、注意すべきは、この連結卵点の差異の連結、正確に言えば、差異の連結の連結的連続化とは、擬制であるということである。これは、そのように見えると言うべきである。3つの差異から正三角形が形成されるが、それは、正三角形のように見えるということである。
 さて、以上で、差異の連環・円環化に対する第三の仮説を提起したことになる。私見では、この仮説が、今のところ、一番説得力があると思う。つまり、こうすると、先の2つよりも、全現象をより整合的に記述できるからである。たとえば、連結卵点にすれば、差異の連結を重ねる必要がなくなるのである。差異の連結の一種の集合から、差異の連結の連結が説明できるのである。朝顔の双葉、三葉、五弁の花、螺旋の蔓等、これらが、一つの差異連結、連結卵点で説明できるのである。一つの差異の連結から朝顔の複合体が説明できるのである。

p.s. この連結卵点は、一神教の神とつながるのはないだろうかと思った。私はこれまで、一神教ユダヤキリスト教)は、メディア界を否定する連続・同一性から発現したと考えていた。そして、メディア界的多神教性を否定する超越的意志(イデア界的意志)をもっていると考えた。しかし、連結卵点は、一点であるから、これを、メディア界からイデア界へと超越化すれば、一神教となるはずである。では、この超越化とは何か。これは、メディア界的特異性を介したイデア界の虚力とメディア界の一体化性が結合して発現したものと言えるのではないだろうか。そう、メディア界のイデア面のイデア界性と、連続・同一性の自我とが結合して発生したものではないか。イデア界性があるものの、その差異共立・共存性は、連続・同一性の自我主義によって、排出されているのである。だから、反動的イデア界的連続・同一性的自我主知である。連結卵点にすると、一が明快になるのである。
 しかし、イスラム教の場合はこれとは異なると考えられる。即ち、差異共存性をもって、一としてのイデア界性を志向する一神教である。それは、多神教を内包した、それからの一神教への肯定的な発展である。ユダヤキリスト教は、多神教を否定し、排出した、自我中心主義的なものであるが、イスラム教は、多神教を否定はしているが、しかし、その要素を包摂したイデア界的一神教と考えられるのである。後で、別の記事でもう少し整理したい。