不連続的差異論入門:その12

北の思考と南の思考:自我と差異

私は、以前、一神教の誕生と、苛酷な環境である砂漠とが結びついていると言った。即ち、メディア界的受動の考え方を乗り越えて、自らの意志で、切り開く能動・攻撃的な発想は、砂漠という苛烈な環境がふさわしいだろうと考えた。しかし、先に述べたように、二つの一神教があるのである。イスラム教は、一神教とは言え、差異共存性を強くもっているのであり、それは、私が先に考えた砂漠の宗教観とは異なるのである。
 結局、2種類の考え方が、存するのである。一方は、差異を肯定し、他方は、差異を否定して、連続・同一性=自我を肯定するのである。「西洋文明」の特徴は、両者の要素をもって、その対立から創造して進展したことである。西洋文明を簡単にゲルマン的要素とラテン的要素に分けるならば、この両者の接点に創造が生まれたと言えるだろう。これを、アルプス北部とアルプス南部に分けて考えてもいいだろう。北国と南国に分けて考えてもいいだろう。(西欧とは、北に属するのである。)父権的遊牧民族と母権的農耕民族に分けてもいいだろう。前者は、自我の文化であり、後者は、差異の文化である。そして、キリスト教は、当然、前者に重なり、異教(多神教、母権的宗教等)は、後者に重なる。前者は闇であり、後者は光である。前者は、自然が厳しく、後者は、自然に恵まれている。
 これを不連続的差異論から見ると、前者は、現象界の文化であり、後者は、メディア界の文化である。とまれ、この両要素が両極性のように、「西洋文明」には存している。帝国主義植民地主義、グローバリゼーションの西洋は、前者である。民主主義、科学的精神、創造性の西洋は、後者である。これは、宗教改革の文化とルネッサンスの文化と分けることができる。(ここで、読者に問題を投げ掛けよう。近代日本は、どちらの西洋をモデルにしたのだろうかという問題です。あるいは、戦後の日本は。)
 二つの西洋があります。そして、冷戦の終了は、北の西洋が、南の西洋を圧するようなグローバリゼーションをもたらしました。(もっとも、グローバリゼーションも実は、二重ですが、北の要素が強いでしょう。)現在、足踏み状態のEUですが、それは、南の西洋です。つまり、差異の共立共存の文化・社会です。メディア界的思考です。
 とまれ、現在、世界は、北の発想が中心となり、貧富の較差拡大しています。自我中心主義ですから、他者と争い、他者を攻撃し、排斥します。これが、資本主義と結びついています。北の資本主義です。私は、宗教改革プロテスタンティズム)型の資本主義と考えています。しかし、南の発想があります。それを、私は、ルネッサンス型資本主義と呼んでいます。あるいは、差異・メディア界的資本主義です。私見では、北の発想は、もう人間や自然が生存していくにはふさわしくないものになっていると考えています。イラク戦争は、北の発想です。また、原発や環境破壊も北の発想です。つまり、西洋文明は、内在していた二重性のうち、北の発想が南の発想を大きく越えてしまったと思います。そして、北の発想、思考は、理性(理性は、メディア界、南の発想に基づく)の制御を受けなくなってしまっています。これは、西洋文明が、己を失ったことでもあるでしょう。というか、北の発想は必然的に南の発想を蹂躙するのです。そして、北の発想の果てに達したと言えるでしょう。すなわち、西洋文明は役割を今や終えたのです。喪失した南の発想を復活新生させて、世界を甦らせなくてはならないでしょう。新ルネッサンスです。
 さて、日本に目を遣ると、完全に北の発想が南の発想を撲滅してしまったような状態です。小泉内閣は、その最たるものです。日本は、北の発想のアメリカの出先機関です。アメリカの行政の支所です。また、その他、様々な問題を抱えています。ここで、南の文化、差異の文化へとパラダイム・シフトする必要があります。必然性です。生き延びるためにはそうするしかないのです。南の思考への転換です。不連続的差異論は、南の思考の究極の理論と言えます。ポスト西洋文明のエポックなのです。