不連続的差異論入門:その13

現象界の力とは何か:メディア界の差異・強度不可分一体性と連続的虚構性

メディア界の発出として現象界を考えることができるだろう。つまり、メディア界の変容としての現象界である。だから、メディア界即非現象界である。(即非とは、等号と同時に不等号を意味する。鈴木大拙の用語である。)現象界の力は、確かに、存在するが、それは、メディア界の力、強度の変容(変成)である。このメディア界と現象界の関係が複雑である。現象界はメディア界の変容でありながら、独立した領域である。独立した力をもつ。メディア界の強度が変容した現象の力(現象力)があるのである。このメディア界の強度と現象界の力の即非の関係を、相対性理論量子力学は記述していると思われる。時空の相対性とは、メディア界の差異・強度不可分一体(「不二一元論」:ヴェーダーンタ哲学)を意味するものであるが、時空相対性という現象界は、メディア界そのものではない。そして、粒子と波動の相補性とは、同様に、メディア界の差異・強度の不可分一体(「不二一元論」)を意味しているが、しかし、メディア界の事象そのものではない。いわば、メディア界の事象とは「物自体」であり、現象界とは「物自体」の仮象・現れ・見えである。思うに、現象界は二重である。真実在としては、「物自体」であるが、「物自体」そのものとして現われているものではない。それを言わば隠蔽する「仮象」(マーヤー)として、擬制として現われている。これは、連続体である。的確に言えば、連続的虚構である。結局、現象界とは、同時に、連続的虚構であり、メディア界的事象=「物自体」である。
 さて、ここで自然科学のことに言及すると、近代自然科学(古典的自然科学)とは、現象界の連続的虚構を対象として科学であったと言えよう。これは、近似値的には正しい。そして、20世紀の現代自然科学(相対性理論量子力学分子生物学等)は、メディア界的事象=「物自体」を対象とするものになっているのである。これは、現象界の連続的虚構とは異質な世界であるために、一般に理解されないのである。しかし、現代自然科学は、「物自体」、メディア界を対象としてはいるものの、記述が現象界の物質主義によるので、不十分な記述しかできないと考えられる。新しい酒を古い革袋に入れているのである。(ODA ウォッチャーズ氏の『不連続的差異論ノート』は、メディア界ないしイデア界からの視点で、自然を把捉している。)いや、むしろ、対象が、メディア界であることに気付いていないのである。それは、現代自然科学の基礎理論、哲学的基礎理論(理念)がまったく不十分だからである。
 以上から、現象界の力、現象力が何を意味しているのかわかるだろう。それは、端的に、メディア界の力(差異・強度不可分一体の力)である。しかし、一般に、現象界の連続的虚構性(真理の近似値、疑似値)によって、覆われてしまっているのである。





ハイデガー西田幾多郎

根井康之氏の『現代自然科学と哲学』(農文協)を拾い読みして、ハイデガー西田幾多郎の哲学について考えた。ハイデガーの存在とは、メディア界における総体的な差異の連結を指しているようだ。そして、現存在(世界内存在)とは、そのような総体的な差異の連結が、現象化したものであると考えられる。だから、ほとんど、キルケゴール哲学である。そして、実存とは、現存在(世界内存在)の指向性のことだろう。だから、フッサールの志向性と少し似ている。しかし、フッサールの志向性は、内在的、即自的な志向性であるのに対して、ハイデガーの実存は、後のサルトルのそれに似て、対自化された志向性であると思う。
 では、西田哲学の「矛盾的自己同一」であるが、それは、私見では、ハイデガーを越えているのではと思う。「個物と個物との相互限定即一般者の自己限定」(p.220)という表現であるが、「個物と個物との相互限定」とは、正に、メディア界の差異と差異との連結であり、また、「一般者の自己限定」とは、ほぼ、イデア界の差異の共立を指していると考えられるのである。ただし、西田は、これを全一として、一元論にしてしまっている。これは、全体主義につながるだろう。結局、西田哲学は、メディア界からイデア界へと指向したが、やはり、メディア界のもつ両義性、即ち、連続/不連続性に囚われていたと考えられるのである。





フッサール哲学とメディア界

フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読み出しています。諸学は、原語では、Wissenschaftenとなっていますから、諸科学と考えた方が、明快でしょう。さて、フッサールの科学批判と科学以前の直観(ないし直感)的世界(生活世界)の提唱は、直観的によくわかります。彼の発想は、正に、近代西欧文化批判であり、近代合理主義批判という点では、ニーチェと共通します。不連続的差異論の見地から、フッサールの生活世界(思うに、これは、生命世界、生世界としてもいいと思われる)は、メディア界に即した世界であると考えられますし、ニーチェの哲学は、イデア界的ですが、実は、連続・同一性の自我の側面が入っているために、ちょうど、新たなイデア界的視点とこれまでの現象界的視点が混淆していて、新旧の分岐点・分水嶺に存するものと考えられます。私見では、フッサールは、メディア界、さらには、イデア界から現象界を捉え直そうとしたのだと思います。メディア界の差異の差異への志向を捉えていたと思います。だから、フッサールも仏教的です。デリダは、フッサールを批判しましたが、デリダフッサールは、それほど距離はないのではと思います。両者、現代仏教哲学です。





地震等の予知

太陽系が諸差異の連結としますと、この強度の変様によって、「波動」が不調和になるときがあると思います。この不調和のときに、地震等が起きやすいのではないでしょうか。
 それはともあれ、断層とは、差異と差異とのズレです。このズレは、差異の強度です。この強度を測定するようにすればいいのではと思われます。いわば、断層、地層の「気」、「龍脈」を測定することです。これは、電磁波等となって発現するでしょう。あるいは、人間以外の生物は、メディア界を生きているので、メディア界の強度の感度があり、地層の強度変化を感覚すると思います。動物の動きの変異がよく観察されます。ですから、少なくとも、地層強度観測体制が作られるべきでしょう。動物占いも、思うに、元々はそのようなものだったのではと思います。とまれ、地層強度は実際に存在すると考えられますので、間接的にも、なんらかの地層強度観測装置が可能ではないでしょうか。





物質と生命体との関係について

差異連結difference connection(略して、dc)の複合体が、有機体であり、生命体となります。有機体と生命体との違いは、遺伝子にあるのでないでしょうか。指令書があり、それが、有機体を作動させているのでしょう。この遺伝子という指令書の有無が有機体と生命体との違いのように思います。 
 遺伝子という生命体の指令書は、いわば「イデア」です。差異連結dcの複合体complex、差異連結複合体(dcc)です。先に、差異連結が解体するのが死と言いました。では、新陳代謝はどういうシステムによるのでしょうか。それは、解体しつつある差異連結を補充するシステムではないかと思われます。一種補修工事のようなものではないかと思います。 
 では、ホルモン、血液、神経、等々の重要な伝達物質とはどう表記できるでしょうか。それらは、メディア界の強度、差異連結の複合体(dcc)間の諸強度だと思います。強度が差異連結間で、諸様相化されます。この様相が多様に物質化されているのだと考えられます。強度はまた「気」でもあります。この「気」の通路が経絡であり、これは、生命体メディア界の強度分布、強度地図と考えられます。
 次に、病気、健康を考えますと、差異連結間の強度の「波動」に関係するでしょう。共立できない波動同士は、破壊的に作用するでしょう。差異連結の共立・共感をもたらす強度関係が健康であり、そうでないのが病気ではないでしょうか。オルターナティブな療法とは、差異連結の共立・共感をもたらす方法ではないでしょうか。