不連続的差異論入門:その15

超越論的差異とポスト近代主義

メディア界、メディア素(差異の連結)における「知覚」とは何であろうか。プラトンの想起説を思わせる。あるいは、先験的な認識を。また、確かに、超越論的である。フッサーを想起する。
 また、この超越論的即自的認識と現象界的対自的認識との「差異」とは何だろうか。前者は、いわゆるイデア論となるし、後者は、経験論となる。ハイデガーの現存在は、後者である。また、スピノザ哲学は、前者をベースにして、後者を能動的に概念的に包摂する。カントは、前者を超越論的形式と理性に分離した。私が考えているのは、前者にとって、後者は何かである。思うに、前者は直観的なものであり、特異性である。それは、また、他者を指向するから、後者を取り込もうとするはずである。しかし、そこには、自我の問題がある。前者にとって、他者との共存を指向するのに対して、現象界的現実は、自我的暴力の世界である。連続・同一性の世界である。だから、前者にとって、現象界は、疎外的な場所である。違和感のある場所である。この不調和に、たとえば、カミュの不条理性が存するだろう。また、グノーシス主義も成立するだろう。
 とまれ、二つの世界があるのだ。超越論的即自性による世界と自我に基づく世界。そして、叡知とは、前者を説き、後者を批判してきたのだ。この構図は変わらない。問題は、近代主義になり、後者優先となり、前者が無視、喪失されたことである。叡知の喪失が、近代主義にはあるのである。ポストモダンとは、これに対する批判であり、叡知の復権・復活の試論である。しかし、ポストモダニズムは、いわば、頓挫してしまった。なぜだろうか。それは、近代主義のアンチテーゼの側面が強く、また、近代主義、近代西欧主義の枠に囚われていたからだと思う。一言でいえば、叡知界を失っていたのである。その喪失は、ある意味で、必然性があるのだ。すなわち、メディア界とイデア界を混同するほとんど必然的傾向が、人間の認識にはあるからである。コギトの「近代」は、揺れるのである。そう、恐ろしい閉塞があるのである。外在としてある現象界と内的な事象との関係の付け方が混乱したのである。前者に基づく近代科学によって、唯物論的科学によって、後者は限定され、叡知界を喪失したのである。そう、近代は恐ろしい闇なのである。牢獄である。また、狂気である。叡知喪失の近代は、史的にもっとも恐ろしい時代である(あった)。過去のいかなる時代によりも、戦争、暴力、狂気に取り憑かれたからである。近代からの出口を多くの天才たちが探究した。しかし、叡知の伝統がほとんど断ち切られていたのである。あるいは、叡知の伝統が、堕落していたのである。つまり、オカルト主義、神秘主義新興宗教等に堕してしまったのである。近代主義へのアンチテーゼではあっても、積極的な乗り越えではなかった。とまれ、西欧のポスト近代主義の知の動きは、総体的に見て、最も能動的であったことは評価すべきである。結局、グローバリゼーションという近代的資本主義の最終段階とポスト近代的資本主義の始まりの時代となった。そして、アフガン、イラク戦争が起こった。近代主義は政治的、経済的に、終焉したのである。(郵政民営化問題とは、この嵐を意味している。)そう、グローバリゼーションのもつポスト近代主義が、今や、現象的にはっきり襲来しているのである。地球・世界・国際経済が主流となったのである。しかるに、理論として、ポスト近代主義は、流行として捉えられてしまった。しかし、今こそ、ポスト近代主義の時代なのである。これは、あらゆる連続的構築を破壊するのである。そして、デカルトのように、コギトに還元されるのである。単独性、特異性としての個に還元され、そこから、再出発することになるのである。そして、個と個とが共立する関係を指向するのである。これが、ポスト近代主義の本質である。そして、ほぼ、ドゥルーズ(&ガタリ)は、これに達していた。しかし、理論的には、不徹底であったのである。そして、これを批判的に継承して創造されたのが不連続的差異論である。これは、真に哲学的な、統一的な理論(仮説)であると考えられる。ほとんど主要な領域を総合・包括・包摂した理論である。そして、この理論は、内容にふさわしく、個の連結から生まれたのである。ネットによるコラボレーションで誕生したのである。不連続的な差異の連結であるネット、ウェブログで生まれたのである。
 ということで、ポスト近代主義への道具はそろったのである。不連続的差異としての国際政治・経済、理論としての不連続的差異論、そして、不連続的差異のメディアとしての、インターネットである。「三種の神器」である。





メディア素脳、メディア素感覚・意識・記憶、メディア素知性

メディア素の考えから、メディア素記憶ないしメディア素記憶媒体ということを考えたが、もともとは、メディア素身心性ないし身体性である。だから、メディア素脳と呼ぶこともできる。正確に言えば、メディア素感覚・意識・記憶である。だから、メディア素知性でもいい。今は、命名を決定しないでおく。

p.s. メディア素叡知、メディア素グノーシス、メディア素感知体、メディア素超越知性、等浮かぶ

p.p.s. メディア素超感覚体。メディア素超意識。メディア素感覚・記憶体。メディア素感記体。

3p.s. 結局、メディア素記憶体でいいのかもしれない。